第十章 別れ
由弥は目を開くと同時に、黴くさい臭いをかいだ気がした。
身体を起こして、周りを見回すと、そこが書斎だと分かった。
昨日あのまま眠ってしまったのだろうか?
どうやらそうらしい。由弥の傍らでは、涼が静かな寝息を立てていた。
由弥は涼の安らかな寝顔を見て微笑み、窓の外に目を転じた。
空は少し白んでいる。もうすぐ夜明けなのだろうか?
それならばまだ起きるのには早いだろう。もう少し、涼の隣で眠っていようか。
由弥はそう考えたが、喉が渇いているような気がして立ち上がった。水を飲んで、またここに戻ってこよう。涼のもとに。
久しぶりに安心して眠ることが出来た。二年前から心安らかに眠れたことなど一度だってなかったのに。
そんなことを思ってドアを開けた瞬間、由弥は咳き込んだ。目に涙も溜まる。由弥は驚いて、ドアを閉めた。
暗い廊下に、何故か煙が充満していた。
火事か?
まさかと思ったが、その可能性は否定できない。あれほどの煙が廊下に満たされるのは火事以外に考えられない。
だが、火の手は見えなかった。煙で視界が悪いということもあったが、火の爆ぜるような音も聞えはしなかった。
動揺している由弥の目に、ドアの隙間から、煙が流れ込んでくるのが見えた。
由弥は慌てて、ドアから離れた。
そして涼のそばで膝をつくと涼をたたき起こした。
「涼、起きて、涼」
「んっ? 由弥」
ゆっくりと涼が由弥の顔に目の焦点をあわせて、驚いたように起き上がった。
「どうした? また何か……」
涼が言い終わる前に、由弥は叫んだ。
「涼、火事だ」
そう言って、ドアを示す。ドアから煙が流れ込んできている。その様子に、涼の眠気も吹き飛んだようだ。
「一体どうして?」
「そんなこと言っている場合じゃないよ。逃げないと」
由弥が、半ば怒鳴るように言うと、涼も頷いた。
「廊下、煙が凄いんだよな。だったらこの窓から出るか」
涼の言葉に、由弥は首を振った。
「ダメだよ。この窓は開かないように出来てる」
「どうして?」
「一度、風で大事な書類が飛んでいってしまったことがあってね、その時、父さんが窓を打ち付けてしまった」
涼はちっと舌打ちした。そうこうしている間にも、煙はどんどんと部屋に入ってくる。息苦しくなってきた。
「涼、とりあえず、脱衣所まで行こう」
由弥の提案に、涼が妙な顔をした。
「どうして?」
「あそこには大きな鏡がある。あの鏡なら涼を未来に返してあげることが出来る」
「バカ言うなよ、こんな状況で帰れって言うのか? お前を置いて? ふざけんな」
涼は怒鳴った。だが、由弥はひかなかった。
「だからって、いつまでもここにいて、二人して死んでも洒落にならない。それに、風呂場の窓から僕は逃げることが出来る。君がここに残って、逃げることが出来たとしても、警察とかが来てややこしいことになる可能性が高い。だったら今のうちに君を未来に帰したい」
由弥の必死の言葉に、涼は暫く考えるようにしていたが、小さくこう答えた。
「本当に、お前も逃げ出せるんだな」
由弥はしっかりと頷いた。
二人は大きく息を吸い込むとドアを開けた。口元を腕で覆うが、煙は容赦なく二人の口に入り込む。途端に咳が出るが、そんなことに構ってはいられない。
酷く悪い視界の中、由弥は、涼に手を引っ張られながら、廊下を進む。
煙ばかりで、火の手は見えない。だが、確実に煙の量は増していた。
やっとの思いで脱衣所にたどり着く。慌てて扉を閉めて、煙を追い出す。ここはまだ差ほど煙に犯されていなかった。
二人して、荒い呼吸を繰り返し、咳をした。
それが少し落ち着いてから、由弥は脱衣所の鏡の前に立った。
昔、幾度となくしてきたように、鏡の前に手をかざした。
涼はそんな由弥をじっと見つめていた。だが、話し掛けてはこなかった。
由弥は目を瞑り、集中した。
そして鏡の中に映る由弥の姿が揺れた。
渦を巻くように由弥の姿が鏡の中から消えた。
その様子を涼はただ唖然としてみていた。前の時と同じ現象が起こっていた。
鏡が赤く光りだした。
由弥は目を開けた。
「涼、鏡の前に立って。自分のいた時代を思い出して、帰りたいって念じるんだ」
「由弥、やっぱり、俺……」
涼の言葉を最後まで聞かず、由弥は首を横に振る。
いつの間にかここにも、煙がゆっくりと入ってきている。呼吸が苦しくなる、目が痛い。
「涼、僕は大丈夫だから。三十年後にまた逢おう」
由弥はそう言って微笑んだ。
「由弥……」
「涼、君が早く行ってくれないと僕も逃げられない」
由弥の言葉に、涼は決心する。鏡に腕を伸ばした。もし自分が躊躇していたせいで由弥が死ぬようなことになったら。そんなことが、あってはならない。
「由弥。三十年後に、またあの公園で」
「ああ、逢えるのを楽しみにしてる」
その声を耳にした直後。涼は身体が鏡の中へ引っ張られるのを感じた。
涼のさよならと言う言葉は由弥に届いただろうか。
涼は浮遊感を覚えた後、身体が宙に放り出されるのを感じた。そしてすぐに痛みが襲った。
鏡から抜け出たのだと分かったのはそのすぐ後。
ゆっくりと周りを見回すと、そこは由弥の家ではなく見覚えのある公園だった。ここから自分の住むマンションも見える。
戻ってこれたんだと思った瞬間、視界が揺らいだ。気分が悪い。吐き気がする。
煙を吸いすぎたのかも知れない。
涼は気を失った。気を失う直前涼の口から漏れたのは由弥の名前だった。
由弥は涼が鏡の中に吸い込まれたのを確認してほっとする。鏡はすでにいつもの風景を映し出していた。
その時、何か音が聞えた気がした。何かが倒れたか、ぶつかったかした音に思えた。
誰かいるのか?
由弥は訝った。いるとしたらこの家に火をつけた犯人だろうか。
それとも火事に気づいて誰かが僕らを助けに来てくれたのだろうか。
そう思ったとき、ドアが勢い良く開いた。
現れた人物をみて、由弥は目を見張った。
何故、まだこの男がいるんだ。
涼に殴られて帰ったんじゃなかったのか。
「由弥、お前もここから逃げる気だったのか?」
「何で、あんたが、ここに」
そう言った時、由弥は気づいた。洋輔が何かを手に持っていることに。それは由弥の大切にしているノート。小説のネタを書き込んでいるノートだった。
「それ、どうして……」
「これさえあれば、お前がいなくても俺はやっていけるんだ」
「お、お前が火をつけたのか?」
洋輔は否定も肯定もしなかった。ただ狂ったように笑い出した。
「お前などいなくても、俺は、俺は、ははははははは」
洋輔は笑いながら、由弥の首に手を伸ばし、締め付けた。
ただでさえ、煙で朦朧としている意識はすぐに由弥から離れていく。
由弥は意識がなくなる寸前に、鏡を見た。そこには苦痛に顔をゆがめた自分しか見えなかった。
次に意識を取り戻した時、由弥は自分が既に死んでいるのだと思った。目を開けているのに周りは暗いし、息苦しい。
咳が出る。
咳が出る?
由弥は身体を起こした。
彼の身体を半ば包みこむように、黒い煙が覆っている。少しからだを動かしただけで、吐き気が込み上げてきて、由弥は嘔吐した。
それが収まると、由弥は袖で口を覆って、周りに目を凝らす。まだ、ここは脱衣所のようだ。
ドアの向こうが赤い。それに熱かった。火がもうそこまで迫ってきているのだろう。
由弥はゆっくりと立ち上がった。壁に手を付いて、風呂場まで行こうとしたが、身体が言うことを聞かない。酷く疲れている。
それでも懸命に手を壁に付いて前進する。
その時、ふと、壁とは別の感触が掌に伝わってきたのを由弥は感じた。
つるつるとした感触を確かめて、それが涼を飲み込んでいった鏡だということを知る。
由弥は涼にみせたように、もう一度目を閉じて、念じた。
涼に逢いたい。
涼のいる世界へ行きたい。
一日に二度もこの力を使うと身体が耐えられないことは分かっていた。
だが、どうせ死ぬのなら、涼のいる世界で死にたいと思った。
だから念じた。
すると、鏡が赤く光った。由弥は身体が鏡の中に引きずりこまれるのを感じた。そして、今度は何かにたたきつけられた。
地面に落ちたのだと気づいたのは、土の匂いを感じたから。だが、由弥は目を開けることが出来なかった。ここが本当に涼のいる世界かどうかは分からなかった。
そして由弥は意識を手放した。
だから由弥は知らなかった。ここが二千三年六月一日だったということに。このときの涼はまだ、由弥の存在を知らない……。
それを由弥が知ったのは三日後の事。収容された病院で、意識が回復してからだった。