第十二幕 風の成り立ち
「どうぞ、こちらです」
彩夏とお兄ちゃんが別れてから、きっかり1時間後。従業員食堂に、お兄ちゃんと桐生さん、それに土岐調教師と佐柳、佐伯両馬主がお兄ちゃんに先導されて姿を現した。
「これが当牧場自慢のスタッフとスタッフの仕事を支える食事です」
「ほぅ。塩さば、きゅうりと昆布の浅漬け、ゴーヤチャンプルー、豆腐と揚げの味噌汁、ですか。なかなか栄養のバランスが良さそうですな」
佐伯さんは笑顔で言った。
もっともお兄ちゃんと佐伯さん以外後ろの人たちは唖然としてる感じだけど。あ、桐生さんはいつもと変わんないか。
「お席を用意させて頂いておりますので、ご遠慮なくご賞味下さい」
「いや、これはありがたい。朝から何も食べずに参りましたもので、嬉しいですな。では、遠慮なく」
唖然としてるのは二人の後ろの人たちだけじゃなくて、私以外のみんなも似たようなもんだったんだけどね。お客様を食堂に連れてきたことに?うん、多分それもあるだろうけど、どっちかって言うとお兄ちゃんの変わりようにだろうね。
ついさっきまで、泥だらけのスニーカーにジーンズ、Tシャツ一枚で汗取り用のタオルで鉢巻だった人がさ。
サイドベントは深めのシングルの三つボタンスーツ。色はやや濃い目のグレー。ポケットは少し角度をつけてある。トラウザースはノータックだけど上腿部は太く下腿部が極端に細い、全体的にどこか乗馬服を意識させる仕立て。靴は柔らかな印象のジョドパーブーツ。髪もいつもみたいに荒れ放題じゃなくて、きちんと櫛をいれて調えて、無精髭も綺麗に剃ってある。
私は何回か見たことがあるスーツ姿のお兄ちゃんだけど、ひょっとしてみんな初めて見るのかな、正装したお兄ちゃん。うーん、残念。これは私だけのものにしておきたかったなあ。
「しかし、村上さんも変わったお人だ。私も色々と牧場を回らせていただきましたが、初対面で従業員食堂に案内されたのは初めてですよ」
快活に笑う佐伯さん。なんか懐の大きそうな人だね。
「私どもの考え方をご理解頂く為には、最善の方法かと思いまして」
「ほぉ。なにやら面白い趣向がありそうですな」
「えぇ。さしたるものではございませんが」
楓さんの手によって四人分のお膳が運ばれてきた。桐生さんは自分で取りに行ってちゃっかり私たちの側に座ってさっさと食事始めたもん。ビジネスの話は完全にお兄ちゃん任せ、と言うかそういう分担なんだろうね。
4人は、「いただきます」と手を合わせて健啖に食事を進める。
「ところで、村上さん。以前どこかでお会いしたことがありませんか?」
唐突な佐伯さんの発言にお兄ちゃんは箸を止めて
「いえ。しがない会社員でしたから、佐伯さんのような方とお会いする機会を頂くことはなかったかと存じます」
と言葉を選んで答える。こういうときに立て板に水で言葉が流れ出すのがすごいよ。
「そうですか。いや、懐かしい雰囲気をお持ちなので、どこかでお会いしたかと思ったのですが」
しばし無言で箸を進める四人。
「先ほど会社員とおっしゃいましたが、村上さんは佐柳君とどのように知り合われたのですか?」
佐伯さんが、塩さばの皿の上で箸を迷わせながらたずねた。
お兄ちゃんと佐柳さんはどちらが答えるべきか、二人で目を合わせて譲り合ったが、最後には佐柳さんが右手で進めて、お兄ちゃんが苦笑いしながら話しだした。
「以前勤めていた会社で、法務を担当しておりまして」
ここで従業員のみなさんから驚きの合いの手が入る。お兄ちゃんは横目でちらりと長机のこちら側を見た。そして私は見逃さなかった。お兄ちゃんが珍しく照れている事を。
私は隣に座ってる桐生さんの袖を引っ張って聞いてみた。
「ね、桐生さん。あれホント?」
「嘘みたいな真の話とはこの事だね。あいつアレで『法令順守』にはうるさいから多分ホントの話なんだろう。それにさっきも見ただろう」桐生さんはきゅうりの浅漬けをご飯の上に載せて綺麗な箸遣いで口元へ運ぶ。
そう言えばさっきの立ち回りの時、お兄ちゃんやたら口うるさかった気がしたけど、法務実務やってたのなら、わからなくもないかな。
「はて。村上さんは技術系の方とお伺いしておりましたが」
塩さばに箸を伸ばす佐伯さん。一口頬張ると、満足げな微笑を浮かべる。
「流石は北海道。内陸といえども海産物は美味いですな。いやいや、もちろん焼いた方の腕も確かなのでしょう」なんてことを言ってる。
「ヤダねえ、普通に焼いただけなのに。旦那にもあんなこと言われた事はないよ」
「嘘付け。毎日言われてるだろ」
「お、おい」
と、照れる母親、ツっこむ息子、焦る父親。小声の高山家。
「いやまあ、お恥ずかしい話です。技術系なのですが、生来口が達者なのと賢しいのを買われまして一年のアメリカ研修の後、新規事業開発プロジェクトに回され、そこで最初に任された仕事のメインが法務実務、特に知的財産権の保護に関わる部分でした」
「なるほど。新規事業となると技術も法律も理解できる人間でないと難しいですな」
「いや、技術はともかく法務の方はまったくの素人からはじめまして、法律の条文を杓子定規に判例と照らし合わせて解釈しながらやっていたような次第です。その頃に、出会ったのが佐柳さんです」
いつの間にやら、お兄ちゃんは箸を置いて、両手を膝の上に載せ、姿勢を正して話してる。
「ほほぉ。どういう出会いでしたか」
佐伯さんは一層興味深そうに問いかける。
「一言で言うと、『敵』です」
この言葉には佐柳さんも苦笑した。佐伯さんは二人を目の前に、顔を見比べると
「なかなか穏やかならぬ表現ですが、いまお二方の間に流れてる空気はそう言ったものを一切感じさせませんな」
「彼と争ったのは、彼が販売している『ある情報』の対価の正当性についてでした。私どもと彼の企業ではその対価は何故その金額になるのか、というところで大きく解釈が別れ訴訟寸前まで行きました。確か当時で3億ほどの契約だったでしょうか」
「それは大事ですな。どのように解決なさったのですか?」
「新橋の居酒屋で、ビール箱椅子にして、飲み比べをしながらの実力行使を多少伴う議論です」
お兄ちゃんは佐柳さんと昔を懐かしむように顔を見合わせて、笑った。仮にも一流企業に勤めてるサラリーマンと馬主になるほどの実業家が、「実力行使」って「殴りあい」のことでしょ、多分。笑い事じゃないと思うんだけどなあ。よく警察沙汰にならなかったよね。
「ほほう。私が現役の時代にはそういうことをする男たちがたくさんおりましたが、なかなかお二人とも血気盛んでらしたのですな」
「血気盛んと申しますか、若気の至りと申しますか、いやはや、何ともお恥ずかしい限りです」
「で、結局どちらが勝ったのですか?」
「それは秘密です。いまだにお互い譲りませんので。ですが、その一件以来交友を重ね、今ではこういう関係です」
改めてお兄ちゃんは箸を取り、およそエレガントとは言いがたい勢いで食事が終わろうとしている先発の皆さんに追いついた。
佐伯さんは、もう一度お兄ちゃんと佐柳さんの顔を見比べて、微笑を浮かべた。
「いや、面白い。一度は喧嘩をするまでの中に成ったお互いが認め合い、新たな関係を築き合うとは」佐伯さんは大笑いした。
「若輩の身で身の程を知らずして法律家に喧嘩を売った愚か者です」
お兄ちゃんがへりくだって言うと、佐柳さんは
「大手の企業に所属しながら、己の主張するべきところははっきりと主張し、上にも下にも一切折れ曲がることはありませんでした。彼の強みは敗北を糧とする柔軟な姿勢が取れるところです」
「ほほお。ますます面白い。毒舌で鳴らす佐柳君がそこまで手放しで他人の事を褒めるとは」
「それほど毒舌でもないと、私自身は思っているのですが」
佐柳さんは苦笑する。
「あぁ。そうそう。村上さん。なかなか面白い趣向でした。この後のプレゼンテーションが楽しみですね。期待させていただきます」と佐伯さんは席を立ち、言った。
「ご理解いただけて幸いでした。微力を尽くします」
お兄ちゃんは深々と礼を施すと、サクラさんにお三方を応接室に再度ご案内してお茶をお出しするようにお願いした。
5人が消えた後、みんなで額をつき合わせて井戸端会議を始める。
「社長の経歴ってよくわかんない所があったんだけど、ホントに大手企業に勤めてたんだね。なんで辞めちゃったんだろ、もったいない。ね、彩夏ちゃんどこに勤めてたか知ってる」純子さんがちょっと興奮気味にまくし立てる。こう、ど真ん中で聞かれると私も逃げる余裕がなくて、誰もが知ってる企業の名前を挙げた。
「えー。ホントもったいない。なんで辞めちゃったんだろ。場長何か知ってます」
「知らない。僕もその頃は牧師だった」
さっきよりも更に大きい悲鳴に近い声が全員からあがった。
「ぼ、ぼ、牧師ですか」あ、珍しい高山さんが慌ててる。
「貴方の罪を悔い改めなさいって言うあの?」純子さんは更にテンションを上げる。
「場長と教会」何か納得いかない様子で首をひねる陽子さん。
桐生さんは、珍しく「しまった、口を滑らせた」、というような表情で塩さばの尾っぽの方を大きめに取って大根おろしを乗っけ、口に運ぼうとしてる。
「僕と社長の年の差は二歳。社長に誘われてココに来るまでの間、何もしてない訳はないだろう」箸をおいて、両手を合わせる桐生さん。
「そ、それじゃあその間どっかの教会に属してたんですか」テンション高くなりすぎて、訥ってるよ、純子さん。
「そりゃそうだ」
「じゃあ、進化論とか」
「認めない」
「聖書に書いてある話は」
「全て事実だ」
「博打してもいいんですか?」
「駄目だ」
「えーじゃあ、馬券なんか買っちゃ駄目じゃないですか」
「僕は馬券を買ったことはない」
「だって、社長と時々場外行ってるでしょ」
「アレは社長が馬券を買うときに参考意見として僕の意見を聞いてる。当たったら、アドバイザー料をくれるだけだ」
「え、じゃあ、パチンコとかパチスロは」
「あれは、お金を払って遊戯して玉なりメダルなりを景品に交換したら、景品を買い取ってくれる業者が近くに居るだけのことで、正当な商取引だ。国も認めている」
マシンガンのような純子さんの問いかけをこともなげに捌く桐生さん。
私が聞いても詭弁だと思うけど、隙がない。やっぱり桐生さんも常に理論武装するタイプなんだね。流石議論を肴にお酒を嗜むだけのことはあるよ。
でも進化論も認めてない、博打はしてないって言い張る人が競走馬の牧場の責任者って、どうなんだろう。
「競馬は、間違うことなき『博打』だ。だが、『博打』をやる人間が即悪か。さにあらず。では『博打』が悪か。さにあらず。そもそもなぜ『悪』になるのか。それは『博打』で身代を傾ける人間が出るからだ。その結果、色々な悲劇が生ずる。故に『博打』は悪とみなされる。ただ、その動機は如何なるものだろうか。家族にいいものを食わせてやりたい、いいものを食いたい、好きな馬を応援したい、自分の推理を証明したい、そういった思いは純粋ではないのか。それをたまたま『博打』という分野で表現しているだけではないのか。故に競馬は博打であってもそれに携る事は『悪』ではない」
口を開けて呆然としてるみんなを残して、桐生さんは席を立つ。多分厩舎事務所にでも向かうんだろう。桐生さんの背中をただ見送ることしか出来ない私たちが後に残された。
「さ、流石と言うか」
「社長の友達って言うのは」
「あれくらいでないと」
「つとまらない」
「時代は変わったねえ」
「イヤ。時代は関係ないだろう」
「ああ言う人だ」
席の順番に私、サクラさん、純子さん、陽子さん、楓さん、高山さん、髭さんの競演でした。
「さて、彩夏ちゃん。藤谷君のお見舞いにでも行こうか」
「あ、もう大丈夫なんですか」
「うん。楓さんが病院に居る間に意識が戻ったって」
「それは良かった」
「で、元気すぎて退屈してるみたいだから話し相手に行って上げてだって」
「え、でも私たちでいいんですか?」
サクラさんは急に小声になって
「うん。楓さんがうっかり口滑らしちゃって。タケルのことを大分心配してるみたいだから」
「あ、なるほど」
そりゃ、藤谷君も心配だよね。自分の不始末、じゃあないけれど自分の関係する事件で牧場が大騒ぎになったんだもん。気にならない方が嘘だよね。
「じゃあ、三十分後に駐車場でね」
「はーい」
私たちが動きだしたのを合図に、みんなもそれぞれ仕事に戻るために席を立つ。
もちろんここから駐車場までは5分もかからないけれど、私たちは女の子だから、やっぱりお化粧直しとか必要だからね。
私は十分もかからずにお化粧を直すと、駐車場に向かってゆっくり歩き出した。いつもみたいに、後ろに手を組んでね。
今日は色々「事件」が起きた日だなあと思う。彩夏が来たこのタイミングで事件が起きるなんてね。
「はっ、まさか」
私、まさかお兄ちゃんと同じ血を引いてるからって行く先々でトラブルを起こす血統まで引き継いでしまったんじゃ。いや、そんなはずは。小学校、中学校と事件、事故に巻き込まれるようなことなかったし。気のせい、気のせい。星の周りのせいだよきっと。藤谷君には悪いけれど、彼の運が悪かったんだ。うん多分。
立ち止まって真昼の空に視線を移ろわせていると
「よ。彩夏ちゃん。どうしたの?」
「サクラさん」
「なんかあった?」
「いや、トラブルを巻き起こす血が遺伝してないかなと不安になっちゃって」
「あっははは。そんなもん遺伝する訳ないじゃん。そしたら、日本中のあちこち、彩夏ちゃんの親戚の居るところでトラブルだらけだよ」
「そ、そうですよね」
「それにさ、彩夏ちゃんじゃなくてその大元みたいな人がココにいるじゃん。もしそういう血統があったとしても、悪いのはそっちじゃない?」
ああ、なるほど。それはそうかも。
「さ、行こうか」
サクラさんが運転席に乗り込んだのを追っかけて私も助手席に滑り込んだ。
「でも彩夏ちゃんには結構散々な夏休みになっちゃったかもねー」
「そうでもないですよ」
走り出した車の窓を全開にして、髪に吹き込む風をまとわせる。
そう。そうでもない。もしここにこなかったら、ゼミに通ったり、バイトしたり、バンド活動したりの普通の毎日、普通の生活をしてたと思うんだ。それに比べればよっぽど刺激的で、勉強になってると思う。
「そうでもない、か」
「あ、ごめんなさい。気に障っちゃいました?」
私はサクラさんの横顔を反射的に見た。その微笑には怒りはなかった。
「ううん。確かに普通の夏休み送ってるよりはよっぽどいいよね。私が彩夏ちゃんの歳の時は、何してたかな、と思ってさ」
そっか、サクラさんにとっては10年前のことなんだ。「もう」と「まだ」どちらが相応しいのかはサクラさんにしかわからないことなんだろうなぁ。私は10年後、何してるかなぁ。
「自分の将来、か」
私は小さく呟いた。
「なぁに。さっきから黄昏ちゃって」
サクラさんは微笑みを崩さないまま、私を和ませるような口調。これが大人の女の「余裕」って奴かな。私はその余裕にちょっと甘えさせてもらうことにした。
「なんか、こっちに来てからなんか色々と考えさせられることが多いなあって思って」
「おー、悩め悩め。ティーンエイジャー」
「当たり前のことなんでしょうけど、私には私の世界があって、お兄ちゃんにはお兄ちゃんの世界があるんですよね。お兄ちゃんの世界に比べて、私の世界ってなんて小さいんだろうって、ちょっとショックって言うか、なんて言うか」
サクラさんは表情を変えずに一瞬だけ私の方を向いて言った。
「そりゃあそうよ。でもね、それは経験が作るもので歳月が作るものじゃないのよ。それは勘違いしちゃ駄目だと思うな」
「経験、ですか?」
「そう。例えば、同じ一年を過ごすのでも一所懸命過ごした人とだらーっと過ごした人の一年後が同じ訳じゃないでしょう?」
「アリとキリギリスですね」
つまり、お兄ちゃんがそれだけ濃い人生を送って来たってことなのかな。
「社長にしても場長にしても並の人じゃないから仕方ないんじゃない。あの人たちの真似をしようなんて思わない方が良いよ。彩夏ちゃんには彩夏ちゃんなりの人生があって、毎日生きてけばそれでいいんだからさ」
私なりの人生かぁ。うーん。難しいなあ。
「どうしたらいいんでしょうねえ」
「あら、簡単よ」
「えっ?」
「社長曰く。『今日を生き抜いた奴にしか明日は来ない』。場長曰く。『一回戦を勝ち抜かなきゃ二回戦には進めない』」
私は一瞬きょとんとしたけど、その後大笑いしちゃった。お兄ちゃんと桐生さんらしい。
「二人とも大真面目にそう思ってるから、私たちとしては困るのよねー。しかも主義主張が微妙に違うし」
サクラさんはちょっと困ったような表情、ちょっと苦笑い気味かな。でも、私今の話だけだとおんなじ様に感じたんだけど、違うのかな。そう言えば前に桐生さんも似たような台詞を言ってた気がするなあ。
「社長は自分で実践してるから、『一所懸命生きる』事は誰でも出来ると思い込んでるのよね。場長は勝てばそれで良いって主義の人だから、まだいいんだけど」
サクラさんは軽くため息をついた。
「それでよく喧嘩にならないですね」
「うん。だって、根っこは同じだもん。あの二人。それにきちんと分業して、お互いの領域には出来るだけ口出ししない人たちだから、喧嘩になりようがないもの」
「お互いの領域、ですか?」
「そ。社長は営業と企画。場長は牧場運営と配合。お金の出し元はオーナー。うちはオーナーがしっかりとした実業家でそれなりの規模の馬主さんだからこんな体制とってられるんだけど、他の牧場だとちょっと経営が厳しいだろうね」
「牧場経営ってそんなに大変なんですか?」
「大変も大変。零細牧場なんてどんどん潰れていっちゃってるよ。銀行もバブルの頃みたいにお金貸してくれないし、折角生産した馬も売れないし、大手以外でうちみたいに安定経営なんてないんじゃないかな。うちはオーナーがしっかりしてるから、社長と場長が来た時に結構大規模な投資ができて、それなりに収益が上がる態勢に持って行けたけどね。それで人も増やせたし」
「そこまでして、牧場経営するメリットって何なんでしょう?」
私は失礼かもしれないけれど正直に聞いてみた。
「そうねえ。何でかしらねえ。社長に直接聞いてみたら?」
「え、でもそんな」
「だーいじょうぶよ。社長、彩夏ちゃんには甘いから。怒られやしないって」
そうかなあ。なーんか、地雷を踏みそうな気がするんだけど。
「もうそろそろ、病院に着くわよ。この辺には珍しくおっきな病院なんだから」
「あのー、ひょっとして」
「そ。オーナーが院長の病院」
あっちゃあ、やっぱりか。
「居たら紹介してあげるね」
「あ、お願いします」って答えるのが精一杯だった。
病院の正門をくぐって駐車場に車を止めようとすると、丁度軽自動車に乗り込もうとしていた一人の紳士が私たちに気がついて振り返り、笑顔で会釈した。
サクラさんは車を紳士の隣の枠に止めて、運転席から降り立って挨拶を交わす。
「こんにちは」
「やあ、こんにちは」
お兄ちゃんと同じくらいの背丈に少し猫背でお腹の出た小太りの体。ダークブラウンのダブルのスーツがよく似合ってる。茶色って着こなすのが難しいんだけど、ネクタイとシャツ、靴の配色を上手に取ってるから、どこからも文句のつけようがないなあ。なんて言うか全体のバランスが取れてる感じ。貫禄を前面に押し出す仕立てだね。
「お出かけですか?」
「ちょっと、この辺りの会合にね。委員長なんて引き受けるんじゃなかったよ。今日は、どうしたんだい?」
「あら。ご存知ありませんでした?おっちょこちょいが一人お世話になってるはずなんですが」
「ああ。そうだったね。大事がなくて何よりだった。それにしても藤哉君の大立ち回りは見事だったらしいねえ。所轄警察の剣道部長が舌を巻いていたよ。古流剣術の使い手なんかとは滅多に立ち会えないから是非一度稽古に来てもらいたいとのことだったよ」
「あら、社長もすっかり有名人ですわね」
「そうだねえ、あ。失礼」
紳士は内ポケットから薄手の携帯電話を取り出した。
「はい。村上です。ああ、うん。いま来てるよ。運良く丁度駐車場で行き会ったところだよ。うん。わかった」紳士は携帯を内ポケットにしまいにこやかに言った。
「桐生君からだったよ。うちのじゃじゃ馬二人がそちらにお邪魔してると思いますのでよろしくとのことでした」
「場長も失礼ですわねえ。じゃじゃ馬なんて」
「そう言えばそちらは」
「ああ。紹介差し上げるのが遅くなりましたわね。こちら小鳥遊彩夏さん」
目の前の老紳士は軽くうなずくと
「藤哉君から話は聞いていますよ。よろしく。私が夢限牧場オーナーの村上健吾です」
「あ、た、小鳥遊です」
「彩夏さんとお呼びしてもよろしいですか」
「は、はひ」
「はっはっは。そんなにおびえなくても大丈夫ですよ」
オーナー、村上健吾さんは運転席に乗り込むと
「あぁ。そうそう。藤谷君は頭をやられてるから一般病棟でも個室で一応面会謝絶にしてあるけど、ナースステーションに一声かければそれでいいように私から連絡しておくよ。確か、病室は五階だったかな」
「ありがとうございます。オーナーから何か伝言は?」
「そうだなあ。逃げ足をもっと鍛えなさいとでも伝えてもらおうかな」
サクラさんは上品に笑い「わかりました」と答えた。
オーナーは車のエンジンをかけて、ゆっくりと出て行く。サクラさんは車が病院から出て行くまで丁寧にお辞儀して見送った。
「ねえ、サクラさん。オーナーさんってお兄ちゃんと同じ名字だね」
「そりゃそうよ。オーナーのおじいちゃんと社長のひいおじいちゃんが確か兄弟だもの」
えー。知らなかった。それってどういう関係になるんだろう。あれ、でもお兄ちゃんの父方の従姉妹がオーナーの息子さんのお嫁さんって言ってたよね。うわー、もうややこしい。
「ね、訳わかんないでしょ」
頭を抱える私を見て、サクラさんは面白そうに言った。
「多分そういう血縁関係もあったから、オーナーもあっさり社長に牧場を任せたんだと思うんだけどね」
サクラさんは車のキーを人差し指に引っ掛けて回しながら、
「さ、おっちょこちょいにオーナーの伝言を伝えにいきましょうか」と安心した顔で言った。なんだかんだ言ってやっぱり心配してたんだね、藤谷君のこと。
サクラさん情報によると藤谷君は、今日の昼前に救急病棟から一般病棟に移ったところだった。なんかちょっと早すぎる気もするけれど、検査で特に異常が認められなかったこととオーナーの知り合いってことで早めの移動になったんだって。でも良かったよね。
オーナーさんの病院はこの辺で唯一の総合病院らしく、受付ロビーは午後なのに大勢の人でにぎわっていた。でも、大体はご年配の方ばかりで、井戸端会議に来てるのか診察に来てるのか良くわかんないけど。でもなんかおっきな病院にありがちな殺伐とした雰囲気がなくて、ほのぼのとしてて私は好きだなあ。全体的な配色の基本が薄い緑色なのもなんか関係があるのかも。
私たちはオーナーさんに教えられたとおり五階のナースステーションを訪ね、藤谷君の病室に案内してもらうと、横開きの扉を静かに開けた。
「おっ。サクラはん、彩夏はん。見舞いに来てくれはったんですか?」
「あんたねえ、ホントそのアクセントのおかしい関西弁どうにかしなさいってば」
「いやあ、嬉しいなあ。牧場の誇る二人の美人が見舞いに来てくれるなんて」
「あら、そう」
あっさり誤魔化されるサクラさん。いくらなんでも今のに誤魔化されるのはどうかと思いますが、サクラさん。
「で、どうなの?傷の具合もだけど、襲われた時の状況とかさ」サクラさんが椅子を二脚、ベッドの下から引き出してその一つを私に勧める。
「それがはっきり覚えてませんねん。後ろからいきなり、なんや硬いもんでやられたんで。それで意識を失ってしもうとるから、この両腕の傷やら何やらはなんでついたんか、さっぱりですわ。医者が言うには無意識に暴行を避けようとしてついた防御創やないかっちゅうことですわ。脳の方にも異常はのうて、打撲だけで済んだんですけど、二、三日してから異常が出る場合もあるから、まあ最低三日は入院ですわ」
「しっかし、あんたも運悪いわねえ。あ、そうそう社長が逆転の発想で宝くじでも買ったらどうかって言ってたわよ」
「あ、そらよろしいですな」屈託なく笑う藤谷君。
「でもなんにしても無事で良かったよ」
「おおきに、彩夏はん。彩夏はんには申し訳ないでんな。折角の休みでのんびりしにきはったんやろうに、色々事件が起きて」
「そうでもないよ、滅多に出来ない経験だもん。それにここにいたら、宿題もはかどるしね。優秀な家庭教師が二人も居るから」
「社長と場長でんな。たしかにあの二人に教わったら完璧ですな」
「ま、あんたの敵はしっかり社長が取ってくれたから安心して寝てなさい」
「昼ちょっと過ぎた位に場長が来て、教えてくれましたわ。なんかごっつい大立ち回りかましてくれはったみたいですな」
私とサクラさんは顔を見合わせた。いつの間に来たんだろう。そう言えば桐生さんも昼ごはんに遅れて来たけど、アレって商談に参加してたんじゃなくて、藤谷君のお見舞いに来てたんだ。
「流石場長だね。普段は悪態ついてても、きちんとすることはする」
「ええ。尊敬できる人です。何から何まであの人みたいになれるとは思えませんけど、見習えるところは見習いたい思います」
「お。青少年。その考え方はいいぞ」
「ねえ。藤谷君」
「なんでっか」
「藤谷君は、何でココに来たの?」
「お。『彩夏探偵団』でんな」
私は、どれだけ広まってるのか、ちょっと不安になった。なんか、耳年増って言うか、好奇心旺盛って言うか、悪いイメージが先行してないかなあ。
「いやいや。誰でも知らんところに来たら、『何で』が先行するのは当たり前のことでっしゃろ。かまいまへんで。何でも聞いてください。何で僕が夢限牧場で働くようになったか、でしたっけ?」藤谷君は私の表情から不安を読み取ってくれたみたい。なんだ気遣いもできるんじゃん。てことは、やっぱり一言余分なだけなんだね。
藤谷君の言葉に、私は黙って小さくうなずいた。
「僕がこの牧場に来たのは、3年前の春くらいのことですわ。もうすぐ正式に開場する言う、その寸前です。丁度雪がなくなりそうな頃です」
サクラさんの方に視線を向けると、てきぱきとお茶の準備をしてる。流石気がつく人は違うなあ。私もこういうところ見習っていかないと駄目だね。
「はい。お茶。ちょっとは体温めた方がいいよ」サクラさんが湯飲みになみなみと注いだお茶を藤谷君のテーブルに置く。そういえばこの病室ちょっと冷房効きすぎかな。藤谷君は「おおきに」と礼を言う。
「へえ。開業する前の牧場に何しに来たの?」
「行き倒れですわ」
「い、行き倒れ」
「ほら、ようありますやん。高校卒業してすぐ位の奴が自分探しに旅に出るって。僕の場合はそれが北海道やったんです。歩いて北海道一周したろおもて、函館から歩き出したんですけど、北海道の広さを舐めてました。丁度牧場の入り口で人だかボロ雑巾だかわからんような状態で行き倒れですわ。それを見つけてくれたのが社長と場長です」
「よう」はないと思うけどなあ。自分探しの旅に出るなんてこと。お兄ちゃん、何でもすぐに拾う人だけど、何も人まで拾わなくても良いのにね。
「汚かったわよねー。あの時の藤谷君。ホント、どこのホームレスが紛れ込んできたのかと思ったわよ」
「それを社長が『いまどき行き倒れとは珍しい。なにか仔細あってのことかもしれん。面白いから風呂入れて、飯食わせたったら僕の部屋に来させて』言うて。それがきっかけですわ」
「で、お兄ちゃんにはなんて話したの?」
「正確には社長と場長にですけど。高校卒業してから何してたとか、自分に何が出来るんかとか考えながら放浪してたら、ここまで来てまいました。言うたんです。そしたら社長が面白がって。『桐生源三、こいつあんたに預けるから人として一人前に仕込んだれ』って。以来、僕は場長付きの牧童ですわ」
人として一人前に、か。お兄ちゃんや桐生さんに見えてるもので私に見えてないものってその辺なのかなあ。それとも普通の人はそんなことまで考えずに、漠然と生きてるものなのかなあ。
「今にして思えば、社長は日本一周の経験がおありなんでしょ。その頃のご自分と比べはったんかもしれまへんね」
「それは違うと思うなあ」
「へっ」
「お兄ちゃんの日本一周は、『日本を知らんのに海外に出るのはおこがましい。だから僕はまず日本を見る』って言う理由だもの。藤谷君の自分探しとは行動は同じだけど、目的がぜんぜん違うよ」
「そうかあ」
「それにお兄ちゃんは無銭旅行とは言っても行き倒れるような真似はしなかったって聞いてるよ。行く先々で自分の食い扶持だけは確保して旅してたもの。『他人様に迷惑はかけない』。これが小鳥遊家の家訓だし。だから藤谷君を助けたのは、行動力を買ってのことなんじゃないかなあ」
「流石、彩夏ちゃん。社長のことなら良くわかるね」
サクラさんに頭撫でられて「えへへ」となる私。藤谷君はなんか考え込んじゃったけど、余計なこと言っちゃったかな。
「藤谷君。貴方はまだ若いんだからいくらでもやり直しが利くのよ。この道一筋で行ってもいいし、他に道を探したってかまわない。そのきっかけを社長と場長に貰った位に思っときなさい。余り深く考えなくてもいいんだからさ」
「お兄ちゃん、言葉は悪いけれど普通の人には必要以上に興味を示さない人だから、そこは胸張っていいと思うんだ。折角ゆっくり出来るんだし、のんびり考えてみたら良いんじゃないかな」
「なるほど。彩夏はんが社長の一番弟子言うのがよぅわかりましたわ」
藤谷君は、はにかんだ笑顔を見せて言った。
「お二人の言うとおりかもしれまへん。普段あんまり考えることもないし、ゆっくり考えるようにします」藤谷君は少し寂しげな笑顔を見せた。私はまだしたことのない表情。私の知らない表情。
「そうそう。社長が今回の件は労災扱いにするから安心しなさいだって。但し、体力をつけてしっかり働ける体になってから帰って来るように。だって」
「了解しました。社長や皆さんによろしくお伝え下さい」
藤谷君は包帯でぐるぐる巻きにされた手を上げて、立ち上がった私たちを見送った。




