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いつかこの春を亡くすとしても

作者: しろくま

 

 先輩と出会ったのは、とある資格課程の演習の授業だった。その授業は通年開講され、1年を通してグループで卒業論文を書くのを目的としている。


 先輩は哲学科の4回生だった。春から夏にかけては就活で不在のことが多く、内定が周囲より遅れてようやく出た時は、疲れた顔で「就活は早くやったほうがいい」と私に告げた。秋から冬にかけては卒論に追われ、提出3週間前には忽然と姿を消し、期限後に死にかけの顔で「卒論は早くやったほうがいい」と説得力のあるアドバイスをくれた。


 卒論提出間近の12月は演習の時間でも机に付箋まみれの分厚い専門書を積み重ね、先輩はうんうん唸っていた。現象学、フッサール、ハイデガー、哲学とは、どれもこれも背表紙のタイトルから見て発狂してしまいそうな難解そうな本だった。私は高校で勉強した倫理という科目程度の知識しかなく、どんなことを論文に書くのか全く想像がつかない。


 こんな感じで、先輩は授業をよく休んでいたけど、最終的にはやるべきことをやってくれたので、私たちは特に大きなトラブルもなく論文を書き上げた。演習の授業が終盤に差し掛かかる頃には、すっかり打ち解けて、先輩とよく話した。好きな本の話とか、好きなユーチュバーの話とか。



 演習の授業の最後の日、私は先輩と並んで歩いた。やっと終わった、過酷だったと労いあう。


「先輩は、春からどこに勤められるんですか?地方に行くんですか?」

「ううん、大阪。誰も知らないようなIT企業」

「IT企業ですか?」


 大学生活で学んだことが直結する職業に就く人間はほとんどいないもので、文系でもIT企業に就職する人も多いと聞く。


「まぁ、すぐ辞めるかもしれないけど」


 なんだか想像に難くなくて反応に困って、あははと笑い返すと、先輩が、あ、と声を上げる。


「ここの喫茶店行ったことある?」

「……?いえ、毎日通るんですけど」


 いかに移動を短くし、次の授業に間に合わせるよう動くことは私たちにとって重大な問題だ。学生たちは少し離れたキャンパスに行く近道をいくつも知っている。その近道には、一件の古びた喫茶店があった。外から覗き見ると、中は狭く、カウンター席しかない。窓には「コーヒー420円」といった、手書きで年季の入ったメニューの紙が複数貼られている。オーナーは老婦人のようで、常連と思われる煙草をくゆらせた客と話し込んでいた。


「春までに閉めるんだって。俺、結構行ってて、好きだったんだけどな。コーヒーも美味しかったし」

「そうなんですか……なんだか残念ですね」


「うん、思い出の場所って案外簡単になくなってしまうんだな」


 コーヒーの味も忘れる、店の匂いも、オーナーの仕草も。そして、今日私と先輩が話したことも、少しずつ忘れてしまうのだろう。忘却して、消えゆく。先輩の少し寂しそうな横顔を見て、そんなことを考えた。




 駅に着いたところで、私は先輩と別れた。


 これが最後の別れだと、私は気づいていなかった。その後私は先輩に一度も会うことはなく、卒業式も気づけば終わってしまっていた。たった一つの授業で出会った他学科の先輩の卒業式に行くなんて、そちらの方が変なのだけど。




 奇跡でも起こらない限り、私と先輩が再会することはないだろう。これから先輩は、大阪に帰って、春になったらスーツを着て、満員電車に揺られて、パソコンをカタカタ鳴らす。上司に怒られ、取引先に頭を下げるのだろう。多分、フッサールもハイデガーも先輩を救ってくれないし、あんなに必死になって考えた哲学は忘れ去られるのだろう。



 それでも私は、おそらく100分の1も理解することができなかった、ただすれ違うように出会い別れた先輩の幸せを、祈りたいと思った。この出会いに運命も、愛も、意味すらもない。それでも、こうしてただ幸せを願ったことだけは、消えて欲しくないと思う。







 春休みが終わった。これからの新生活に胸を膨らませる1回生の生き生きとした姿と、スーツ姿で肩を落としてとぼとぼ歩く私の同輩たちが入り混じるキャンパスを、私は桜の花びらの洗礼を受けながら軽い足取りで、踊るように練り歩く。あの日先輩が教えてくれた喫茶店は春休みの間に潰されていて、更地になっていた。そういえば、毎日この店の前を通っていたのに、コーヒーの味どころか、店の名前も、私は知らないままだったのだ。









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