唾
俺は今、バカンスに来ている。といっても、場所は長野県にある父親の友人の別荘であって、フランス人が「明日から、バカンスなんだぜ、ベイベー」とか言って、3週間くらいを滞在するコート=ダ=ジュールやリヴィエラ海岸とは違って、海はない。山だけだ。なんといっても、今世、明治日本の人間が果たしてバカンスなんぞというハイカラな単語を知っているとは思えない。だから、これは必然的に「避暑での長期休養」ということになるのだろうか。
だが、それは違うと確信できる。父親たちはどうやら仕事に関係していることを話し込んでいるらしく、飯時以外リビングに降りてこないというのが滞在が予定されている7日間のうち、3日に及んだのだ。
穏やかな大和撫子という第一印象を抱いた文ママは3日目の朝、半分キレながら、
「そろそろ休暇らしいことを致しませんか?」
と、言ったほどだ。(俺の母親については言うまでもない)
ということで、最終日の前日になって近くの牧場に行くことになった。この時代、娯楽がまだ少なく、ネズミーランドなどと言うテーマパークなどあるはずがなく、それ以外のアクティビティに事欠いていたが、この近郊には牧場があり、珍しいことにふれあいが可能な観光地であった。割と別荘からも近いらしく、全員で行くことになった。
山道を下ること10分。
ひらけた場所に出た。広大な敷地の中にデッカいログハウス。管理棟らしい。
中に入ると、老夫婦が迎えてくれた。(金持ちには)人気の観光地ではあるらしいが、お盆が終わって繁忙期を過ぎてしまい、客よりも従業員の方が多いといった具合だった。でも、さすがは金持ち相手に商売しているだけあって、いい商品や食事を提供していて、客も少ないせいか、サービスが良かった(文と俺は生後間もないから母乳だけだったが)。
昼食を取り終わると、『ふれあい広場』に行った。
ヤギやヒツジ、牛や馬、うさぎやリスというオーソドックスな動物が多かったが、アルパカがいたのは驚いた。ブラジルやペルーに移民した日本人が送ってきたのだろうか、日本には生息しないアンデス産の動物だからだ。
父親は初めて見たらしく、興奮して俺を抱えたまま走って、アルパカの目の前まで行った。
(親父、ちょっとストップ、ストップ!アルパカはやめとけ!)
そんなことを心の中で叫んだところで、届くはずがないわけで。
父親は初めて見るアルパカを
「んー、首の長いヒツジみたいだな。なんか、阿保づらしてやがる、あーっはっはっはー」
やっちまったと思っても時すでに遅し。アルパカは、口をモゴモゴしたかと思うと次の瞬間、干し草入りのつばを吐きかけた。そのつばは少し俺の服まで汚して、俺に嫌な記憶を思い出させた。まあ、嫌と言っても、今となっては懐かしいが………
あれは、一昨年の夏かな。大学生になって初めての夏。高校時代からの同級生の聡美と付き合い始めた。
聡美は、学内じゃ指折りの美少女。凹凸が少なく滑らかなのはいただけないが、それ以外を取れば、凹凸なんて関係がないほどだった。
そんな彼女と俺が付き合い始めたのは、入学から1ヶ月後。俺が、空研に入るのについてきて、そのまま加入して、それ以来一緒に帰宅していた。毎日毎日俺がミリ話に終始していて、完全に頷き坊主な聡美は正直俺のことをウザがっているのではないかと多少は思っていた。
これは、付き合う前の大学合格後の春休みのある日。聡美から電話があった。
「ね、ね、ね!こーた!動物園に行かない?親戚からタダ券もらっちゃってさ。勿体無いから、友達と行って来なさいってママが」
「ゔぇ……ゴッホ、ホッ!それってこの間近くにできたアウトレットに並列したとこのこと?なんで、俺なんかと……。」
「いーじゃん。なんか、友達とデートって大学生っぽいじゃん?」
(大学生関係なくない?デートに行くのか行かないのかは。てか、まだ大学生じゃないし)
そんなことは口が裂けても言えない。言ったら、少し上目遣いで涙を滲ませて哀しそうにする。美少女のこんな表情はオタクの俺には耐えられないし、周囲は、『あー、オタクが女の子泣かせてる』『最近のオタクは…』とか思われかねない。ここが、電話口で良かったと心底思った。だけど、ここで「俺、明日大事なイベントがあって無理」とか言ったら、泣いて泣いて、「もう絶交」とか言われたら、生きていけない気がした。たとえ生きていても大学生活はお先真っ暗だ。
というわけで俺は不本意ながら連れていかれた。
翌日、聡美は動物園についてからというものの、ずっとハイテンション。精神年齢が時間が経つにつれて指数関数的に幼くなっている(上凸の放物線と言わなかったことに感謝してほしいものだ)。
そんな中でも、聡美が特に楽しそうだったのは、リャマコーナーだった。リャマというのはアルパカに似てるアンデスの動物で、主に荷役として利用されている。
あんまり、動物園に来たことがなく、動物の名前を聞かれても、ライオンやカバやゾウくらいしかすぐに思い出せない俺だったのでリャマなんぞは初めてだった。とある某会社のCMで似たような奴が出てたのを思い出した。随分生意気そうな目つきで俺を見ている。俺は悔しかったので、目の前に行き、少し得意げな顔をしてやった。そしたら、口をもごつかせて、次の瞬間、唾を吐きかけてきた。
「あははははは。こーた、何やってんのさ。『リャマは唾を吐きます』って書いてあったじゃん。」
そういいながら、聡美はリャマにもっとやれ、もっとやれと言っていた。
美しい青春の1ページだ。
あー、今思えば、本当に懐かしい。それにしても、アルパカに唾を吐きかけられないと思い出せないなんて、ひどい彼氏だな、俺は。
そう言えば、普通の赤ちゃんの文は動物が怖くないのだろうか?
少し離れたところに、佐一郎氏に抱えられた文がいた。
文は、アルパカを指差すと、次は俺の方を指差した。何度も何度も。
あと数話程度で赤ん坊編は終了予定です。
この後登場人物が増えて設定が複雑になっていくので更新ペースは遅くなるかと思われます。