第九章 真実と現実
ふと、由弥に名前を呼ばれた気がして目が覚めた。
暗い部屋を眺めたが、由弥の姿があるはずも無く、涼はゆっくりと半身を起こした。
頭を掻いて、欠伸をする。
少し喉が渇いた。
台所に水でも飲みに行こう。
そう思って立ち上がった。
部屋を出てすぐ隣の、由弥の部屋に目をやった。しっかりとドアは閉じられている。
何となくさっき呼ばれたような気がしたが、やっぱり気のせいだったのだろう。
由弥はこのドアの向こうで眠っているはずだ。
ここへ来てもう六日たった。明日には過去へ帰ることになるのだ。
何か変な感じだ。
だが、いつまでも帰る日を先延ばしにするものでも無いと思った。
洋輔が由弥に何かするのではという思いが、涼の頭から離れないが、自分がいなければ、自分が関わらなければ、由弥も無事でいられるのでは無いか。そんな風に思うのだ。
自殺したあの男は言っていた。復讐しに来たのかと、俺が関わらなければ、由弥は何事もなく、無事に暮らせるのでは無いか。
だから、早く自分の時代に戻らなければなら無い。
何事も起こらぬうちに。
涼は台所まで来ると、食器棚からコップを取り出し、水を注いだ。蛇口からあふれ出た水は思いの外冷たい。それを喉に流し込んで一息ついた時だった。
何かが激しく倒れる音が聞えた気がした。あれは多分由弥の両親の寝室の方。
泥棒か?
涼は意を決して、音のした方角へと足を向けた。
その時、今度は悲鳴に似た声が聞こえてきた。
たすけて……
そう聞える。
この声はもしかして由弥?
涼は走り出した。
廊下を曲がった時、由弥の両親の寝室の、もう一つ奥のドアが少し開いている事に気づいた。
「助けて、涼! 助けて」
あそこだ!
涼は思い切りそのドアを開けた。
涼の目に飛び込んできたのは、仰向けに倒れた由弥の上に馬乗りになり、由弥の口を手で押さえている男の姿。
涼は切れた。
「てめー、何やってんだよ」
男の服を掴んで無理やり立ち上がらせると、思いっきり拳で顔を殴りつけた。男は勢い余って、床に尻餅をつく。
その姿が窓から入ってくる月明かりに照らされて、はっきりと涼の目に映った。
志藤洋輔……。
涼の中に沸々と怒りが込み上げてくる。
「おまえ、由弥に何やったんだよ。ふざけんな! 由弥はお前のフィアンセの弟だろうが」
そう怒鳴って、立ち上がろうとしていた洋輔に掴みかかった。
「煩いっ」
洋輔は掴みかかった涼を振り払うと、ドアに向かって駆け出した。
「待てよ、コラ」
涼がその後を追いかけようとしたとき、何かが涼の服を掴んでその動きを止めた。
振り向くと、顔面蒼白にした由弥が彼の服を掴んでいた。
「涼、行かないで」
か細い声で由弥はそう訴えてきた。涼はたまらなくなって由弥を抱きしめた。
由弥は震えていた。その振るえが彼を襲った恐怖の現われだと涼は思った。
より一層強く彼を抱きしめた涼は、由弥の痛いという声で我に返った。
慌てて体を離して、由弥と向き合った。
「由弥、お前殴られたのか?」
その時初めて涼は気づいた。由弥の頬が少し赤く晴れている。由弥は頷いた。痛々しいその姿に、怒りがまた蘇ってくる。
良く見ると服まで破かれているではないか。その破れた隙間から、浅く上下する胸板が見えている。
その時、涼は気づいた。由弥の裂かれた服の隙間から見える胸の辺りに、大きな傷跡があることに。
「由弥、その傷……」
言った瞬間、由弥は反応した。大きく身体を震わせると、破かれた服を懸命にあわせ、手で抑えて胸が見えない様に隠した。
「由弥?」
急にどうしたのかと、涼は由弥に問う。由弥は悲しげに乾いた笑みを顔に張り付かせた。
「気持ち悪いだろう? 醜いよな? こんな傷」
「由弥?」
由弥が何を言いたいのか分からず、涼はまた名を呼んだ。
「アイツにも言われた。こんな傷がある以上お前は誰にも相手にされないって」
胸の傷以上に由弥は心に大きな傷を負っているのかも知れない。
それもあの志藤洋輔という男のせいで。
涼は由弥の腕を取った。服を掴んでいた手を無理やりはがす。
また服の合間から傷跡が露になる。
「涼」
困惑した由弥を半ば無視するように、涼はその胸元に視線を送る。
「由弥、この傷、心臓病の手術した時に出来た傷?」
涼の静かな問いに、由弥も困惑の表情を浮かべながら頷いた。
「この傷が出来たお蔭で、今こうして由弥が生きているんだよな」
「……」
「それを、俺が醜いなんて言うと思ったのか? そりゃ、少しは驚いたけど、それだけだ」
「涼……」
「気持ち悪いなんて思うはず、無いじゃないか」
「……」
由弥の目に涙が浮かんだのを涼は見た。涼は何も言わずに由弥を引き寄せた。
自分の胸元に由弥の顔を押し付ける。
由弥は泣き出した。声を上げて泣き出した。
涼はそのままじっと由弥が泣き止むまで待つことにした。
どれ位経ったのだろうか。随分と長い時間が経った気がするが、正確なところは分からない。だが、由弥が大分落ち着いてきたのは事実だった。由弥は自分から、身体を離した。
「ゴメン、涼。また服濡らして」
そういえば、昨日もこうやって泣いている由弥を抱きしめたっけと思い出す。そして涼は由弥に静かに声を掛けた。
「由弥。一体どうしてこんなことになったんだ?」
本棚を背もたれ代わりにして座り、由弥を見る。由弥も並んで同じように本棚に背を預けて口を開いた。
「そうだな、助けてもらったし、もう話してもいいかな……」
独り言のように由弥は小さくそうもらすと、涼に顔を向けた。
「少し、長くなるけどいいかな」
涼はもちろんという意味を込めて頷いた。
由弥は少し、黙って何かを考えてるような顔をしていた。そして、静かに話し始めた。
「涼は軽蔑するかも知れないけど、僕は本気で姉さんを愛してた」
「え?」
いきなり思いもかけない言葉を言われて、涼は目を見張った。胸が少し痛んだ気がしたが、その理由は分からない。
「姉弟愛じゃなくて?」
「そう、一人の女として姉さんを愛してた。小さい頃から病室に一人でいることが多かった僕に、優しく接してくれる姉に本気で思いを寄せてた。」
「……」
「だから、姉さんがアイツを家に連れて来たときは驚いた。僕の元家庭教師だったしね。でも、あの頃は。僕はアイツをいい先生だと思っていたから、素直に姉の幸せを喜んだよ。本当は凄く辛かったけど、自分の全く知らない人物に取られるくらいなら、まだ先生でよかったとも思っていたよ」
そこで、由弥は一つ息を吐いた。涼は黙って由弥を見つめていた。
「僕自身、姉さんに気持ちを打ち明けるつもりも全くなかったし、これが姉さんを諦めるきっかけになるのならそれでいいと思った。だから、僕は先生とも仲良くしようとした。先生は翻訳家で小説のことにも詳しかったし。僕は、先生にアドバイスを貰いながら、小説を書いた。姉さんを忘れるためにも小説はいい逃げ場になってた」
いつの間にか、由弥は洋輔のことを先生と呼んでいた。いつもそう呼んでいたのだろう。由弥は思い出すようにゆっくりと言葉を続けた。
「書き上げた小説を先生に渡した。見てもらって批評を受けようと思って。でも、先生は中々その小説を返してくれなかった。それまでは毎日のように、姉さんに会いに来ていたのに、全く姿を現さなくなった」
「由布子さんとケンカでもしていた?」
涼が口を挟むと、由弥は苦笑して首を横にふった。
「僕もそう思ってた。姉さんに聞いたら、急な仕事が入ったのだと言ってたから、僕も疑わなかった。それから、二ヶ月近くたってから、先生がやったことに気づいたんだ。アイツは僕の小説をそのまま自分が書いたと偽って、出版社に売り込んでいたんだ。そしてそれが、ある出版社の目に留まって本になることになった」
「……」
涼は驚いていた。絡まっていた糸が少しほぐれたような気がした。
由弥と初めて会ったとき、由弥は涼に、自分は小説を書いている。ペンネームは君の名前と同じ字を書くんだ。そう言っていた。
だから、涼はその時、由弥が由香の父親じゃないかと疑ったのだ。
そしてその後、洋輔の姿を見て洋輔が由香の父だと確信したものの、何故、名前が違うのかと疑問にも思っていたのだ。だから今朝賞を取ったという小説の著者名が夏木涼になっていたことに驚いてもいたのだ。
「もしかして、アイツはお前の使っていたペンネームもそのまま使って本を出した?」
涼の問いに、由弥は頷いた。
「姉さんが大喜びでその小説を僕にくれたんだ。それで僕は事実を知った。驚いて、そして腹が立った……」
それはそうだろう。自分が精一杯書いた小説を盗まれたのだから。
「だから、僕は……」
由弥の様子が少し変わった。声が震えている。少し怯えている様にも見えた。
「由弥?」
涼は床に下された由弥の手に自分の手を重ねた。一度驚いたように目を開けて由弥は涼を見た。だが、由弥は手を振り払うことはせずに、幾分落ち着きを取り戻したようにまた口を開いた。
「だから僕はアイツの家に押しかけて問いただした。どういうことだって。出版社に行ってアイツのやったことを告発するって言ってやった。そしたら、アイツ、僕を……」
陵辱したんだと由弥は告げた。
「必死で抵抗したけどダメだった。病み上がりで体力だって無い僕に、抵抗できるはずもなかったんだ」
悲しみをこらえるように由弥はそう言った。涼にはそんな由弥にかけてやる言葉が見つからなかった。
「アイツは事が終わった後言ったよ。君の姉さんは弟が自分の恋人と寝たと知ったらどう思うだろう? 傷つくだろうな。君は姉さんに嫌われる、憎まれるかも知れない。あいつはそう言ったんだ」
「何だよそれ、滅茶苦茶じゃないかよ。あいつが無理やり暴行したんだろう。お前は何も悪くないじゃないか。知られて困るのはあいつのほうだろうが」
思わず涼は声を荒げていた。由弥はその声を無表情で聞き流していた。
「でも、僕にはその言葉は効いたよ。僕は姉さんを愛してた。姉さんの傷つく顔なんて見たくなかったし、憎まれるなんて耐えられなかった」
「由布子さんはお前を憎んだりしないだろう。憎むならあいつの方を憎むはずだ」
涼の声に、由弥はきつい表情を見せた。
「人間の心なんてそんな風に割り切れるものじゃない。姉さんは本気でアイツを愛してたし、僕の話しを聞いてくれるとも思えなかった。僕には姉さんが全てだったんだ」
「……」
「だから、僕はアイツの望むとおりに、アイツのゴーストライターをやってきた。黙ってやっていれば、アイツは僕に危害を加えなかったし、姉さんもいつも幸せそうに笑っていられる」
「じゃあ、もしかして、賞を取った小説も由弥が書いたもの?」
涼が聞くと由弥は頷いた。
「そう、僕が書いたんだ。でも、さすがに昨日は辛かった。姉さんは大喜びだし、君はアイツのこと褒めてた。本当は僕が書いたのに、って騙していることへの後ろめたさも合ったけど、それ以上に悲しかった」
それで、由弥は昨日あんなにイライラしていたのか。
そういえば、あの時、洋輔は由弥のお蔭で賞が取れたといっていた。アレは苦しんでいる由弥をみてその反応を楽しんでいたのだろう。
「本当は僕が書いたんだって、大声で言えたらどんなにいいだろうって思った。涼に嘘を付いているのがとても辛かった。涼は僕に全て話してくれたのにって、辛かった。だから涼に恥じないように、涼みたいに強くなろうって思った。逃げてばかりいてはいけないって。全てが壊れることになっても、僕はもう、このまま黙っていたくないって思った」
そこまで一気に言い募り、由弥は顔を俯けた。
「だから今日、アイツをここに呼び出して言ったんだ。もう、アンタの言いなりにはならないって。だけど、結局、こんな状況しか生まなかった」
静かに告げられた言葉。
涼にはかける言葉が見つからなかった。
ずっと独りで耐えてきた由弥。
ずっと悲しみの中にいた由弥。
自分にはそんなところ全く見せず、人の幸せのために生きていた由弥。
きっと孤独だったのだろう。辛かっただろう。それが分かるだけに、どんな言葉をかけても陳腐にしかならないような気がした。
涼は俯いた由弥の頬に手をやった。
驚いた由弥は顔を上げ、涼を見た。
ゆっくりとその由弥の唇に、唇を重ねた。
軽く触れ合わせただけで、すぐに離した。
「涼? どうして」
困惑した様子で由弥が涼に問いかける。涼自信も困惑していたが、言葉はしっかりと出た。
「どうして抵抗しないんだ? 由弥」
「分からない。でも、アイツにされた時みたいに嫌じゃなかった……」
涼はもう一度、由弥の唇を自分の唇でふさいだ。
涼もずっと孤独だった。
母に捨てられ、父に蔑まれて育った涼は、いつも癒える事のない孤独を抱えていた。
何人もの女性と寝ても、心が満たされたことは一度としてなかった。
悲しくて、辛かった。
でも、誰にも話など出来なかった。ここにいる由弥以外には。
由弥だから出来たのかもしれない。同じように孤独を抱えていたから。
自分達は似ているのかもしれない。心に傷を負っているのに、それを塞ぐ術を持たない二人。
だが二人でなら孤独を感じなくて済むかも知れない。例えそれが一時の夢だとしても。
涼はゆっくりと唇を離した。深いキスに互いに息を乱していた。
「明日には、涼。帰るんだよな」
荒い息の下で由弥が言った。涼は頷いた。
「ああ、帰るよ。俺も、いつまでも逃げてばかりいちゃいけないんだ……」
自分に言い聞かせるように涼はそう言った。
由弥は笑った。優しい、だが寂しげな笑顔だった。
「涼を忘れたくない……」
「俺も、由弥を忘れたくない……」
涼はゆっくりと由弥の腕を引っ張った。由弥は抵抗しなかった。
二人の影が重なる。
窓の外。
月だけが彼らをただ静かに見つめていた。