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現在、未来、過去と海  作者: 愛田光希
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第一章 現実の世界

 電気を消したリビングに、人の気配が二つあった。一人は男。そしてもう一人は女だった。二人はソファーの上で向かい合って互いに互いの唇で口を塞いでいた。

 二人は一頻り、口付けを堪能した後、唇を離した。

 少し息切れを起こした女が男に囁くように言う。

「うふふ。まだ、信じられない。夏木君が私の願いを聞き入れてくれるなんて」

「まだ始まったばかりだろう? 由香」

 そう返した男、夏木涼なつきりょうはゆっくりと香田由香こうだゆかの首筋にキスをした。

 今朝、涼は由香に声を掛けられた。同じ大学に通う彼女は美人で有名で、男子学生の高値の華だった。そんな彼女が人気の少ない裏庭で彼を呼びとめ、言ったのだ。あなたと一夜を共にしたいという彼女の願いを。 

 涼は意志の強そうな眉に、二重の丸い瞳、しっかりとした鼻に形の良い唇をしている。中々に整った顔立ちだ。高校でもモテていた涼だったが、女性の方からこういうことを言われたのは初めてだった。

 涼は彼女にキスをしながら、彼女の胸のボタンを外していく。

 その時、玄関の方から鍵を回す音が聞こえてきた。

 二人は慌てて離れた。涼は由香に尋ねる。

「親の帰りは遅いんじゃなかったっけ?」

「そのはずなんだけど。……やばい、電気つけなきゃ」

 そういうと、由香は胸のボタンをかけなおしつつ、電気をつけるために立ち上がった。

「おい、由香。誰か来ているのか」

 男の声だった。たぶん由香の父親だろう。確か名の知れた小説家のはずだ。

 由香は慌てて、涼の隣のソファーに座った。そしてリモコンを手に取り、テレビをつけた。

 ちょうど良いタイミングで、リビングのドアが開いた。

「由香。お友達か?」

 涼の姿を見咎めたのだろう、そう男の声が聞いてきた。

「あ、お父さん。お帰りなさい。早かったのね。この人はお友達の夏木涼君。すごいでしょう、お父さんのペンネームと同じ字を書くのよ。名前の読み方が違うだけで。で、その彼に、レポートを手伝ってもらったのよ」

 由香は振り向いて、父にペラペラと嘘を並べていく。涼は呆れてその様子を見ていた。

 一応挨拶しておくか。そう思って涼は立ち上がって振り向いた。

「始めまして」

 あなたの娘さんに誘惑された男です。その言葉は胸中で言っておく。

 涼は由香の父親と目が合った。眼鏡をかけたまあ、ダンディーともいえなく無い容貌の中年男性だった。だが、彼は涼と目が合った瞬間、理知的な瞳を驚愕に見開いた。そして呟く。

「……まさか」

 そう言って、由香の父親は涼を凝視する。

「お父さん? どうしたの」

 由香が父親の異変に気づいたようだ。涼も訝しげに由香の父を見返した。

 由香の父親は顔を青ざめさせ、腕を震わせていた。

「お父さん?」

 もう一度、由香が父を呼んだ。

「何故お前まで蘇る? 何故今もその姿なんだ」

 いきなり由香の父が叫んだ。驚く涼に詰め寄ると、肩を掴んでドアに向かって突き飛ばす。

「なぜ今更現れる。娘に何をする気だ! 復讐か? そうなんだろう」

 涼は顔を顰めた。ドアにぶつかり背中が痛い。それにしても、いきなりこの人は何なのだろう。

 娘に手を出したと怒っているのか? だが彼の口走る言動は、甚だ理解不能だ。

 蘇るとか、復讐だとか何を言っているのだ。そもそも涼は彼と初対面だ。

「お父さん。どうしたのよ。ねぇ、どうしちゃったのっ」

 由香が叫んだ。顔は泣きそうにゆがんでいる。彼女の父は荒い息をしながら、娘の声を無視して叫んだ。

「さっさと出て行け。二度と俺達の前に姿を見せるな。出てけ」

 涼は何も言わなかった。一度、青白い顔の由香の父を睨みつけ、そのまま家を後にした。

 住宅街の道を大通りに向って突き進む。気分が悪い。確かに彼は娘に手をだそうとした。父親としては敵に等しい存在なのかもしれない。だが、涼はその娘に誘われただけで、あそこまで言われる筋合いは無いはずだ。

 まったく、胸くそ悪い。誰かに八つ当たりしたい気分だ。

「まって、待って夏木君」

 後ろからそう呼ばれ振り向くと、はだしにサンダルを履いた由香が走ってくるのが見えた。

 涼は立ち止まり、彼女が追いつくのを待つ。

「ゴメンね、夏木君。お父さんいつもはあんなじゃないの。もっと冷静で、知性的な人なのに」

 由香の声がだんだんと小さくなる。涼はそんな彼女を見つめ、言った。

「言うことはそれだけ?」

 涼の言葉に、由香は目を見張る。そしてすぐに口を開いた。

「あの、ごめんなさい。私から誘っておいて、こんなことになるなんて。でも次は絶対こんなこと無いようにするから。だから……」

 涼は言い募る彼女に、無表情に顔を向けて静かに彼女の言葉を遮った。

「次はないよ。君のお父さんに娘に近寄るなって言われたし、あの異常なお父さんに殺されたくないしね」

「ころっ……、殺したりしないわ。お父さんはそんなことしない。お父さんは優しい人よ」

「そう? ならそのやさしいお父さんと末永く幸せに暮らしてくれ。俺は関わりたくない」

 そう言って、涼は由香に背を向けた。由香の視線が背中に突き刺さっているのは感じるが、涼は振り向かなかった。

 暫く歩いた時、由香の怒鳴り声が聞こえた。

「あなた、最低よ」

 涼は顔を顰めたが、振り向かなかった。そのまま角を曲がった。振り向いても彼女の姿が見えなくなるように。

「最低なのは俺の気分だよ」

 涼は街灯の明かりの下、そう呟いた。

 ここをまっすぐ行けば、大通りに出る。

 ヘッドライトの群れがもうすぐ見えるだろう。

 涼はふと、由香の父が口にした奇妙な言葉を思い出した。

『なぜお前まで蘇る? なぜ今もまだその姿なんだ』

 お前まで、ということは他にも彼が蘇ったと思った人物がいたということなのだろうか? それに、もう一つの奇妙な言葉。何故今もまだ同じ姿なんだ……。

 もしかしたら、昔、自分に似た人物がいたのかも知れない。その人物は由香の父親に復讐したくなるようなことをされたのだろうか? 

 涼はその奇妙な言葉に考えをめぐらせていたが、首を振って思考を吹き飛ばした。

 考えても何も分かるわけが無い。涼は由香の父親ではないのだから。気にはなるが、また戻って聞くわけにも行かない。何せ、由香をこっぴどくふった後なのだ。

 涼はもう一度首を振った。

 そして、顔を上げると駅へ向かって歩き始めた。

 家に着くと涼は服も着替えずに、ベッドに倒れこんだ。

 今日は疲れた。せっかく大学一の美女と良い事出来るはずだったのに。とんだ肩透かしをくらってしまった。

 そう考えると、余計に脱力感が身体を襲う。

 身体の向きを変えようと身動きした拍子に、目に入ったのは電話機のルス録ボタン。そのボタンが点滅していた。

 涼は逡巡した後、ベッドから起き上がり、ルス録ボタンを押した。

 機械の声が「一件です」と告げて、録音されたメッセージが再生される。

『涼、こんな時間まで何処をほっつき歩いているんだ。夏木家の人間として恥じない生活を送れとあれほど言っているだろう。全くお前はあの女に似て、あ……』

 父親の声だった。涼の大嫌いな父親の。父は口を開けばお前はあの女の子どもだからと言って、涼を蔑む。

 涼は録音されたメッセージを途中で消去して、大きくため息をついた。ベッドに腰掛け、物思いに耽る。

 大学に受かったと同時に家を出て、一人暮らしを始めても、こうして月に一度は父親から電話がかかってくる。

 一人になれば、父親から開放されると思っていたのに、結局大学の費用も、家賃も父親に頼るしかない。

 そんな自分が嫌で嫌でたまらない。だからといって、大学を辞めて自立しようとも思えない。臆病者なのだ、自分は。

 涼はふと、先ほど別れた由香を思い出す。彼女は本当に父を好いている様に思えた。常軌を逸した父親の言動を聞いていたにも関わらず、父親を庇っていた。

 自分にそんなことは出来ない。そして少し羨ましい。そう思ってしまう自分もまた嫌だった。





 翌日の昼過ぎ、涼は友人と共に、学食で食事をとっていた。今日のB定食は豚のしょうが焼きと、フルーツサラダに味噌汁とご飯だった。

 涼はフルーツサラダに入っていたミカンを、友人の器にそっと移していた。

 その時その友人が、涼に顔を向けて口を開いた。

「おい、涼。お前は子どもか。人の皿に入れるな、ミカンを」

「片瀬ー、硬いこと言うなよ」

 涼が苦笑いしながら友人を見ると、友人は渋い顔を向けてくる。

 だが諦めたようにため息をつくと何かを思い出したように、にやけた表情を作った。涼に向かって身を乗り出した。そして小声で涼に言う。

「なあ、昨日、香田と寝たんだろう? どうだった彼女」

 涼はその言葉を聴いて、憮然とした。そういえばこの友人には話したのだ。香田由香に誘惑されたと。友人のいやらしくたれた目を半ば睨みつけるようにして、涼が口を開く。

「してねーよ」

 そう言うと、驚いたように友人は目を見開いた。

「うそ、お前マジかよ。何で? いつも手ぇ早い癖に」

「煩いな。親父に見つかったんだよ」

 憮然としたまま答えると、友人はニヤリと笑った。

「ははーん。日ごろの行いだな。それは」

「はあ?」

「日ごろの行いが悪いから、そういう不幸に見舞われるんだ。惜しかったな学校一の美女をものに出来そうだったのに。可哀そうに」

 そういいながら、同情というよりは面白がっている表情をしている友人を、涼は本気で睨んだ。

 その時である。食堂の入り口付近から涼の名を呼ぶ女性の声が、辺りに響き渡ったのは。

 その声には聞き覚えがあった。友人がその人物の名を呼んだ。

「香田由香」

 涼は振り返った。

 普段、ブランド物の服でその身を着飾っている由香だが、今日はどうやら違ったようだ。髪を振り乱し、化粧けの無い顔で涼の姿を探している。

「夏木涼。何処なの? いるんでしょう。出てきなさいよ。この人殺し」

 由香の言葉にその場が一瞬静まりかえり、そして、騒然となった。

「おい、涼。お前いつの間に人殺しになったんだ」

 からかう口調の友人を無視して、涼は立ち上がった。その涼を目に止めて、由香が走り寄ってくる。

 涼の前に来た由香は勢い良く手を振り上げて、涼の頬を平手で打った。

 涼は痛みに顔を顰めて由香を見る。

 人殺しと言われる理由も、殴られる覚えも無い。いや、殴られる覚えなら少しはあるが。

「あんたのせいよ」

 由香が叫んだ。大きな瞳に、見る間に涙が溜まり零れ落ちた。

「あんたのせいよ」

 由香は泣きながら涼の腕を掴んで揺らし始めた。

 騒然となった食堂の中、数多くの視線を受けながら、涼は戸惑っていた。

 一体何なのだろうか。昨日といい、今日といい、一体何があったと言うのだろう。

 あんたのせいだと喚き続ける由香を、どうしていいのかもわからないほど、涼は混乱していた。

 その時、最初は呆気にとられて見ていた友人が立ちあがり、由香を諌める様に口を開く。

「おい、香田。一体どうしたんだよ、落ち着けよ」

 そう言って、由香を無理やり引き剥がしてくれた。

 由香は暫く、友人の腕の中でもがいていたが、やがて諦めた様に大人しくなった。

「香田。一体何だよ。この騒ぎ。お前を拒んだ俺へのあてつけか」

 涼の言葉に、由香は何度も首を振り、そしゆっくり膝をついて床に座り込んでしまった。そのまま大声で泣き出した。

 涼は友人と目を合わせる。友人は肩を竦めた。もうどうしようもないとでも言いたげに。

 涼は膝をついて、由香の肩に手を置いて話しかけた。

「なあ、香田。いったいどうしたんだよ」

 涼の声に、由香は顔を上げた。由香は涼を睨みつけるようにその潤んだ瞳を向けて、嗚咽をかみ殺しながら呟いた。

「死んだのよ……」

 呟く様にいわれた由香の言葉に、涼は眉を寄せる。由香がなおも口を開く。さっきよりも聞き取りやすい大きな声で、こう叫んだ。

「死んだのよお父さんが。あなたのせいで」

 そう言ってまた大声で泣き出した。涼は彼女の言った意味が分からず戸惑った。

 由香の父親が死んだ? 昨日会ったばかりのあの男が。少し情緒不安定のようだったあの由香の父親が。

「死んだ? まさか……」

 暫くして泣き崩れてしまった由香を、駆けつけた学校の職員が取り囲んで彼女を食堂から連れ出した。

 それを見送りながら、涼は彼女の言葉が頭から離れず、暫くその場で石のように固まっていた。


 死んだ。

 あの父親が。

 死んだ?

 一体どうして。

 

 どうしてそれが俺のせいなのだろうか。


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