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ほしのふるさと  作者: 中村 遼生
13/15

第十三幕 風の行く先

「わかる気がするなあ」

「ん~、何が?」

口の中で呟いたはずの私の言葉を耳ざとくサクラさんが聞きつけた。思ってたよりも大きな声だったのかな。

「藤谷君の気持ちが、なんとなくですね」

サクラさんは笑顔で運転を続ける。全開にした窓から心地よい風が車内を駆け巡る。私の心の中のもやもやを吹き飛ばしてくれるみたいに。

「憧れって言うのかな。お兄ちゃんにしろ、桐生さんにしろ、スタイルが完成された人じゃないですか。そのスタイルに近づきたいって気持ち」

「そうかなあ」しばらくの沈黙の後、サクラさんは明るい笑顔で疑問符を返してくれた。

「周りからは完成されたって思われてるかもしれないけれど、あの二人は多分まだまだ発展途上だと自分たちでは思ってるんじゃないかな。二人とも年不相応に人間としての完成度は高いと思うけどね」

「でも、ゴールは見えてるんじゃないですか?」

「ゴールを自分で決めちゃう人生なんて楽しくないと思うよ。どこまで行ったら終わりなのかわからないから歩いていく意味があるんじゃないかな」

的確な意見だと思った。確かにお兄ちゃんたちは、少なくとも誰かから憧れの対象と思われたいなんて思ってないだろうし、ここまでやったら終わりなんて決めてないだろう。

「それにね、彩夏ちゃん。私は思うんだけど、憧れってのは物語が完結してしまった人に対して使う言葉で、書き続けてる人に対して使う言葉じゃないと思うんだ」

 そうだよね。村上藤哉の物語はまだ終わってないんだモノね。そしたら、お兄ちゃんの物語はどんな結末を迎えるんだろう。私の物語も。

「あ。そういえばさ。日本の法律で従姉妹以上の親等数だったら結婚できるんだよね。て事は、彩夏ちゃんと社長も法律上じゃ結婚できる訳だ」

「えっ?」

そうなの。私今までそんなこと考えたこともなかったから、混乱しちゃった。

「いや、あの、その。確かに私はお兄ちゃんの事は好きだけど、それは人間としてって意味であって、恋愛感情とかそんなんじゃなくて、なんていうか、その、テレビで見るアイドル、違うな、えーっと物語なんかに出てくる主人公みたいなもので、アレ何言ってるんだろ、私」

「それって結局『憧れ』ってことだよ。ひょっとしたら、彩夏ちゃんと私はライバルになるかもしれないね」大人の余裕を前面に出して言うサクラさん。

この人にはかなわないや。例え、私の中にあるこの淡い何かが恋心だとしても、それはもう心の奥底に沈めて持って帰るしかないね。

「藤谷君もそうだけど、彩夏ちゃんも焦って決めることはないんだからね。自分なりに、出来ることを一つずつやっていけば、辿り着くべき場所に辿り着くようになっているんだから」

「いい言葉ですね。辿り着くべき場所に辿り着くって」

「でも、十七歳の彩夏ちゃんが、十八歳になった時はこうありたい。十八歳なら十九歳までにこうなりたいって思うことは大事なんじゃないかな。さ、彩夏ちゃん。私たちの家が近づいてきたよ」

そう、私たちの家。夢限牧場がもう目の前に来ていた。

 サクラさんは駐車場に車を停めに行って、私一人事務所に向かった。

だけど人気がほとんどなかった。多分、みんな佐伯さんと土岐さんをお連れして牧場を案内してるのかな、と思いながら事務所の玄関をくぐり、従業員食堂の前を通りかかると、奥で一所懸命晩御飯の支度をしている楓さんを背景にして、お兄ちゃんと佐柳さんの二人が居た。二人して、スーツのボタンを外してくつろいだ様子で和やかにお話してる。

「やっちゃん。お久しぶり。相変わらずやね」

「仁ちゃん、ほんま久しぶりやなあ」

二人はコーヒーカップで乾杯を交わす。

その「相変わらず」、がどの辺の意味を指すのか良くわからないけれど、そのやりとりでこの二人も深い付き合いなんだなってのがわかるね。お互いすっごい満面の笑顔。

「あいつのあれにやられるんだよ。みんな」

いつの間にか背後に来ていた桐生さんが、ぽそりと呟く。

「人の好き嫌いは激しいが、好きとなったらトコトン」

桐生さんもそれにやられた口なんだろうね。

「じゃ、嫌いになった人は?」

桐生さんは眠たげな表情で私の顔を見て

「彩夏ちゃんは、食卓に自分の嫌いなおかずが食卓に上ったときにどうする」

「えーっと。お母さんにはいっつも怒られちゃいますけど、見えないふりして、残しちゃいます」えへへ。と照れ笑いを浮かべてみる。

「それと同じだよ」桐生さんは無表情で二人の様子を見つめてる。

あれ?ひょっとして、嫉妬してます?桐生さんってば。

桐生さんは大きなあくびをして、そのまま自分の部屋へと戻っていった。どうやら少し仮眠するみたい。流石に疲れたんだろうね、今日は。さっきの表情も単に眠たかっただけかな。

お兄ちゃんと仁ちゃんは、弾む声で会話を始めた。

「ほんま久しぶりやな、仁ちゃん。やっとお互い夢をかなえられそうなところまで来たね」

「俺はそうやけど、やっちゃんはまだまだやろ。法律家の夢は」

「捨ててないよ。いま勉強しよる。今年中には何とかしたいね」

「そうか。待っとるよ」

「しかし、二足のわらじはしんどいなあ」

「何言うとるの。俺なんて三足のわらじよ」

「せやったね」

お兄ちゃんはコーヒーカップを口元に運びながらひそみ笑う。

「彩夏。立ち聞きは良くないよ。紹介するから中に入っておいで」

また見つかっちゃった。お兄ちゃんすごいなあ。ドンだけ気配を感じ取れるんだろう。

おずおずと食堂に入った私を自分の椅子の側に手招くと、お兄ちゃんは立ち上がり、私の後ろ側に回って両肩に手を置く。

「仁ちゃん。この子は俺の従兄弟の子で小鳥が遊ぶと書いて『たかなし』、小鳥遊彩夏。この子の父系と俺の母系が同じ」

「何もそんなところまで馬に例えんでも。はじめまして。小鳥遊さん。僕は佐柳仁。東京で会社経営と法律家をしています。今年佐伯さんの紹介で長年の念願やった馬主になることが出来ました。やっちゃん、村上君とは3年前からの付き合いです」

仁ちゃん、佐柳さんは立ち上がり、笑顔を見せて丁寧に自己紹介してくれた。差し出された手が暖かい。お兄ちゃんの知り合いはみんな温かい手なんだなあ。

「こんにちは。小鳥遊彩夏です。佐柳って珍しい名字ですね」

「小鳥遊には負けるけどね。瀬戸内海に同じ字を書く島があるんよ。ご先祖はそこの出身かもしれんね」

彩夏が知らない地方のなまりが少し混じった言葉を話す佐柳さんは、笑顔が印象的。法律家らしく押し出しのよい黒っぽいダブルのスーツと好対照。年はお兄ちゃんとそんな変わらないくらいかなあ。彩夏より少し大きいくらいの体格だけど服のお陰で大分水増しされてる感じ。

「お兄ちゃん、佐伯さんと土岐さんは?」私は後ろを見上げた。

「いま高山の親父さんの案内で牧場を見て回ってるよ」

「佐柳さんは見なくていいんですか?」

「僕は友達とは商売しないことにしてるから」

と、コーヒーを一口。なんでだろ、お友達と商売するのなら両方幸せになって良いと思うんだけどなあ。

「彩夏。僕と仁ちゃんはお金の絡みで知り合って、法廷闘争寸前まで行ったのさ。お金の有難さもも醜さも知ってるから、ね」

お兄ちゃんは私の表情を見て、補足してくれた。私にはまだわからない話だけど、新聞なんか見てるとお金のせいで色んな事件が起きてるから、そういうのを避けたいって事なのかなあ。私は疑問が浮かんできた。

「え?じゃあ、こないだ言ってた馬を買いたいって言う話は?」

「ああ。嘘」お兄ちゃんはあっさりと答えた。

「嘘って」あたしは絶句した。

「本命は、調教師さんだけだったんだけどね。仁ちゃんが鯛も連れてきてくれたみたいでね」

「おいおい。しやったら、俺は海老かい」

お兄ちゃんは佐柳さんの言葉を笑顔で軽く受け流すと、牧場からの出入口の方を見た。

「そろそろ、戻ってきても良さそうやけどね」

佐柳さんが壁掛け時計を見てる。ちょっと時間を気にしてる感じ。

「今日中に東京に戻らんといかんのやったっけ?」

「うん。俺はね。明日の午後どうしても外せん用事があるから」

「お兄ちゃん」

私は、食堂の窓へ向かって伸びる三つの長い影を見つけて、指差した。

「あぁ。帰ってきはった」佐柳さんは少しほっとした表情。

やがて、食堂へとやってきたお三方はお兄ちゃんの回りに腰を落ち着けた。お兄ちゃんの前には佐伯さん、その隣に土岐さんと何故か髭さん。お兄ちゃんの隣に佐柳さん。なんか不思議な席の配置だね。そこへ楓さんがコーヒーを運んでくる。私は座るタイミングを逃してお兄ちゃんの後ろに立ったまま、この風景を眺めていたんだ。

運ばれてきたコーヒーをそれぞれが一口ずつ飲んで、最初に口を開いたのは土岐さんだった。

「貴方、ココに来るまでは本当に普通のサラリーマンだったの?」

「ビジネスマンと言っていただきたい所ですが、ご想像の通り単なる一競馬ファンでしたよ」

「信じられないわね。それでこれだけのモノを作り上げるなんて」

「そりゃ熱心な競馬ファンでしたし、それなりに大きな企業でプロジェクト運営に携った経験も生きているのでしょうね。それに優秀なスタッフに随分助けてもらってます」

そのやり取りを聞いていた佐伯さんが言葉を繋げた。

「まったくの素人が、一から牧場経営を始めて二、三年でスタッフ含めてこのレベルに達するのも素晴らしければ、先ほど説明いただいた微に入り細に入る事業計画。これだけ腰をしっかりと据えて取り組んでいるのなら、投資の対象としても有望と判断できました。早速来月からでも私の持ち馬を預かってもらいたいのですが、如何でしょうか。その実績次第では、将来的に生産も委託したいと考えています」

これには流石のお兄ちゃんもびっくりしたのか、きょとんとしてたよ。

佐伯さんって関西競馬会では大物で、経済界にも顔の利く大物なんでしょ。どれくらいすごいことなのか、彩夏には想像もつかないけれど、それだけの人に褒めてもらえるってきっとすごいことなんだよね。

「それとも、貴方のところの規模では苦しいですか?」

言いづらい所を早めのストレートで聞いてくる佐伯さんに対する答え方が、いかにも生真面目なお兄ちゃんらしくて面白かった。両手を足の付け根に置いて、姿勢を正す。

「正直、私どもの規模では佐伯さんのご希望に添える育成はできないかもしれません。ですが大切な財産であるサラブレッドをお預かりさせていただけるのであれば、私どもとしても仕事に一切の妥協はせぬよう、できうる範囲で精一杯努めさせていただく所存です」

深々と頭を下げるその姿を佐伯さんはどう思ったんだろう。私にはわからないけれど、少なくともその答えを聞いて佐伯さんが優しげな微笑を浮かべたのは事実だったよ。私は正直でどこまでもまっすぐなお兄ちゃんの答えが気持ち良かった。

「貴方とはよいお付き合いができそうだ。まずは一頭からお願いします」

と、佐伯さんは右手をすっと出した。きっと佐伯さんも同じ気持ちになったんだろうね。

お兄ちゃんも少し緊張気味に右手を差し出して、握手した。

「今後ともよろしくお願いいたします」

お兄ちゃんの声は心なしか震えているような気がした。佐柳さんが、お兄ちゃんの肩を軽く叩いて笑顔を見せた。

「ところで村上さん」

「はい」

「さっきから貴方の後ろに隠れている可愛らしいお嬢さんは、どなたですか。村上さんのご息女にしては」

「ええ。この娘は夏休み限定で親戚から預かっている娘です。よろしければご贔屓にお願いします」

「これは嬉しい。最近、若い娘さんと話をする機会が少なくてね。孫と何を話してよいのかわからなかったのですよ。その辺りをゆっくり教えていただけると嬉しいですな…えー」

「彩夏です。小鳥が遊ぶと書いて『たかなし』、小鳥遊彩夏です」

お兄ちゃんの影から前に一歩だけ進み出て、私も勇気を出して右手を差し出してみた。

「小鳥遊さん。佐伯です。よろしくお願いします」

私の勇気に応えてくれた右手は、大きくて暖かくて、お兄ちゃんや桐生さんの手と同じ感じがした。

「慎重な佐伯さんにしては珍しいですね」土岐さんが茶化すように言う。

「村上さんの生産、育成には一本の明確なコンセプトがありました。それは元々技術屋であり企業人である彼らしいものなんでしょう。我々馬主としては、やはり自分の愛馬を勝つのを見るのが何より嬉しいものです。そのためには強い馬を持つことはもちろんですが、数を走ってくれる事が望ましい。丈夫で強い馬作り。そのコンセプトに賭けてみたいと思います。また、種牡馬として日本で失敗の烙印を押された馬を海外に積極的にリースし、世界的な競馬のレベルを上げようとする彼の試みはこれはこれでまた面白いですね。そうして得た利益を各地の牧場に配分し、競争に耐えうる体力を付ける。構想としては非常に面白い。世界的な視野で競馬を捉え、その中で日本に最適な血統や配合を見出そうとする。一番遠回りに思えるが、これが一番の近道なのかもしれないと、今日牧場を見学させて頂き思いました。これが今日の正直な感想です。彼ならば従来にない方法で強くて丈夫な馬を送り出してくれそうな気がします」

佐伯さんは顔だけで後ろを振り返り、髭さんの顔を見て

「そしてまた、その考えがスタッフの方一人一人にしっかり浸透しているのがすばらしい」

はにかむ髭さんに、机の上で手を組んで微笑むお兄ちゃん。そして腕組して笑う佐柳さん、髪をかき上げる土岐さん。穏やかで温かい雰囲気。

私はこんな空気も好きなんだ、初めて知った気がする。この空気が永遠に続かないかなあ。

「佐伯さん。このようなことは時を移さず文書化することが双方にとっての幸福に繋がるかと存じますが」

佐柳さんが笑顔を崩さずに佐伯さんに向かって手を伸ばした。

「法律家の佐柳さんにそう言われては返す言葉もない。村上さん、ご用意いただけますか?」

佐伯さんは穏やかに応じる。

「はい。さすがにこのような条件は想定しておりませんので、少々お時間を頂いてもよろしいですか?取り急ぎ文書を作成してまいります」

「ええ、ええ。もちろんかまいませんとも。その間、小鳥遊さんとお話させていただいてもよろしいですか?」

「私はかまいませんが、彩夏。君はどうだい?」

お兄ちゃんは私の頭を優しく手のひらで叩いて言った。

「私?私もいいよ。でもお話できることなんかあるかなあ」

佐伯さんは笑いながら

「かまわないですよ。年寄りの独り言を聞いてくれれば、それでいいんですよ」

「なら、喜んで」

とびっきりの笑顔でお返事した。

「じゃあ、仁ちゃん。申し訳ないけど、手伝ってくれる?」

「あぁ。珍しいパターンやからね」

お兄ちゃんが席を立って一礼したのを合図に、お兄ちゃんは佐柳さんと事務室へ。髭さんは土岐さんと厩舎の方へ向かい、後には私と佐伯さん、そして調理場で夕食の用意をする楓さんが残された。

「村上さんは友人に恵まれていますね」

佐伯さんはコーヒーを一口含んでから言った。

「何がですか?」

「佐柳さんがあのタイミングで文書化を言い出さなかったら、口約束になっていたかもしれないということですよ」

「えー、佐伯さんそんなことする気だったんですか?」

私の疑問に佐伯さんは笑いながら答えてくれた。

「大人になるとね、自分の意思だけじゃどうしようもないことが出てきてしまうんですよ。それを回避するために既成事実として文書なり、なんなりの証拠が必要だ、と」

佐伯さんはカップを皿に置いて

「直接の商売相手であるわたしと村上さんの間ではそれは口にしづらい。村上さんとしては依頼される側だから条件をつけづらい。私としては自分が不利になることは言わない。そこで佐柳さんが助け舟を出した、という訳ですね」

うっわー。私にはにこやかに会話してるようにしか見えなかったけど、「駆け引き」の雨あられだね。「虚々実々」の駆け引きってこういうことを言うのかなあ。

「うーん。大人の世界って難しいですね。子供で居る方がよっぽど気楽だなあ」

「彩夏さんは素直な人ですね」

「ありがとうございます。他に取り柄はないですけど、これだけはお父さん、お母さんからも褒められます」

後ろ頭をかきながら言うと、佐伯さんは楽しそうにうんうんとうなずいてくれた。

いつの間にか、私の呼び方が「小鳥遊さん」から「彩夏さん」に変わってるけど、まあいいや。

「彩夏さんは、『クラシック』って知っていますか?」

「クラシック」

日本競馬の根幹。桐生さんに教えてもらってたけど、知らない振りして私が首を振ると、佐伯さんはイタズラが成功したときのお兄ちゃんと同じような顔をして、出されていたコーヒーをもう一口。男の人っていくつになっても子供みたいだね。イタズラが大好きなんだ。

「馬主である限りは、目指すは日本競馬の最高峰、日本ダービー。『ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になるより難しい』とは、かのウィンストン・チャーチルが言ったとされる台詞ですが、チャーチルならそう言っても不思議ではないと思えます。そのダービーを含む、皐月賞、日本ダービー、菊花賞。三歳時にしか挑戦できないこのレースを称して牡馬三冠。通称『クラシック』といいます」

そういう佐伯さんはどこか遠い目をして続ける。

「私が、村上さんに預けようと思っているのは、その『クラシック』を狙えるかなと思っている仔でしてね。馬主生活二十余年。過去にも何頭かこれは、という仔を所有したこともありますが、その中でもトップクラスにある仔だと思っています。ですがねえ、こういう時こそなかなかうまくいかないものでして」

「何がうまく行かないんですか?」私は素朴に聞いてみた。

「自信がある時ほど、色んなことが起きるんですよ。例えば直前まで順調に進んだけど本番前の調教で故障した仔もいますし、無事出走にこぎつけたものの、展開のアヤでズブズブに沈んでしまって、その後立ち直れなかった仔もいます。今回もそうなるんじゃないかな、と内心の不安と戦う毎日です。私に馬主として何かが足りないのかなとついつい考えてしまうのですよ」

佐伯さんは、自分の持ち馬でクラシックに出場した仔たち一頭一頭を思い出すかのように虚空に視線を泳がせてゆっくりと語りを進める。そこにはきっとその仔たちの勇姿が描かれていると思う。

「最後にダービーに挑戦したのは、一昨年。直前単勝オッズは三倍弱の二番人気。一番自信がありましたけど、追い込んで届かずの三着。一着との差は、一馬身半でした。テキもヤネも涙を流して悔しがってくれたんですが」

「テキ」とか「ヤネ」ってなんだろ。後でお兄ちゃんに聞いてみよう。私は心のメモ帳に書き込んだ。

佐伯さんは、両手のひらでコーヒーカップを大事そうに抱えて、残ったコーヒーの中に移りこむ自身の顔を眺めていた。

「でも、不思議と私は悔しくなかったんです。悔しくなかった、と言うと嘘になりますね。悔しかったんですけど、何か憑き物が落ちたような、そんな感じになりました」

「憑き物、ですか?」

私は、頭の中にクエスチョンマークが一杯並んでる。そんな私の顔を見て、佐伯さんはもっと噛み砕いて教えてくれようとしてくれた。

「例えば、そうですね。人に言われたとおりやって、言われたとおりの結果が出て、それで彩夏さんは嬉しいですか?」

「嬉しいのは嬉しいと思いますけど、あんまり嬉しくないと思います」

「どうしてでしょう?」

「えっと」

あれ、なんかずいぶん前にもこんなこと聞いた気がするよ。

「多分自分で決めてないから、かな」

佐伯さんは深くうなずいた。

「私もそうだと思います」

佐伯さんは、カップに残ったコーヒーを愛しそうにに飲み干した。

私は、佐伯さんの言葉をひとつずつかみ締めながら、佐伯さんの顔を下から見上げている。佐伯さんは大事な事を私に教えてくれようとしてるんだ。

「若い頃にね、アイドルホースと騒がれた一頭のサラブレッドがいたんです。地方競馬から中央競馬に殴り込みって、当時は相当騒がれたんですよ。弥生賞、スプリングステークス、皐月賞、連戦連勝でしてね。当時私は東京でしがない町工場の従業員だったのですけど、あの時代の、あの熱狂は忘れられません。その馬が勝てなかったのが、日本ダービー。絶対勝つと信じて疑ってなかったから、単勝馬券をね、当時の一か月分の給料の金額だけ握り締めて、応援したんです。結果は、悲しいものでした。あの日、家まで歩いて帰ったあのオケラ街道のせつなさったら、ありませんでしたねえ」

ってことは負けたんだね、そのレース。彩夏が生まれる随分前の話なんだろうね。だって、どう見ても六十歳は超えてる佐伯さんの若い頃、だから。

「オケラ街道ってなんですか?」

「あぁ。今も昔も、競馬場で競馬して有り金全部負けて歩いて帰る人の道を『オケラ街道』って言うんですよ」

佐伯さんは、ズボンのポケットの裏地を出して、少しおどけた風に教えてくれた。

「でも、勝ってる人も同じ道を歩いて帰るんでしょう?」

彩夏がそういうと、佐伯さんは小さく笑いながら教えてくれた。

「そうですね。でも、大勝ちした人は、競馬場からタクシーとかで帰ってしまいますから、歩いてなんて帰りません。歩いて帰るのは、ちょっと勝った人か、負けた人かですよ」

あぁ、なるほどね。と私は思った。佐伯さんは何回そのオケラ街道を歩いて帰ったんだろう。一回や二回でこの絶妙な雰囲気は出せないよね。

「そうですねえ、もう何回くらい歩いた頃ですかね。その内にふつふつと心の底から沸いてくる衝動を抑えきれなくなったんですよ。僕も馬主になろう。この悔しさを晴らす馬を買って、育てて、競馬場に送り出してやろうって。恥ずかしながら、長いこと忘れていましたよ。この気持ち」

私は、遠い眼をして話す佐伯さんに掛ける言葉がなかった。それは私みたいな子供が踏み入っていい領分じゃない気がしたから。

「その後、私は独立し会社を興しました。幸いにして事業は時流に乗り、十何年か過ぎてようやく馬主になれました。それからコツコツと持ち馬を増やして勝利を積み重ねました。中には記録を残した仔もいました、記憶に残る仔もいました、幸い種牡馬になって歴史に名を刻めた仔もいます。幾頭もの優駿が、私の名前と共にファンの声援を受けて時代を駆け抜けていきました」

佐伯さんは今まで一緒に時間を過ごしてきた仔たち一人一人思い出すかのようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

「でも不思議なものでしてね。勝てば勝つほどに欲が出るんですよ。もっと勝ちたいというね。その欲が出ると、不思議なもので成功事例にすがりつきたくなるんです」

「成功事例、ですか?」

「そう。こうすれば勝てる、というですね。一流の血統、育成、調教師に頼りたくなる。過去の実績は将来を保証するものではないにも関わらず、ですね。それが『憑き物』です」

なるほど。佐伯さんの言う「憑き物」は思い込みとか先入観のことなんだね。

「私も歳が歳です。この先、そう長くは活躍できないでしょう。ですので、今のうちに色々と新しいやり方を試して、後世に範を垂れたいのですよ。色々な方の力をお借りして」

佐伯さんは、食堂の大窓からもう半分以上、山の彼方に沈んでいる夕日の方に顔を向け、空に浮かぶ(あお)(あか)のグラデーションに染められた流れる雲をゆっくりと追いかける。やがて、赭から蒼へ、そして漆黒へと変わり行く空を見ながら、私の4倍近くの人生を生きてきたこの人は、何を思っているのだろう。

「退屈でしたか。こんな話は」

「いいえ。大変勉強になります」

「そうですか、それは良かった。私の孫などは友達と遊ぶ方が楽しいらしく、私の側には寄り付いてくれません」

「もったいないですね」

「そう言っていただけますか。これは嬉しいですね。では、もう少し古臭い話をさせていただけますか?」

「喜んでお伺いします」私は、満面の笑顔を浮かべて応えた。

「昔から王道と覇道というのがありましてね。私はこれまで王道を進んできたつもりなんですが、実はそうではなかったのかもしれないと最近思うようになってきたところです。彩夏さんは、中国の古典に詳しいですか」

「私はそれほどでもないですけど、お兄ちゃんは、相当詳しいと思います。古今東西、『歴史』と名の付くものでお兄ちゃんが興味を持たないものはありませんから」

佐伯さんはさもありなんと言った風情で頷いた。

「あの年で、そういったことを意識して経営と言うことに反映しようとする姿勢がすばらしいと私などは思います。天与の才能でしょうか。見たところ、天の時、地の利、人の和すべてそろっているように見受けますし、本人の性質もまっすぐです。稀に見る人傑かもしれないですね。彩夏さんの大好きなお兄ちゃんは」佐伯さんの言葉が私は嬉しかったけど、後に続けられた言葉は何故か勢いに欠けていた。

「きちんとした大人の背中を見て育てば、次世代には必ず想いは受け継がれるものなのかもしれないですね」佐伯さんはどこか寂しそうに呟いた。

「そういえば、彩夏さんはどこにお住まいなのですか?」

私は関西にあるベッドタウンの名を上げた。

「そうですか。私の住まいとそんなに離れていませんね。是非一度拙宅に遊びにいらっしゃいませんか?もちろん村上さんとご一緒に。そうですね、今回預けようとしている仔のデビューを阪神競馬場にしましょう。その時に」

あれあれ。一人合点で話が進んでるけど、まあいいか。こういうときに話に乗っとくと大体後で面白い方向に話が転がるもんね。なんか、お兄ちゃんに似てきたかな。

「お待たせしました」

お兄ちゃんが佐柳さんと連れ立って戻ってきたのはそのときだった。

「細部は別添ということで後日佐柳さん立会いの下で詰めさせていただくとして、まずは概要をご確認いただけますでしょうか?」

佐伯さんはろくに内容を見ずに、スーツの内ポケットから高級そうな万年筆を取り出して書名欄に名前を記入した。相当な達筆で私にはなんて書いてあるかすら判読できない。

余りにもあっさりサインされたので、お兄ちゃんも流石にあっけに取られていた。

「村上さん。人が人を信用する。ということは、こういうことではないですか?」

そう笑顔で言った佐伯さんにお兄ちゃんは最敬礼で応えた。

北海道の夜は早い。夕焼けの上で、色んなモノが交じり合う。やがて夜の帳がゆっくりと下りてくる。今日の風は、たくさんの事件を運んできた風は、色んな方向から吹いて、私の心を千々に彩る。この風を纏め上げて、私は歌にすることが出来るかな。夢見がちな現実主義者たちの心を紡ぐことは出来るかな。あきらめない限り、終わることのないこの物語を。



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