第十一幕 暴風
「いないねえ。お馬さんは一杯いるのにねえ」
私が何の気なしに言った一言がサクラさんのツボだったみたいで、大うけしてる。ひとしきり笑い転げた後、その余韻を残しつつサクラさんが言う。
「まあ。海で遭難した人を見つけるよりマシだろうけれど、牧場だらけのこの辺で迷い馬一頭探す訳だから。そう言えば、彩夏ちゃんはタケルの特徴知ってるの?」
「いいえ。綺麗な馬だって事くらい」
「綺麗な馬、ね」
小さく笑うお兄ちゃん。お兄ちゃんは彩夏にはきっとそれでわかることを知ってるから笑うんだよ。桐生さんは、その様子を見て少々あきれた感じで
「濃い鹿毛の四白大流星。ぱっと見、真昼間には黒い馬に見えるだろうね。四白って言うのは、四本の足に白い靴下を履いたような感じということだよ。大流星は顔の真ん中に大きな真っ白い筋が入ってるってこと」
と詳しく教えてくれた。
でも見た目じゃないと思うんだ。雰囲気というか、空気というか、そういうのでなんとなくわかる気がするんだ。
「おっさん。多分彩夏はタケルに選ばれてる。タケルはこれから先、散々世話してきた俺たちのことを忘れても、彩夏のことだけは一生忘れないだろうよ」
「俺はお前の一族のそういう妙に当たる預言がましいのが嫌いだよ」
あ、桐生さん。ホントに機嫌悪そうだ。
車は道をゆっくりゆっくり進む。助手席に私、その後ろにサクラさん、お兄ちゃんの後ろに桐生さん。みんな、窓から外を凝視してる。流石にお兄ちゃんは車を運転してるから、そういう訳にはいかないけどね。
「この辺の牧場の人はタケルのことを知ってるから、大丈夫だと思うけれど」とはサクラさん。
「純子さんたちは、どこまで連絡回せたかねえ」
桐生さんも、みんなが思っている状況に比べると比較的呑気、って言うよりこの人の場合は本気で冷静なんだろう。
なんせ、お兄ちゃんは桐生さんの喜怒哀楽を見たことがほとんどないって言ってたし。後悔とか迷いとかいう類からもっとも縁遠い人間だ、とも言ってた気がするけどね。
その時、桐生さんの携帯が鳴った。
「はい桐生です。うん。うん。じゃあ、現場検証にはとりあえず純子さんが立ち会って。うん。今のところ成果はない。うん、お互い何かあったら連絡していこう。そういえば病院からは。まだ?そうか。わかった。じゃ」
「聞いての通り。警察も立件する方向で動いてくれると」
「じゃ、まあ犯人探しはオマワリさんに任せるとして、タケルの捜索に専念しようか。ともかくみんな四方に目を凝らしていこう」
お兄ちゃんがそう言うと、サクラさんは後部座席から身を乗り出した。
「ねえ。そういえばさ、マイクロチップは?」
「それがねえ、残念なことに予定では来週だったんだよ」
とお兄ちゃんが返すと、「あ、そっか」とがっかりした風情でサクラさんは肩を落とす。
「言ってもしょうがないことだけど、それがあればこんなに苦労しなくて済んだんだがね」
そう言った桐生さんの袖を軽く引っ張って、小声で聞いてみる。
「ねえ、桐生さん。『マイクロチップ』ってなんですか?」
「マイクロチップは、血統登録証明書の代わりなんだ。この仔は誰の仔かということを証明するためのものでね。首筋に一センチくらいのチップを注射するんだ。もしそれがあれば迷子になっても簡単に探せるはず、何だけど事例がまだ少なくてねえ」
「昔はね、書類だけで親子関係を証明してたんだよ。だから『てんぷら』なんていう不正がまかり通ってたこともある」
お兄ちゃんが補足してくれる
「てんぷら?」
「海老天って売ってるけど、中身はイカだったりする。衣で中身がわからないってことさ」
お兄ちゃんなりにわかりやすく説明してくれたつもりなんだろうけれど、彩夏にはまだ良くわからないなあ。困った顔をしてるとサクラさんが助け舟を出してくれた。
「つまり、昔はね。この馬はAという馬だと偽って、Bという馬だったっていう不正がまかり通っていたってこと。ただの鹿毛とかだったら日常的に馬に接してる私たちでも区別が付かない事があるくらいだし、書類だけの評価だったら尚更よね。書類や見た目と中身が違う。すると弱い馬ですって言っておいて、強い馬を出走させることも出来たのよ。見ただけでは区別がつかないから『てんぷら』っていうのよ」
サクラさんが詳しく教えてくれる。
なるほど。昔から悪いことを考える人は考えるもんなんだねえ。
「おっさん。そらそうとえらい落ち着き払っとるな」
「信じとるからな」
「何を?」
「ここ一番のお前の一族の強運を。窮地に追い込まれれば追い込まれるほど発揮されてきたやないか」
「それは過去の実績であって、将来を保証せぇへんやろ」
「先祖代々危機一髪を乗り越えてきた奴に言われたくない。お前の母方の爺さんやったか。ソ連軍の満州進撃直前に内地に送還されたのは」
「ああ。出征前に内地で盲腸の手術受けて征ったら、医者がヤブで腹の中にハサミ忘れられとったんやな」
「確か父方の爺さんは、北海道の軍需工場でアメリカさんの偵察機に機銃掃射食らって百人から働いとった工場で唯一生き残ったんやろ」
「たまたま戦車の下にもぐりこんどったらしいなあ」
「親父さんは、あれだろ。現役のトラックドライバーの時に日本坂トンネル事故の一台前を走っとって事故に巻き込まれずに済んだんやろ」
「親父は短気やからな。すぐに追い抜きかける」
「で、お前はお前で、小学校の課外学習じゃ、ロッジに落雷で火災。中学の修学旅行では火山の噴火。高校の修学旅行じゃ泊まる予定のコテージが雪崩に巻き込まれ、大学の卒業旅行じゃ泊まった旅館がボイラー爆発。極めつけは大震災」
「お陰で誰も旅行に一緒に行ってくれへんなあ」
「それだけ過去の実績があれば、この程度どうにかなるような気ぃせんか」
と桐生さんは後部座席の私たちに話しかける。私はあきれながらうなずいた。サクラさんなんか目が点になってるよ。
「それはたまたま生き残っただけの事やろ」
「生きとるだけで丸儲け、言うたのは誰やったかな。生きとるだけで十分やないか。そのお陰でお前が生まれた」
桐生さんは全開にした窓から吹き込む風に癖っ毛をなびかせながら言った。
私もそう思う。生まれてまだ二十年足らずだけど、生きてればそれなりに良いことも悪いこともあると思う。それに、お兄ちゃんは昔教えてくれた。
「十年経てば、大抵の事は笑って済ませられる」って。
「なあ、後ろから来るもの、なんやと思う?」
桐生さんが何気なく問いかける。
お兄ちゃんはルームミラーに視線を移して
「馬だな」とあっさり答える。
みんなが沈黙する。唐突に表れたその姿が「タケル」に違いないという確信に近いものが生まれたんだろう。
「今の時速は?」桐生さんはその答えを受けて問い返す。
「二十キロチョイ」お兄ちゃんは驚きを込めた言葉で空気を振るわせる。
「ってことは、あいつ五十キロ近いスピードで走ってるってことか」対してあくまで冷静に答える桐生さん。
桐生さんの頭ってホントどうなってるんだろう。なんで見ただけでそんな計算が出来るのかな。
「一歳のこの時期に、そんな真似できるもんか。古馬並みのタイムやぞ。一ハロン十一~十三秒て」
「さあ。試したことはないからわからんが、事実、だ」
「なるほど。科学者の端くれとしては、目の前で起きていることは」
「そう。認めざるをえん」
二人のその会話を耳にして、後部座席に座る私とサクラさんも慌てて振り返った。
「タケル!」
後ろの窓から見える黒点はどんどん大きくなり、やがて馬の形をとり、私たちを置き去り、風になった。
「どないかして止められんかい。桐生源三」
「難しいな。先に回り込むにせぇ、飛びつくにせぇ怪我は避けられんやろ。そもそもこんな状況は想定してないしな」
「しゃあない。疲れて止まるまで併走しようか」
「イヤ。それも危ない。少なくともこの道は一本道だから、ある程度距離を置いて追走する方がより安全やろ」
「でも場長。あんまり長く走らせてると、足元が」
「確かに。アスファルトの上を走らせるのは故障の確率が高くなる」サクラさんの懸念に桐生さんも難しい顔で同意する。
「仕方ない。これで故障したらそれまでのこと。仮に故障しても、デビューまでまだ1年余りある。そこに賭ける」
断固としてお兄ちゃんが言い切った。そして車のスピードは少しだけ上がる。
「制動距離を考えて、間は40mは空けとけよ」
「40m?下手したら振り切られるぞ」
桐生さんはそれに対する回答は返さずに、落ち着いた声で言った。
「バイクの音がする。この辺りのもんじゃないな」
私には何にも聞こえないけれど、どうして音でこの辺りのものじゃないってわかるんだろう。
「この辺は、馬産農家も多いけれど普通の牧畜をやっている農家も多くてね。動物ってデリケートだから、どこの農家もあまり大きな音を立てないように工夫してるのよ」
私のきょとんとした顔をみて、心を見通したのか、サクラさんが教えてくれる。
「おっさん。あんたの言うとおりだったかもしれん」
「何が」
「いや。俺の一族の『強運』さ」
「一昨日、言ってたろう。事務所荒らしが出没してるって」
「ああ」
「あれな、現場に残されたタイヤ痕から見ると、バイク乗りの仕業らしいのよ。それがねえ。不思議なことに取られたものがないって言うね」
「て、ことは」
「こういうのを二兎を追うもの一兎をも得ずって言うんかいな」
「それやったら両方なくしとるやろ。虻蜂取らずっちゅうねん」
「違うよ、二人とも。一石二鳥もしくは一挙両得でしょ」
どんなときでもボケを忘れない二人の関西人魂は見上げたもんだけど、ツっこみが居なけりゃ成立しないじゃん。サクラさんなんて呆然としてたよ。
「あ、お兄ちゃん。タケルが脇道に入っていくよ」
「あそこは材木置き場ね」
サクラさんが地図と照らし合わせて確認する。
「二次捜索範囲までで見つかって良かったな」桐生さんは珍しく窓に顎を乗せてほっとした表情を見せている。
「ああ、思ったより時間がかかってたからな。サクラさん、今何時?」
「丁度十時四十五分。社長、いい加減腕時計くらい買ったら?」
「携帯あるのに?」
「だから。すぐ見れるところにおいてなきゃ意味がないでしょう」
「ま、それはさておき。いまから確保して、昼までには帰れるか、良かった」
「てことは、俺が歩いて帰らないといけないか」ちょっと桐生さんは、ため息加減。そうだよねー、四~五時間は歩いて帰らないと駄目だもんね。
何とかギリギリ間に合ったって感じだね。
「じゃ、俺らも後に続きますか。おっさん、ロープの準備は?」
「万事抜かりなく」桐生さんは、座席の下からロープを出して掲げて見せた。
「何するんですか?あのロープ」私はサクラさんの耳に手を当てて聞いてみた。
「あれでね、タケルの周りを囲って、逃げ場をなくして捕まえるの」
「え、そんな簡単なんですか?」
「馬はね、本来臆病な動物だからロープ一本張ってあるだけでそこから出ようとしないものなのよ。余程のことがない限りね」
へえ。そうなんだ。あんなに大きいのに、臆病さん、優しいんだね。
お兄ちゃんは広場の出入り口を塞ぐように車をゆっくり乗り入れた。
「あれ。おっさん。なんか様子が妙やぞ」ドアを半分開けて、ハンドルにもたれかかったままお兄ちゃんは目の前で繰り広げられている「妙な光景」を観察している。
「確かに妙だな」
少し開けたその場所には、バイクが五台。車が一台。そして何故か今入っていったばかりのタケルが女性の後ろにかばわれている。
女性は少し胸を張って腕組して構えてる。風になびく赤髪が太陽の光を反射して神々しさを演出している。その姿は凛々しいの一言に尽きた。外国の神話に出てくる戦いの女神を日本風にアレンジして具現化したらきっとこんな感じなんだろう。
「なんだよ、そんな馬っころかばうのかよ」
「そいつさー、なんだか知らないけど俺たちの行く先々に追いかけてきやがって気分悪いんだよねえ」
「だからさー、ちょっと痛い目にあわせてもう俺たちのこと追いかけてこれなくするからさー」
「その後お姉さん、俺たちとどっか遊びに行こうよ、もうすぐ俺たちの連れもココで合流するしさー」
もう見るからに下品で、私はその人たちの格好も吐く言葉も体の中に入れるのに耐えがたかった。
お姉さんは毅然として言い放った。
「あんたたちが馬に追いかけられるような真似するからよ。それに私は忙しいの。ナンパなら他をあたりなさい」
「人より馬のことを信用するのかよ」
「馬の方が嘘をつかない分、人よりマシよ」
「ごもっとも」遠くの会話に相槌を打つと、お兄ちゃんは、ドアと背もたれの間に挟んでいた竹刀袋を桐生さんに預けて、するりと車を抜け出した。
桐生さんはそれを合図に、ルームミラーの下に設置された四角い箱のスイッチを入れる。
「桐生さん、それは?」
「ん?デジタルビデオレコーダ。高解像度で最大二十四時間まで記録可能」
「なんでそんなものを」
「いや元々は交通事故とかの証拠保存用に開発されたもんなんだけどね。他にも用途があるかもしれないから俺とあいつで改造したの。まあ、こんな利用シーンは想定してなかったけどね」
他にどんな利用シーンを想定したんだろうこの人たちは。単に面白そうだからやっただけにしか思えないのは気のせいかな。
「まあまあ。女性一人に男性五人で突っかかるとは余り格好のいいもんじゃないですよ。しかも側から聞いていると、どうやら女性の方が全うな意見を仰っているようにお見受けします」
お兄ちゃんはいつもの通り、気配を消して後ろから近づいて、いきなり五人組の男に優しく語り掛ける。男たちは機先を制されたようで驚きの表情を顔に浮かべて一斉に振り返った。お兄ちゃんは笑顔を浮かべて男たちの間を何事もないように通り過ぎ、タケルの側に歩み寄る。
「うっわ~。怖いなあ」
「あれ。彩夏ちゃん。あいつのアレ見たことあるの」
「一回だけ嘘ついて授業サボったときに」
「そりゃそうなるわ。あいつ嘘の類、大嫌いだし」
「ねえ、場長。彩夏ちゃん。『アレ』ってなに?」
「見てればわかりますよ。これぞ『慇懃無礼の真骨頂』ですから」
そうこうしている間に言い争いはだんだん激しくなっている。
「とにかく、私が気に入らないのは二つ。馬をいじめようとしてたこと。それとナンパに付き合ってるほど暇じゃないってこと。はっきり言ってるでしょ。仮にあなた方の中にタイプが居たとしても約束してまで会いたいとは思わないわ」
「お姉ちゃん。あんたの考えてることなんて関係なしに付き合ってもらうって手もあるんだよ」
男たちの中で一際大柄で柄の悪そうな人が一歩前に進み出て、凄みを利かせる。
「ちょっとあんた。何とかしなさいよ。馬の首筋撫でてないでさ」
お姉さんは流石に多少慌てたのか、タケルを落ち着かせようとしているお兄ちゃんを振り返る。
「いや、こいつをまず安全に連れて帰らないと話にならないのでね」
タケルがある程度落ち着いたのを見計らってお兄ちゃんはこっちに向いて手招きすると、少し大きめの声を出した。
「サクラさん、彩夏。タケルを連れて行って。おっさん、車にでも繋ぎとめといて」
私たちは恐る恐る遠回り気味にお兄ちゃんの側まで行って、タケルを引き取ろうとした。タケルは前足を大きく振り上げてすごく興奮した様子だったけど、私の顔を見ると、少しおとなしくなってくれたような気がした。
「大丈夫だよ。もう大丈夫」
私がそう声をかけると、暴れ続けてたタケルは、小さくいななくと静かになってくれた。でも視線は外してない。自分に何かをしたであろう、男の人たちから。
桐生さんがハミっていうのかな、てきぱきとそれを丁寧にタケルにつけると、短めに持ったロープをかけて自分たちの車の辺りまで連れてきた。にじり寄ってくる男の人たちは私が今まで経験した事がない悪意に満ちた視線を送り込んでくる。いくらお兄ちゃんがいるとはいえ、やっぱり怖かった。私一人なら怖くて声を出すことも動くこともできないよ。
タケルはその場の空気を敏感に感じ取っているのか、すごく気が立って、まるで猛獣のように唸り声を上げていた。桐生さんが好物の人参を差し出しても見向きもしない。あれ、桐生さん人参、どこから出したんだろう。
「いままでにない怒りっぷりだね」と桐生さんは対照的な冷静さ加減。
お兄ちゃんは私たちが安全な所に行ったのを確認してから改めて男たちに向かう。
「さて。先ほどからのやり取りをお伺いしていると、あなた方はこちらの女性をお誘い申し上げたい。しかしながら、女性の方では拒絶してらっしゃる。それでも暴力にモノを言わせて無理強いしてらっしゃる。これはもう立派に恐喝罪ですよ。それに私どもの馬にどうも何かをしてくださったみたいですね」
「ばれなきゃいいんだよ、んなもん」
男たちの中の誰かが言った。
「ばれなきゃとおっしゃるからには、いまここで、この状況を目撃している人たちを全て口封じしないと駄目ですねえ。そこまでする覚悟はおありですか?」
相手方のリーダー格の男が軽く後ろを振り返って、顎をお兄ちゃんの方へ振った。
桐生さんは頭を伏せて、誰言うともなく呟いた。
「あーあ。最悪の選択をしたなあ」
私にはなんだかお兄ちゃんが浮かれているように見えるのは気のせいだろうか。でもいままで私の見たことのない無表情のお兄ちゃんがそこに居ることは確かだ。
「おっさん」
お兄ちゃんは相手方の動きに応じて桐生さんに向かって呼びかける。その声に応じて、桐生さんは車の運転席から預かっていたものの中身を投げ渡し、これで役目は終わりとばかり車の屋根に片肘をついて頬杖する。
お兄ちゃんがを投げられたものを受け取るために一歩を踏み出すと、一番巨体の男の人がバイクの工具箱から取り出したスパナを投げつけた。お兄ちゃんは顔めがけて飛んでくるスパナを避けようともせずに更にもう一歩を踏み出して投げられたもの、木刀を左手で掴み取り、中段に構えると、刀を振りかざす勢いを利用して、スパナを上に弾き飛ばし、その勢いのままリーダー格の男の懐に飛び込んだ刹那、黒光りする木刀が太陽の光を受けて綺麗に半月を描いた。
「切った」
私にはそう見えた。
事実、地面には男の人はうめき声をあげながら左手を押さえて転がりまわっていた。
「示現流、上段の構えからの小手一閃。攻防一体の動きだね。素人に避けられるもんじゃない」桐生さんが呟く。
「切れてない、ですよね?」私は恐る恐る桐生さんに尋ねた。
「多分。あいつもそれくらいは手加減してる、はず」
多分ですか?私は不安を打ち消そうとサクラさんの顔を見上げた。サクラさんが、少し青ざめたように見える顔色で指差した先にはしっかりと男の人の左手首は繋がって見えた。但し、変な方向に曲がっていたけど。
「打ち込んだ瞬間にほんの少し剣先を引いたんだと思うよ」桐生さんが呑気な口調で解説する。だったら、最初からそう言ってくれれば良いのに。
「ちなみに、正当防衛ですからあしからず。治療費全般そちら持ちですよ」
お兄ちゃんは、怪しく笑いながら再び上段に構える。
そこまでの光景を見て、サクラさんは呆れたような口調で言った。顔色は少し戻っている。
「うわ。ホントに『慇懃無礼』だね」
「あれはあいつの怒りの二段階目。まだ口調が丁寧だろう」
桐生さんは、まだ止められる余裕からだろうかさっきと同じ姿勢のまんま。
「まだ上があるの」サクラさん驚いて聞き返す。
「うーん。僕が見た限りでは。あの時は確か三十対一だった。あいつはホントに怒ると無口になるから。しゃべるのがめんどくさいらしい」
その間にお兄ちゃんは、四方を囲まれていた。
「お兄ちゃん!!」
流石にお兄ちゃんでも一度に四人に襲い掛かられたら怪我する。と思って飛び出そうとした私の肩を桐生さんが片手で抑える。
「あいつが得物を持って傷ついたところを見たことがない」
「そんな。だって相手は四人だよ!!いっぺんにかかられたら、どうしようもないんだよ」
「彩夏ちゃんが行ったところでどうしようもない。はっきり言って邪魔になる」
サクラさんは少しおびえた様子で成り行きを見守っている。
桐生さんのその言葉が終わらないうちに、四人は同時に一気に襲い掛かって行った。
どんな理由でも、何人が相手でも彩夏はお兄ちゃんが喧嘩なんかするのはイヤだよ。
「やめてっ」と叫ぼうとした口が「や」の形にもならない内に鋭い声が響き渡った。
「ちょっと待ちなさいよ!」
お姉さんが晴天の下、轟かせた声がお兄ちゃんの円舞のような動きに重なる。
「あーあ。まあ、しばらくまともには動くまいな。後遺症が残ったとしても人生勉強としては安いものか」と淡々と言う桐生さんが印象的だった。サクラさんはもう見たくないのか、私の両肩に手を載せて顔を伏せている。私は、なんとなくこの状況に責任の一端がある気がして、一部始終を見届けようと思ってた。
四人は先に響いたお姉さんの大音声に一瞬動きを止めたけれど、お兄ちゃんだけは淀みなく身を翻して動き回り、全員の小手を切り落としていた。多分全員同じ程度の怪我だろう。頭や胴を狙わなかったのは、お兄ちゃんなりの配慮かな。頭とか胴とか狙うと重症になる場合があるしね。あれ、私も結構冷静だな。
「いずれのお金持ちのお坊ちゃま方が羽目を外したくなられたんでしょうか。しかしちょっとお痛が過ぎましたね」
「だから、ちょっと待ちなさいって」
お姉さんは、足音も高くお兄ちゃんのすぐ後ろに近づくと耳元で大きな声を出した。
その余りの大きさに、お兄ちゃんは耳を抑えて顔を背けた。
「人にモノを頼むときはまず名前を名乗るものだと思いますが?」
お兄ちゃんは、顔をしかめてながら多少苦情の要素をこめた台詞と共に、自分のすぐ横にまで来ているお姉さんの顔を初めて視線の中に捉えた。
「そういう余裕を与えてくれなかったのはどこのどなたよ。そう言うならまず貴方から名乗りなさい」
「ああ」
お兄ちゃんは芝居がかった様子で、ジーンズの埃を払うと微笑んで言った。
「これは失礼しました。私はこの近くの夢限牧場で代表を務めております村上藤哉と申します」
「貴方が」お姉さんは絶句した。
「これでよろしいですか?土岐調教師」
お兄ちゃんは満面の作り笑い。うーん、しかも相手が誰か知ってて知らないふりしてたんだ。お兄ちゃんって、けっこー策士って言うか、やっぱり世慣れてるんだなあ。
桐生さんなら「人を驚かせるのが好きなだけだよ」とでも言うんだろうなと思いながら視線を横にずらすと、やっぱり口の端が軽く上がってる。
「あっきれた。知ってたの」
「貴女は有名人でらっしゃいますから。よろしければ握手して頂けますか?」
木刀を左腰に納刀し、右手を彼女の方に差し出して言った。
お姉さん、土岐調教師は、両手に腰を当てて深くため息をついてから、右手を差し出した。
二人はしっかりと握手を交わす。
「改めてはじめまして、村上さん。私が牧場にお伺いする土岐さつきです」
「タケルを守っていただいてありがとうございます」
お兄ちゃんは深々と礼を施した。
「イヤ、それが守ったというよりはね」
土岐さんはあらぬ方を見た。
「なにか?」
いつの間にか、側に近づいていた桐生さんが土岐さんの視界を塞いで、問いかけた。
「三十分くらい前からバイクの集団に絡まれててさ。うっとうしいからこの広場で追っ払おうと思って車止めたのよね。そしたら、あの仔が乱入してきて、男たちに襲いかかろうとしたからさ。思わずあの仔の方を止めちゃったのよ」
「へ?」お兄ちゃんは私から見ても間抜けな表情をして桐生さんの横顔を見る。
「とすると、タケルは男たちを最初から狙っていた、と」
「よくわからないけど、結果だけ見るとそういうことになるわね」
お兄ちゃんと桐生さんは離れた距離でお互い顔を見合わせた。
「これをどう解く、桐生源三」
「どう解くもクソも、解きようがない。ま、事実を並べて推理するのは後回しにしようか」
桐生さんは、まだうめいている男たちにゆっくりと近づくと、持参していたロープで後ろ手に縛り上げ、動けないように両足も縛り上げた。
「てめえ、こんなことして。訴えるぞ」
その言葉を耳にしたお兄ちゃんは、眼光も鋭く言葉の爆弾をぶつけた。
「盗人猛々しいとはこの事ですね。まず貴方は暴行傷害未遂の現行犯で逮捕されます。多分。証拠もあります。逮捕された以上身柄を拘束されるのは当然です。つまり貴方が私を訴えるためにはあなた自身になんらの過失なく、私が貴方の身体を害する目的で闘争に及んだ証明が必要になりますが、可能ですか?ああ、この場合、お仲間の証言は参考程度にしかならないのでご安心下さい。次に、みなさんには事務所荒らしの容疑がかかっています。こちらは取り調べが必要になりますので、警察に引き渡しさせていただきます」
「お前に逮捕なんてできるのかよ」
「警察に限らず、『現行犯逮捕』は誰にでもできますよ。日本人ならもう少し日本の法律を勉強なさった方がよろしいのでは」
お兄ちゃんは唯一意識を保って悪態をついていた一人の前にしゃがみ、あくまでも丁寧に語りかける。
「で、こいつらはどうする」
桐生さんが、もうその辺にしておいてやれよという空気を全身から出しながらお兄ちゃんの後ろに立つ。
「その辺に転がしておいて。熊の餌にでもするから」
お兄ちゃんは立ち上がり、桐生さんの肩を叩いた。
わ。桐生さんロープで縛りあげてホントに転がして材木の横に並べちゃったよ。屈辱だろうなあ。でもこの人も容赦がないなあ。
その様子を当然よ、とでも言わんばかりに睥睨していた土岐さんは振り返り、タケルに視線を向けた。
「それにしても」
ゆっくりと歩み寄ると穏やかな表情で首筋をさすり始めた。
「この仔は綺麗な仔ねえ。長い首に真っ直ぐに伸びた四肢。筋肉の張りも申し分なし。大きな蹄にストライド。気性は少々荒そうだけど」
「ちょっと前脚が曲がってますけどね」
お兄ちゃんは腕組みして言った。
「これだけの馬体でそんなの欠点の内には入らないわ。前脚が曲がっていても実績を残した競走馬なんて掃いて捨てるほど居るわよ。完璧なモノは傷一つで台無しになるけど、歪なものは長所とも短所とも取ることができるのよ」
「確かに」
全員を転がし終えた桐生さんもいつの間にか近くまで来て、小さく笑う。
「何より良いのは、使い減りのしなさそうな感じね」
「ダービーまでの最多戦歴記録を更新するつもりで配合しましたからね」
お兄ちゃんの言葉に、「任せといてください」と言わんばかりにタケルが首を伸ばして大きく身震いする。
「あっきれた。クラシックをいきなり狙ってる訳?」
「できれば。欲が深いかもしれませんが、一番を狙わなければ、二番にも三番にもなれないってのが持論ですので」
「でもこれだけの仔なら夢見たくなるのもわからなくもないかな。最低でもオープンは狙えそうだしね」
「こいつも自分が褒めてもらってるのわかってるみたいだな」
桐生さんが笑顔を見せた。
タケルが一際胸張ってそそり立ってる様子を見て、私たちはなんだかおかしくなった。
「さ、行きましょう。馬主さんたちとはどうせ牧場で待ち合わせだったしね」
「馬主さん『たち』ですか?」
「貴方のお知り合いの佐柳さんと、佐伯省吾さんがお見えになる予定よ」
「じゃあ、お客様一名追加ですね。サクラさん。戻ったら陽子ちゃんに伝えておいて。あ、余裕があったら交代してあげて下さい」
「貴方、佐伯さんを知らないの?」
土岐さんは貴方本当に競馬関係者というような目でお兄ちゃんを見た。
「お名前はもちろん。勝ってないGⅠは数えるほどしかない関西きっての大馬主にして大阪に拠点を置くソフトウェアメーカーの取締役会長ということは存じ上げてます」
お兄ちゃんは涼しい顔をして、「佐伯さん」のプロフィールを披露する。
「それだけ知ってて」
「ですが私は佐伯さんにお会いしたことがありません」
「貴方も肝っ玉ねえ」うつむいて苦笑する土岐さん。
「おかげさまでこれだけで二十六年生きてます」
「え、貴方二十六歳!私より三つも下なの…」
凹むところは女性らしいねえ。確かにお兄ちゃん老け顔だもんね。いや、年齢に見合わない苦労を刻んだ顔と言い換えよう。
「あ」お兄ちゃんは右手を小さくあげた
「ごめん俺ちょっとやり残したことがあるからここに残るわ。おっさん、サクラさん、彩夏。土岐さんと一緒にタケルを連れて帰ってくれないかな。それと申し訳ないんだけど、車置いていって欲しいんだけど」
「ええっ。じゃ歩いて牧場まで帰れって言うの!?」
最後の言葉にサクラさんが非難を向けた。
「そこはそれ、土岐さんの車に便乗して」
調子のいい事を臆面もなく言ったお兄ちゃんに、土岐さんはあっさりOKを出した。
「いいわよ、私の車使っても」
「ご好意に甘えさせていただきます。すみません、うちの男共は無作法で。運転は私がさせていただきますので」
サクラさん、即お返事。よほど歩くのイヤだったんだね。サクラさんの申し出に土岐さんは軽く首を振る。
「折角だからこの仔に乗せてもらっていくわ。裸馬なんてアイルランドじゃ毎日乗ってたしね」
良かったね、桐生さん。桐生さんも車で帰れるよ。きっと喜んでるだろうなあと、どんな顔してるんだろうと思って、桐生さんを探したら、なんか向こうの方で私たちの方に背中向けてお兄ちゃんと話してる。うーん、なんかいやな予感するなあ。て言うか、お兄ちゃん土岐さんの回答聞いてないな。てことは最初から無理を承知で横車押す気だったな。
「余り飛ばさないでくださいね。結構ココまで無理して走ってきてるはずなんで」
サクラさんが馬上の女となった土岐さんに言うと、土岐さんは
「大丈夫よ。さっき足元も見たけど特に異常はなかったし、速足で車と併走していく位なら、問題はないわよ」
やがて、桐生さんが如何にも何でもなさそうな顔をしてやってきた。流石の桐生さんも状況を一目見てどういう話にまとまったのか理解できずにサクラさんに一部始終を聞いた後に、「じゃ、行こうか」と土岐さんの車の運転席に乗り込んだ。私たちもそれに続いて乗り込む。こんどは私一人が後部座席。一番体が小さいからね。
車が動き出してしばらくしてから私は何気ない感じを装って「桐生さん。お兄ちゃんは、一体何するつもりなんですか?」と聞いてみた。それからしばらくして、桐生さんも何気ない感じで「んー。後片付け。ほら、さっき仲間ももうすぐ来るとかどうとか言ってたろう。だから、残りも集めて一気に警察に引き渡すんだって」と答えた。
「え、それを一人で?」
「無茶よ。警察が先に来てくれればいいけど、こなかった場合どれくらいいるかわからない人数を一人で相手にすることになるのよ」
「だから。あいつは得物持ったら素人には負けないって」
「桐生源三。具体的に根拠を提示せよ」
私はお兄ちゃんの真似をして、後部座席から言ってみたんだ。
そしたら、桐生さんは大笑いして答えてくれた。
「理由一、示現流皆伝の腕前を持つ。理由二、過去に三十対一でも無傷で勝利している。理由三、はったりをかまさせるとあいつの右に出るものは居ない。理由四、もう既に警察が動き出している。こんなところでどうかな」
あ、警察に位置を連絡しとかなきゃ。と呑気に桐生さんが言った。
「それでももし、相手が武道の心得があったり、予想以上に苦戦したりしたら?」
「そのためにまずはったりで時間を稼ぐのさ。で、あそこは材木置き場だったろ。てことは材木を後ろにすれば、相手は前からしかこれない。一度にかかってくるのはせいぜい三人くらいだろ。そこで、あいつの示現流。時間稼ぎは十分できるさ。先に警察が到着すれば、あとは警察に任せて帰ってくればいいしね」
「証拠は?」
「そのためにビデオレコーダのスイッチを入れたんだよ。後で警察から呼び出しが来ればその時に行けば良いだけだし」
あ。なるほど。それで証拠ができるし、お兄ちゃんの普段の居場所はわかってるから問題ないんだ。
「しかもうちのオーナーはここいらの名士。警察も無下には扱えない訳さ」
「なんかずるいがするなあ」
「そんなことはないさ。勝つために最善を尽くすのは卑怯ではない。そのために利用できるものを全て使うことも」
そこで併走する土岐さんが笑った。
「いや。あなたたち気に入ったわ。どちらかと言うと欧米的ね、考え方が」
「ご理解いただけて幸いです」
うーん。私はなーんかちょっと卑怯な気がするなあ。これが大人と子供の差なのか、日本しか知らない、その中でも限られた一部しか知らない私と世界を知っている人たちの差なのか、どっちなんだろう。
桐生さんは土岐さんの方を見て笑った。
「それにしても貴方たちの社長は変わってるわね。噂は色々聞いてるわよ。牧場を作ったばかりの素人が、地元はもとより世界各国飛び回ってるって」
「あら、そんなに有名ですの?」
サクラさんが、興味津々で運転席をまたいで声をかける。
「うん。まあ、まだ知る人ぞ知るって感じよ」
「うちみたいな零細の話が?」
今度は桐生さんが窓から身を乗り出して言った。あ、もちろんハンドルは両手で握ったままね。
「調教師仲間で軽く話題に上る程度ね」
その言葉を聞いた瞬間、桐生さんの口の端が軽く上がったのを私は見逃さなかった。
「へえ。うちも有名になったもんですね。ね、場長」
「そうだね」
なんか不自然な感じの桐生さんの受け答え。うーん、気になる。
「あ。もうお二方が到着しているみたいね」
土岐さんが、牧場の入り口近くに止まってる黒塗りの大きな車に向かって大きく手を振った。
中から、「ロマンスグレー」っていう表現が相応しいスリーピースをしっかりと着こなしたおじさまと、お兄ちゃんと年恰好がそんなに変わらない「清潔感溢れる青年」っていうのを形にしたらこうなるよねって感じの人がそれぞれ姿を見せた。
「もう馬の目利きですか、土岐さん」
ロマンスグレーのおじさまが、笑顔で問いかける。
「ええ、これはまあ成り行きというか、偶然です」
「偶然。偶然で目利きが出来るとは幸先良いですね」
おじさまは、快活に大きな声で笑った。
「ところで土岐さん。私の友人の姿が見えないようですが?」
好青年が、一歩進み出て周りを見渡した。
「ええ。それがちょっとこちらに来る前にトラブルに巻き込まれまして、その、後始末に残ってらっしゃいます」
答えながらタケルの上から軽々と身を翻して、地面に降り立つ。でも土岐さん、なんだか言いづらそうだね。半分は責任感じてるのかな。さっきのはでも相手方が悪いと私でも思うんだけど。
「失礼いたします。佐伯様、佐柳様。私、当牧場の牧場長を勤めさせていただいております桐生源三と申します。本日は遠いところにも関わらずお運び頂き誠にありがとうございます」
桐生さんは運転席から降りて、お二人に深々と礼した。
お二人はその礼を丁寧に受け取り、笑顔で返した。
「こちらこそ、本日はよろしくお願いします。こちらこそ約束の時間より早く到着した上に、私という招かれざる客が紛れ込んでしまい恐縮の至りです」
「なにをおっしゃいます。当牧場、競馬を愛される方に閉ざす門はございません。まずは駐車場までご案内いたします。その後、お茶でもご一服ください。間もなく当牧場代表の村上も戻って参りましょう」
「では、お言葉に甘えて」
「サクラさん、お二方の車を駐車場までご案内して。その後、応接室でお茶を」
なんかもう、この辺大人の世界の会話って感じで私なんかがこういう場所に居ても良いんだろうかって感じ。正直、何でかわからないけれど私緊張して手に汗一杯かいてるもん。
サクラさんが車で先導し、土岐さんはお二人の車に乗り込んだ。
そして桐生さんとタケルと私が後に残された
「さて。僕はタケルを馬房に連れて帰って、馬体検査を念のためしないといけないから、彩夏ちゃんは引き続き、ココであいつを待っててくれるかな。僕の携帯を預けておくから」
「桐生さん」
私の呼びかけに桐生さんは足を止めて、振り返る。
「さっき、土岐さんから話聞いたときに笑ったでしょ。その後もなんか意味ありげな受け答えしてたし」
桐生さんは苦笑いを浮かべ「気付かれてたのか」と後ろ頭をかいた。
「なんで?」
「普通に考えて、うちみたいな零細牧場の噂が出る訳ないからねえ。と、すると誰かが何かやってるんだろうと思ってね」
「誰かが、何かを?」
私はその「誰か」が誰なのか容易に察しは付いたけど、敢えて誰のことかは言わなかった。
「でも真面目な人なら、ブログとかホームページとかチェックしてるだろうから、そこから情報仕入れるってあるんじゃないですか?」
「今のご時勢、それだけじゃ人目を引くことはなかなか難しいよ。だからなんか小細工をやってると思う。ま、牧場にとってマイナスにならないなら僕から言うことは何もないけどね」
そう言って桐生さんは微笑んだ。お兄ちゃんと桐生さんは本当に深い信頼関係で結ばれてるんだなあ。桐生さんが何も言わないってことはお兄ちゃんのことを信頼してるってことだし、なんかあるなら絶対自分に相談するって言う自信があるからだと思うんだけど。でも、無二の親友同士が争い合うってのは歴史上に幾らでも例のあることだもんなあ。この二人の間にどうかそんな日が来ないように私は神様にお願いすることにしよう。
その後待ち切れない雰囲気で前脚をかいていたタケルは桐生さんを引き連れて、足音も高らかに自分の馬房に戻っていった。きっといまあの仔の顔を真正面から見たら、「やったった。俺、仇討ったった」てな顔をしてるんじゃないかなと思う。
これは全く私の空想。
藤谷君が襲われた時に、タケルは異常に感づいて馬房柵を飛び越えて外に出た。そこでいつも自分の世話をしてくれる藤谷君が倒れてるのを見た。その時タケルを押しのけるように、飛び出していった見覚えのない一団があった。だからタケルは追いかけた。追いかけて藤谷君の仇討ちをした。
まさか、馬がそこまでするとは思えないけれど、だったらいいなと思う。なんか、感動的だもん。
そんな私のささやかな夢想を打ち破ったのは、小さなクラクションの音だった。
「彩夏。こんなところで何をしてるのかな」
運転席と逆側の窓を開けてお兄ちゃんが顔を出して笑顔で問いかけた。
「どうせおっさんに言われて僕の出迎えをするように言われたんだろ。乗りなさい」
私はほんの短い距離を駆け寄って、お兄ちゃんの運転する車の助手席に飛び込んだ。
「昔とおんなじような顔して空を見上げてたね。懐かしいなあ」
お兄ちゃんは、窓に片肘をかけて気楽な感じで運転してる。見たところ、傷は一つもない。
「お兄ちゃん。呑気だね。大丈夫だったの?」
「大丈夫って、何が?」
「何がって」
私が次の言葉に詰まってると
「お客さんはもう着いてらっしゃるのかな?」
「う、うん。桐生さんが応接室にご案内してお茶でも如何ですかって」
「おっさんにしては珍しく気遣いを。まぁこれで多少時間が稼げたかな」
ポケットから携帯を取り出して時間を確認する。
「さて。彩夏。楓さんに連絡をお願いしたいんだけどね」
お兄ちゃんは駐車場に車を止めてから私の方に向き直り、イタズラ好きのあの顔で微笑んだ。




