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ほしのふるさと  作者: 中村 遼生
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15/15

後日譚

 親父に会うのは、家を出て以来だから五年ぶりになる。

「親父さん、まだ来ないのかね?」

背後から静かに近づいてきたおっさんが、心配そうに声をかけてくれる。

「あの親父が、時間を守るなんざ、十回に一回あるかないかやからな。まぁ、第一レースのパドックまでには来るやろ」

「まあ、最悪二レースまでに来てくれればええからな」

おっさんは時計を確認する。横目で俺も時間を確認したが、丁度八時四十分。この時間になると一般入場のお客さんも増えてくる。以前の競馬ブームの頃に比べたら人は減った方だが、それでも人混みが余り得意ではない俺にとっては、十分多く感じる人数だ。よくあの中に混じっていて平気だったものだ。若気の至りとは恐ろしい。

「おぉ、言いよったら来よったな」

阪急電鉄仁川駅から続く長い地下道のカーブに頭一つ抜けて見えたのは、紛れもない親父の姿だった。昭和20年代生まれの割りに長身なのは田舎育ちで食べ物に不自由してなかったからだろう。その割に細身の立ち姿なのは栄養のバランスが悪かったせいだろうか。それとも子供の頃に大病を患ったせいだろうか。考えてみればあの貧弱な体型で踏ん張って、よく家族を養ってくれたものだと思う。しかし、その装いは悪い意味で俺の予想通りだった。

俺は手を上げる。親父も軽く手を上げて答えた。

親父は俺の目の前まで来ると、立ち止まり、上から下まで俺を眺める。

「ちょっとは体が締まったか。まあ、目の方は前より余程いいようだがな」

相変わらずいい目をしてやがる。確かに前よりはやる気に満ちた毎日を過ごしている。

「親父。仁川に来るのは何年ぶりかね?」

「ふん。家を飛び出して、馬つくりに飛び出した馬鹿息子が久しぶりに帰ってきたかと思えば、家にも顔出さずに待ち合わせは仁川てか。しかも仁川も知らん間に地下道なんぞ作りよってから、道がわからんようになったわ」

「こっちも付き合いがあるから家には寄れん言うて、お袋に伝言したはずやがなあ。まあ、よかろうよ。少々道が変わったくらいで、そうも迷わんかったやろう。大体俺が物心付いた頃に、『動物園に連れて行ったろ』、言うて毎週仁川に連れてきたのは誰やったかな」

「そんなこともあったかな」しらばっくれる親父。この親父の癖の八割がたを俺が受け継いでいるのだから、遺伝とは実に面白いものだ。

「あれからしばらく俺は、動物園言うのは、馬しかおらへんもんやと思っとった。馬の数え方も間違えて覚えたしな。一着、二着言うて」

親父は、小さく鼻で笑い、俺のイヤミを聞き流すとおっさんに向き直り、肩を叩き、握手を求めた。

「桐生君。久しぶりやな。元気そうで何よりや。しかし、すまんなあ。馬鹿息子のためにいらん苦労させて」

「親父さんこそ、お元気そうで何よりです。こいつの尻拭いをするのは学生時代から僕の役目と決まっていますから、どうかお気になさらずに」おっさんは俺の背中を強く叩く。お陰で軽く咳き込んだ。

「いや、ワシももう昔の馬力はないな。流石に年取ったと思うわ」

「そうおっしゃらずに。本場(ほんじょう)来られるのは久しぶりでしょう。また大穴一発当てて下さい。昔みたいに十件はしご、アレをまたやりましょう」

「本場」と言うのは競馬場全般のことを指す。WINSを「場外」と言うのに対して使う言葉だ。古い競馬ファンは、阪神、京都、東京、中山それぞれの競馬場を仁川、淀、府中、船橋と呼ぶ。最寄の駅なり、地方なりの通称だ。それ以外は大体競馬場の名前で呼ばれるので個別の呼び方らしきものはない。あるのかもしれないが、少なくとも俺は知らない。

「おぉ。覚えとってくれたか。アレは藤哉が二十歳になった年のクリスマスイブやったな。夕方の六時から男2人でワシの家で寂しそうに飲んどったから、飲みに行くぞ言うてなあ」

「朝までに三人でボトル何本開けましたかねえ」

「もう覚えてないなあ。懐かしい話や」

「そらそうと親父よ。その格好は何や。お袋にちゃんと伝えたやろ」

「それや。美恵子が、『ドレスにコートがあるから正装で来てくれ』言うて伝言あったで、言うからよ。ドレスにコート言うて、ワシ、男やのにそんなもん着れる訳あらへんから、本場来るときの正装で来たんや」

「それにしても、もうちょっとなんとかしようがあったやろ」

「何抜かす。『鉄火場』の正装言うたら、これに決まっとぉやろが」

親父の格好は、確かに正装だった。いいとこ千円の紺色のスラックスに黒を基調にした派手な柄の襟付きシャツ。耳には赤鉛筆、小脇に抱えた競馬新聞。足元は、サンダル。ご丁寧に胸ポケットには短波の聴けるラジオがイヤホン巻きで突っ込まれている。

「なあ。おっさん。これでゲート通してくれるかな」

視線を送った先にあるおっさんのあきらめた表情に突破口を見出せなかった俺の背中に声をかけてくる奴が居た。

「村上藤哉さまでいらっしゃいますか?」

振り返ると一人の見知らぬ青年が立っている。

「左様ですが。貴方は」

「失礼しました。佐伯の競馬関係の秘書を勤めさせて頂いているものでございます。あちらにお父上のお着替え一式、用意させて頂いておりますので、どうぞお召し替え下さい」と黒塗りの立派な車を指し示す。

普段ならご遠慮申し上げるところだが、今日の主役は親父だ。ありがたくご好意にすがることにした。しかし、どうやって親父のサイズやら知ることが出来たのやら。つくづく恐ろしい人だ。

「佐伯さんには良しなにお伝え下さい。それと、後ほどご挨拶にあがります、と」

佐伯さんの秘書と名乗る男は、深々と礼を施してくれた。

「ほら、親父。あの車の中で着替えて来いさ」

「なんでやねん」

「俺がお袋に伝言したのは、『ドレスコードがあるから正装して来てくれ』ちゅう内容」

「なんや、お前それやったらちゃんと言わんかい。ドレスコードくらいワシかてわかるわ」

「ほな、俺に確認せえや」

「きっちりワシに伝えんお前が悪い」

「二人とも、不毛な争いは後回しにして、とっとと着替えさせてもらいーさ」

桐生源三のもっともな意見に従い、俺は矛を収めて、親父を促す。まだ何か言いたげだったが、親父は男に案内されて着替えに向かう。負けず嫌いも大概にしてもらいたいもんだ。

「お前ら。相変わらずやな」おっさんが深いため息と共に呆れた口調で言う。

「顔を合わすと喧嘩。酒飲むと喧嘩。これで仲が良えんやから、我ながら不思議な親子や」

「お前は幸せもんだよ。親父さんが居てお袋さんが居る。俺は親父の顔は知らんし、お袋も亡くなってもう十年になるか」

「そう、やったな」

桐生源三は、母親の腹の中にいる間に父親を肝硬変で亡くし、高校卒業を前にして母親をガンで亡くして、天涯孤独の身だった。だから誘い易かったと言うのは事実だが、このおっさんの助けなくしてここまで来れることはなかっただろう。誰よりも俺を理解し、誰よりも優れた頭脳を持つこのおっさんなくしては。こう言っては失礼になるが、天の配剤というのは、まことに見事なものだ。

「まあ、それだけに自分の息子と同様に分け隔てなく扱ってくれるお前の親父さんには頭が上がらんのやけどな」

確かに親父は分け隔てのない人だ。息子のツレはワシのツレ。と、いつも同等に扱ってくれた。それについては、俺も頭が上がらない。俺のツレなら家にいつ来ても「飯食わしたれ」とか、「家にある酒やら、つまみやら好きなだけ飲み食いさしたれ」とかお袋に言ってくれていた。俺はお陰で家に訪ねてくる友人たちに大いに面目をほどこしたものだ。もう何年も会ってない奴も居るが、いつ会っても当たり前のように接してくれるし、あの頃を懐かしんで親父を気遣ってくれる。

そんな俺たち親子をおっさんはこう評した。「情義の親父さんに屁理屈の藤哉」と。

多分俺は一生かかっても親父には敵わない。だがいつか出来るだろう俺の子供には、俺も親父も超えてもらいたいと思う。そういう教育は親父の凄みを知ってる俺にしか出来ないことだから。

「お父上はご到着ですか」

「あ、これは佐伯さん」

突然背後からかけられた声に反応し、振り返る。

「この度は色々とお取り計らい下さいまして、お礼の申し上げようもございません」

俺は深々と頭を下げた。

「いえいえ。村上さんには昨年、馬主としての最高の栄誉を経験させて頂きましたからね。ほんのお礼ですよ。それにしても村上さんが、あの村上さんの息子さんだったとは。人生とは面白いものですなあ」意外な一言に首だけを上げて思わず問い返した。

「は?父をご存知で」

「あぁ、お見えになられた」

車から出てきた親父は、どっからどう見ても馬主だった。一応中小とは言え、一企業の取締役営業本部長までやった男だ。着るものさえきちんとしていれば、その貫目は俺などの及ぶところではない。まあ、下手すりゃ反社会的な人に見えなくもないところが難だが。

「村上さん、ご無沙汰しております。覚えてらっしゃいますか」

歩み寄って声をかける佐伯さんの姿を認めた親父は、怪訝な表情を浮かべ、しばらく記憶の旅路を遡ると、手を叩き

「おぉ。佐伯君か。三十年ぶり位になるか」

「覚えていてくださいましたか。あの時、村上さんに助けてもらわなければ今の私はココに居ません」

「何を大げさな。仕事はうまいこと行っとんのか?」

「お蔭様で。あの後順調に取引を拡大できまして」

「そうかあ、そら良かったなあ。しかしお互い年を取ったもんや。あの後生まれたガキがこいつや」

親父は昔と変わらない勢いの平手で俺の後頭部を一撃した。いや、心なしか弱くなったか。後頭部をさすりながら、寂しさを感じる。

「よく存じております。村上さんには親子二代に渡りお世話になりました」

「あのー。佐伯さん。お話の途中申し訳ないのですが、私には筋がさっぱり読めませんで」俺は常になく恐る恐る話の腰を折った。佐伯さんは風格漂う笑顔を見せて

「二十八年前のことです。私の経営する会社が危機に陥ったことがありましてね。真夜中に大阪から東京まで四時間程で行かなければならない事態になったんですよ。そんな時間に運行している交通機関はもちろんない、運悪く私の車は故障中。夜中でも走る職業と言えば長距離運送の、それも鮮魚関係のトラックしかないと思い込んで大阪中央卸売市場に駆け込みましてね。出て行く運転手さん全部止めてお願いしたんですが、『4時間なんて無理だ』と誰も乗せてくれない。途方にくれていたところに通りかかったのが、村上さん。貴方のお父様です」

「アレはおもろかったなあ。高速を平均百五十キロ位でかっ飛ばしてなあ。結局きっかり四時間で着いたわ」

「事情も聞かんと乗せたったんか」呆れ気味に親父に聞いた。

「聞いてどうする。ともかく四時間で東京までいかなあかん、他に手段はないっちゅうとるし。ほなら乗せてやるのが『男』言うもんや。その代わり、命の保証はせえへん言う約束はしたけどな」

呵呵大笑する親父。この親父ならやるだろう。学生の頃、長距離を走る親父の助手をやっていた俺は何度死ぬかと思ったかわからないのだから。

「お陰で私の会社は経営危機を乗り越え、どうにかこうにかココまでこぎつけたのですよ。あの時道々退屈やから話し相手でもしてくれとおっしゃってですね。その時に、奥様が妊娠してらっしゃって来週出産予定や、と聞いていたお子様が貴方ですよ。道理で初めてお会いしたときに懐かしい感じがすると思ったんです。さあ、お三方。こんなところで突っ立ってらっしゃらずに上に参りましょう。出すぎかと思いましたが、今日は私が万事取り計らわせていただきました。一日お楽しみ下さい。メインレースには私の馬も出ます。今日はちょっと自信があるとテキも言っていましたからね」

「ほぅか。そら楽しみやなあ。藤哉、なにぼけーっとしとんねん。さっさと行くど」親父は佐伯さんと肩を組んで馬主専用ゲートを抜けて行った。

「なあ、おっさん」自分で思ったよりも力の抜けた声だ。

「なんや」

「俺は無神論者やが、神の導きを信じてもえーかな」

「気持ちは、わかる。が、神はお前を導かん」

およそ牧師にあるまじき言葉を平然と吐いたおっさんは、俺の背中を押した。俺は肩を落として馬主席に向かう自分に言った。

「だから人生は面白い、か」

深くうなずく桐生源三に救われた気がした。

エレベータ嬢の華やかな声と共に、馬主席に着いてみれば、まるで節度を持った子供かと見紛うばかりにはしゃぐ親父が居た。酒を飲んで機嫌の良いときのようだ。

「おお、藤哉。ようやっと来たか。見てみい。ごっついぞ。こっからパドック見えるんやぞ。設備も立派なもんばっかりや。やっぱり馬主席言うのは金かかっとるのお。それに席もほとんどゴール正面やし、言うことないのお」

「パドックなんざ、一般指定席でも見えるがな。何をそんなに興奮しとんねん」

「アホ。お前、気分の問題や」

親父はいつになくはしゃぎながら、うろうろとあちこちを見て回り、その度に大声を出す。周りの馬主さんからは失笑が漏れることもしばしば。まあ、大馬主たる佐伯さんが着いて回ってくれてるから、爆笑にならずに済んでいるんだろう。

俺もおっさんも親父の性格には慣れてるから動じることは何もない。笑いたければ笑え、人を笑う奴はいつか人から笑われるんだ。俺はどちらかというかと言うと、こんな場でも緊張せずにいつもと変わらぬ親父を尊敬する。流石に数限りない修羅場を潜り抜けてきただけのことはある。

「おぉ、藤哉。そろそろ第二レースのパドックやな。お前の馬、出るんちゃうんか。パドックまで降りようや。ワシ一回あの馬主用パドックから馬見てみたかったんや」

「意外にミーハーやの。親父よ」

「ミーハー言うな。憧れと言え」

今来た道を辿り、エレベータを降りて、馬主用パドック観覧席に着くと、親父は馬主用パドックの最前列に立って、周りをずっと見渡す。

「馬はええのう。どいつもこいつもみなの期待背負ってここを回っとるんや。このときばかりはどいつもこいつも勝ったような顔しとる」俺は親父の横顔を見て、口を開けた。

「なんや、どないした」

「いや、親父にそんな感覚があるとはついぞ知らなんだ」

親父は鼻で笑って、照れ隠しをした。

「で、お前の馬はどれや」

「八枠十六番 タケミナカタ。牡二歳」

親父は競馬新聞を広げ、スーツの胸ポケットから赤鉛筆を取り出すと、WINS近くの飲み屋で予想する酔っ払いさながらの勢いで講釈を垂れながら新聞に目を通し始める。これには流石に佐伯さんも苦笑していたが、親父と一緒に通っていた口の俺とおっさんは両脇に陣取って一緒になって競馬新聞を眺める。

「なんや、お前。散々な戦績やな。七月の阪神、八月の小倉に新潟、全部惨敗やないか。血統も古臭い血統やなあ。調教も大したタイム出てないし。騎手もこれ女の子か。五百五十キロからある馬体追うのに女の子やったら力が足りんやろ。しかも無印て。買える要素がどこにもあらへんやないか」

「そりゃそうや。全部千二やら、千四やらの短距離戦しか使うてなかったのが、いきなり二千やからな」

「なんや、お前ハナっから負けるつもりで出しとったんか」

「そんなつもりは毛頭ない。ま、勝てば儲けもんくらいの気持ちよ。それに、七、八月は輸送と馬体の減りなんかを見取ったからな」

「もったいない。出走料もタダやないんやろう」

「お陰で人気が下がっとるやろ。あぁ、いま最低人気まで落ちたな。俺らの本命は九月のここ。未勝利の二千や」

「まあ、この血統で短距離で勝てる期待はちょっと薄いか。なんぼ親が千六までこなすとは言えな」

「それに土岐さんとこは開業したばっかりで、こっちの無理もある程度聞いてくれるし、走れば走るほど調教師としての評判は高くなるからな」

親父は呆れた顔を俺に向けた。

「悪人やのう、お前」

「否定はせんが、せめて自他共栄と言うてくれ。性格についちゃあ、みんなから親父によお似とると言われるがな。どや、もうええか」

「おお。そろそろ穴場に行かんとな」親父と俺とおっさんは三人肩を並べてパドックを後にした。「穴場」というのは馬券の販売窓口、あるいは売り場のことだ。全面クリスタルの窓の下に金と馬券をやり取りする穴が付けられているから穴場と言う。まあ、いまはほとんど自動馬券販売機なのだが、親父の世代は、売場というより穴場という方がしっくり来るのだろう。

「さて、馬券も買うたし。後はレースを見るだけやな」

親父は、馬主席最前列ゴール前の一等席に陣取ってかぶりつきでご満悦。しかも二席を一人で使っていやがる。まったく、呆れたもんだ。その後ろに陣取った俺とおっさんは二人でこみ上げる苦笑を抑えられなかった。

 間もなく本日の阪神競馬第二レース2歳未勝利戦、スタートの時間です。一番人気は、レボリューション、直前オッズは2.4倍。二番人気はヤルナラヤラネバ、3.2倍、三番人気オレハイクゼ、4.5倍と続いております。さあ、いよいよ枠入りです。スターターが台上に上がり間もなくファンファーレです。解説の芳田さん。どうですか、このレース。

 そうですね、三番人気のオレハイクゼ、調教も良いですし、見たところ仕上がりも良さそうですね。この馬の特徴はスタートが良いところです。まず前の方に行くのは間違いないと思います。これを追いかけて他の馬がどう動くかというところがポイントになるかと思いますが、やはり良血レボリューションの優位ではないでしょうか。

 なるほど。スターターが壇上に上がり、全馬順調に枠入りしております。

スタートしました。全馬出遅れありません、芳田さんの予想通り鞭も入れずにオレガイクゼがハナに立ちます。1馬身、2馬身ほど後方に、ダイサンゲン、並んでミチノクヒトリタビ、ムラマサマサムネ、その少し後ろにウマクカッテネ。1馬身ほど空いてレボリューションはここに居ました。中段外目のいいところ、手応えもいい感じ。ここで八枠十六番タケミナカタが上がっていった。これはどうしたんだ、行ってしまったのか、もう抑えきれないという感じでタケミナカタが先団に取り付いていく。レボリューションに続いて…

「おい。藤哉」

「なんや」

後ろを向いて親父は、真顔で言う。

「お前の馬はアホか。あんなところから仕掛けていって終いまで保つ訳ないやろ」

「保つもクソも。よう見てみい。鞍上、ヤネの手はひとっつも動いとらへんやろうが」

「て、ことはなにかい」

「アレがあいつのペースや。短距離にはちと遅いが中距離にはちと早いんやろうな。ラップタイム十二秒弱言うところか。ヤネには残り四百から仕掛けてくれとしか言うてない」

「これで勝ったら、化けモンやぞ」

「それを作ろうと頑張っとったんやがな」

 さぁ、第三コーナから、第四コーナへの中間。ここで先頭はタケミナカタ、後続との差は一馬身から一馬身半。まだ潰れない、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)タケミナカタ。後続はそろそろ仕掛けていかないと危ないぞ。さぁ、直線を向いてタケミナカタがまだ先頭。後続がようやく追い上げて来た、レボリューションが二番手にあがる。三番手以下は大きく引き離された。さあ、タケミナカタも仕掛けた。差が開く、差が開く。レボリューションは追いつけない。何とびっくり最低人気タケミナカタが押し切るのか、押し切るのか、後続はもう駄目なのか、押し切ったぁ。驚きました。これはすごい配当がつきそうです。

「ほう、十六頭立ての最低人気馬が、頭で来よったか。単、なんぼつくねん」

「まあ、新聞オッズやけど百倍くらいちやうか」

「ええ儲けになったの。藤哉。何ぼほど買うとってん?」

「単が一万、三連単が頭固定の総流しで千円ずつ」

「ほらごっついな。せやけど、まだまだやな」

親父は胸ポケットから馬券を二枚取り出して、俺の目の前にひらつかせる。

そこに記載された買い目は俺と全く一緒。但し、異なるのは金額。全て俺より一桁上だった。

「これで死ぬまでの財産は出来たかな」人を小馬鹿にするような笑顔を見せた。

「親父。あんたなあ。どこの世界に最低人気馬を頭にしてそんだけ勝負賭けするアホがおるよ」呆れ気味に言った俺に、血相を変えて親父は言った。

「アホはお前じゃ。てめえの血を分けた息子が、自信を持って送り出した馬やろうが。親が信じんで、他に誰が信じるんじゃ、カス」手にしたスポーツ新聞を丸めて思い切り後ろ頭をどつかれた。

「あんたにゃあ勝てんわ」

俺は深いため息をついてどつかれた頭をさすった。勝ったのに心の底から湧き上がる敗北感に打ちのめされていた。

「馬も四つ足、鹿も四つ足、鹿に降(くだ)れて馬に降(くだ)れぬ道理のあるものか、か…」

「おい。藤哉。言いたいことはわかるが、それは平家物語の一の谷の合戦の件(くだり)や。それに勝ち馬の関係者が言う台詞やないぞ」桐生のおっさんのツッコミに、鈍く反応した俺は深くため息をついた。

しかし、こんだけの金どうやって用立てたんやろうか。またお袋に内緒で土地家屋でも抵当に入れて金融屋から引っ張ったか。勝ったからええようなもんの、負けとったら。親父の心意気はありがたいが、血の気が引くような真似はやめてもらいたい。背筋を一気に冷たいものが流れ落ちる。

「まあ、ええわ。勝ちは勝ちや。ほな親父いくぞ」

「行くぞ、てどこ行くねん。換金にはまだ早いぞ、確定もしてへんのに」

「アホ抜かせ。馬主が表彰式に出んでどないするねん」

「馬主?誰がや」

「競馬新聞の馬主欄、よう見てみぃ」

親父は奇妙な顔をして競馬新聞を確認した。そしてゆっくりと紙面を下げて俺の顔を見つめた。

「藤哉、お前。これ」

「見ての通り、馬主は『村上章一』。あんたや。俺とおっさんは生産者代表であんたの付き添い。ほな、いこか」

「ワシ、こんなんなった覚えないぞ」親父は震える声で言う。

「俺を誰の息子やと思とんねん。それくらいの小細工はお手のもんやわ」

親父は突っ立ったまま動けずに居る。その隣に回り、肩を組むと、勝ち馬の馬主しか乗れないエレベータに向かい、職員に待っていてくれるよう会釈する。

「親父。俺にはこんなことくらいしか出来ひんからな。たまには息子の言うことも黙って聞けや」

「クソガキが。親を出し抜くには十年早いっちゅうねん」

「おぉ。それでこそ親父や。今夜の酒はあんたのおごりやぞ」

「わかっとるわい。関係者みんな招待して三宮のクラブ、一軒貸しきったらあ」

佐伯さんに肩を叩かれ、親父は緊張気味に一歩をようやく踏み出す。親父が一歩を踏み出す毎に、徐々に周りから拍手が沸き起こり、エレベータの扉が閉まるときには「万雷の拍手」とはこういうものかと、俺は初めて知った。

エレベータに同乗した関係者のみなさんのかもし出す優しい雰囲気が俺たち親子を包む。親父は珍しいことに目を潤ませていた。ウイナーズサークルに降り立った俺は無言で親父の背中を軽く押し、アテンドを佐伯さんにお願いし、桐生源三と並んで記念撮影の様子を眺めた。

「相変わらず、写真は苦手かね」

「苦手を克服するのに費やすような時間はなかったんでな」

俺の返事に、おっさんは昔と変わらぬ微笑を浮かべた。

「これで、とりあえず親父の名前を歴史に刻むことは出来たか」

「良かったな、藤哉」

「後はあいつが重賞でも勝ってくれれば、名前は不朽になるんやがな」

「重賞?せこいこというなよ。目指すは、来年の初夏。府中の坂の頂上を一番に駆け抜けることやろ」

俺が憧れを抱きつつも、怖くて口に出来なかった台詞をおっさんはあっさり口にする。

「それが目的でやってきたんやろ。勝てないまでも、十八頭の中の一頭に入るて」

「確かにな。だが、それ以外に見えんもんと競争せなあかん」

「なんや?」

「親父の寿命」

「そない悪いんか?」

「五年生存率五十%。今四年二ヶ月。あと十ヶ月を無事に過ごせれば、しばらくは大丈夫やろうという医者の見解やな」

「で、それは親父さんも知ってるのか?」

「知らん。と言いたいが、多分知っとる」

「全く。お前の肝っ玉は、親父さん譲りや言うのがよーわかるわ」

親父は、ウィナーズサークルの中でタケミナカタのゼッケンを掲げ、満面の笑顔で涙を流しながら写真のフレームに収まっている。こちら側、わずか十m足らずの所で、自分の命に関わる話がされているなど夢にも思ってないだろう。

「間に合うとええな」

おっさんの呟きに、俺は黙ってうなずいた。そして、秋晴れの空を見上げ、滅多にしないことだが一番の星を見上げた。

「星に祈るなんざ、俺の柄じゃあないか。だが、気休めにはなるかもしれんな」

昼と夜の一番星に、モノは試しで願ってみることにしよう。忘れてなければ。しかし祈るだけで願いが叶うなら、「努力」なぞ何の意味もないことだ。冷静で残酷な、現実を、願うだけで乗り越えられるはずなんぞない。

「夢」はまだ、始まったばかりだ。主役の片割れを失う訳には、まだいかない。

風が足元から沸き起こる。ようやく風は向かうべき方向に吹き出した。


了


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