泣き虫
7月25日。私は、目覚めた。というより、意識を取り戻した。どうやら、病院にいるらしいが、どうしてか分からない。周囲を見渡せば、柵越しにちょっと古めかしい木製の壁が見える。その病院の雰囲気は某有名アニメ映画で見た病院にそっくりだ。
私は、しばらく意識がなかったのだろうか?なぜこんな状況になったか、記憶がない。
まさか寝たきりではないだろうな、と思って手足を試しに動かした。動く。動くことは動いているんだけど、可動範囲狭くね?目の前に見えているはずの柵にさえ手が届かない。
(そういえば、全身がスースーするような?)
どうやら、服を着ていないらしい。
(あれ、私って良い大人の女性だった気がしてるんだけど)
急に不安になって、自分の姿を確認したくなった。首を動かすと、病室には鏡が置いてあった。だけど、四角い病室の対角線上にある上、明後日の方向を向いている。起き上がることはできないので、取り敢えずナースコールを押そうと思って、手を動かしてみたが、どこにもない。それどころか、普通の病院なら繋がれてるはずの心電図のためのコードとかがない。ということは、私の病気は軽いのか、それとも医者が藪なのか。
そんなことはどうでよくて、鏡をどうにか動かしたい。ナースコールが使えないと分かれば、大声で叫んだりバタバタして看護婦さんを呼ぶしかない。
バタバタしても、近くに居なけりゃ聞こえない。だから、大声を出すことにした。『看護婦さーん、すみませーーん』で行こう。
私は胸がはち切れるほど息を吸い込んで、腹から声を出した。
「ぅえー〜ん、えー〜ん、ぅーうわー〜ん」
え?言葉が出ない。嘘⁉︎しかも、「えーん」ってそんな、赤ん坊の泣き方のテンプレみたいな。
「ぅぅぇーん、ゔぇー〜、んーー、えーーーーん」
何度試しても、言葉が出ない。私は哀しくなった。私はもう言葉を出せないのではないかと思って。もう誰にも感じたことを伝えることは出来なくなってしまったんだ。
涙が出た。
涙が止まらない。
私の声が聞こえたのか、看護婦さんが来てくれた。
(私はどうなってしまったの?教えてくれるわよね?可動範囲が狭い手足で分かってるわ、手足の切断があったのよね?恨まないから、正直に言ってお願い。)
そんなことを私は看護婦さんに訴えかけた。
すると、看護婦さんは私に手を伸ばした。なるほど、寝たきりの私のおむつの取り替えか、仕方ないことだと思った。看護婦さんは、私の背中に手を回した。おむつのテープを剥がすためだと思った。
しかし、次の瞬間思いがけないことが起こった。
看護婦さんは私のことを抱き上げて、左右に揺らし始めたのだ。
「文ちゃん。もう泣かないの。はい、強い子強い子。可愛い子が台無しよ。」
私は混乱した。文ちゃん?私には見覚えのない名前。しかも、「強い子強い子」ってまるで赤ちゃんをあやすようで……ん?赤ちゃん?
私は手を伸ばして、鏡を指差した。
「どうしたの、文ちゃん?あー、鏡が気になるのね。あれはね、もう1人の自分を見せてくれるのよ。」
そう言って、私は抱えられたまま、鏡の前に連れていかれた。
本当に見てしまって大丈夫なのか。自分がもし自分でなかった時、私はどうなってしまうんだろうか。急に怖くなった。
「ほら、見て見て。これが鏡で映ってるのがあなた」
恐る恐る顔を上げると、そこにいたのはナース服を着た大人の女性と赤ん坊。ここにいるのは、私と看護婦さん。つまり、赤ん坊の方が私。
この現実は余りにも受け入れがたく、一方で納得してしまったのだった。
夕方になって、ママらしき人とパパらしき人が帰ってきた。どうやら産後の検診らしい。難産で一時、意識不明だったらしい。
どうやら、経過良好で明日が退院らしいのだ。
両親らしき人たちの会話を聞いていると分かったことがたくさんあった。
パパは外務官僚であること。去年から本国勤務になったが、それまで海外を転々とした超エリートであること。
ママは特に何かやってるわけでもないが、外交官夫人に相応しく英語やフランス語などがとても堪能らしい。
さらにもっと驚くべきことを聞いた。病室の雰囲気がなんか昭和っぽいとは思っていたが、『日本軍』『露軍』『朝鮮』『桂内閣』というワードが出てきたことだ。辛うじて残っていた前世の記憶が、それらが日露戦争を示すことだということを教えた。
そして分かった。私は、過去に転生してしまったのだと。そして、泣いた。大泣きした。
翌日、私はママに連れられて退院した。そして、その足でママの実家のある埼玉県に向かった。どうやら、神社でお祓いをするためらしいが、パパは英国の公使との会談があるそうで、しばらく帰らないそうで、ママは不満そうだった。
祖父母は私を「可愛い可愛い」とずっと撫でていた。少ない髪の毛が禿げるからやめて欲しかった。
そのまま2週間ほどして帰ると、パパは出張が終わったらしく、家でくつろいでいたが、私たちが帰宅すると再び次は官営工場の視察があるとかで出かけて行った。
8月15日。久しぶりにパパが帰宅した。なにやらデッカい手土産を抱えている。
イギリス公使からもらったという木の馬だ。前後に揺れるゆりかごみたいなアレ。あとは、絹の洋服。どちらもまだ、赤子の私には早すぎる上に、木馬に至っては超絶要らない。
パパが言うには、来週から別荘に行くらしい。別荘持ちの家に生まれたとは結構運があったと思った。別荘には、パパの友人家族と一緒に泊まるらしく、私と同じくらい(つまり生後間もない)男の子がいるらしい。ママは「ちゃんと仲良くするのよ」的なことを言ってはいたが、生まれ変わりである私がガチ赤ちゃん相手に仲良くできるのだろうか?というか、私の精神年齢と実年齢が等しくならない限りは小学校、いや、もっと上の学校行っても友達ができないのではないか?そんな、まだまだ先のことを不安に思って、涙が出た。
「あらあら、どうしたの?おばあちゃん家ではあんなに静かだったじゃない。しかも、声もあげずに変な子ね」
ママは心配そうだった。
「パパに会えたことに声にならないほどの喜びを感じているんだろ。赤ん坊なのに大人だなあ」
(いや、多分精神年齢は大人です。)
そう言いたかった。
8月23日。橘家一行は長野県松本市にある別荘へ向かった。山に少し入ったところにある、北欧を思わせる洋館。そこで1週間ほど滞在するらしい。
到着するや否や、私は投獄され、ママは編み物を始め、パパは書斎に篭ってしまった。
投獄された私は、「別荘とは」というのを知らないが、絶対こと使い方は間違っていると思った。多分、パパの友人家族が来るという明後日になったら、バカンスらしいこともするだろう。それまでは辛抱だと思った。その日はそのまま寝てしまった。
パパの友人家族が来る日になった。
午後2時。外にエンジンの音がする。多分パパのフォードだ。
玄関から話し声がする。久しぶりの再会だったようで、随分と盛り上がっている。そして、リビングのソファーに腰かけた。私はパパの膝の上に座った(というより置かれた)。
上郷さんは私たち家族に、この間生まれたという男の子を紹介した。その刹那、私は何かを感じて目を見開いたが、あまりに一瞬でそれが何かは分からなかった。向こうの赤ん坊の名前は和也というらしい。向こうも、なんとも言い表せない、無表情とも言い切れない顔でこちらを見つめていた。パパによれば、私と誕生日が同じらしい。ママたちは「運命かしら」と騒いでいたが、私はそんなはずないだろ、とは否定しきれない気持ちでいた。
しばらく、お茶をしたあと、パパは、パパの友人 上郷和宏と一緒に書斎へ上がった。
ママたちは夕飯の準備に行ってしまった。残されたのは、檻に投獄された私と和也くん。私はさっきのモヤモヤが気になって、その原因と思われる和也くんをじっくり観察した。
向こうも、なんだかこちらを見ているようで、少し気恥ずかしかった。向こうはただの赤ん坊なのに!
観察し始めて結構時間が経っていた。日が傾きかけていた。さっきから、和也くんはずっと思案顔をしている。まるで、赤ん坊には似つかわしくないそれをしていた。でも、なんだか懐かしいような気がして、モヤモヤが増えていった。
和也くんは、手を伸ばすと私の頰を触った。なんか、恥ずかしいような嬉しいようなそんな気がした。相手はただのガキなのに。
その時、ママと和也ママがやってきて、私たちは夕食に連行された。
今回は前回と前々回と並立パートです。
次回はもう少し別荘を楽しんでから、その次の回で日露戦争にできたらいいなと思います。
あと、タイトルがやっぱり難しいですね。
戦争なら「〇〇の戦い」とかで済むのに。