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ほしのふるさと  作者: 中村 遼生
10/15

第十幕 突風

お風呂を頂いてサクラさんたちとトランプしながらおしゃべりして午後9時には床についた私を真夜中に起こしてくれたのは、三階の天窓を下手なドラムのように叩きつける大雨だった。

時計を見ると午前零時十五分。

三十分ばかり布団の中で寝返りをうってみたり、雨音の数を数えてみたりしたけれど、時折、雷さんを呼び出す大雨はいつ止むとも知れず私の睡眠欲を大いに邪魔してくれた。お陰で一向に眠りに落ちることができない。

仕方なく布団から抜け出してお茶でも頂こうかと食堂に向かう途中で、お兄ちゃんの事務室の扉の下から明かりが漏れているのに気がついた私は丁寧にノックした。

「彩夏かい?」

「まだ寝ないのお兄ちゃん。いま何時?」

「午前一時。まだやり残したことがあってね。片付けたら寝るよ」

お兄ちゃんは仕事の手を止めて、部屋の隅に置かれた机から顔を上げた。その表情には少し疲れの色が見える。多分、明日のお客様用資料のまとめをしてるんだろう。

「桐生さんは?」

私は何気なく聞いた。

「おっさんは明日も早いから、さっき自分の部屋に引き取ったよ」

ああ。それで、さっきノックしたときに彩夏の名前がすぐに出たんだね。

それにしても、桐生さんて昨日もこれくらいの時間まで起きてなかったっけ。それで起きるのは5時前なの?そんなに寝なくて平気なのかなあ。

「彩夏も明日は早いんだろう。突然の大雨で驚いただろう。この時期の北海道にこんな大雨って珍しいんだけどね。後4時間程だけど、ゆっくりお休み」

「はーい。お休み、お兄ちゃん」

「お休み、彩夏」

食堂の冷蔵庫からお茶を一杯頂いて、洗って食器置き場に伏せた時、一際大きな雷が鳴った。稲光がしてから三秒しない間に音が鳴ったから相当近くまで来てるみたいだね、雷さん。

お馬さんたち、大丈夫かなあ。

あ、厩舎事務所に電気が点いた。誰か心配して見に行ったんだね。大変だなあ。生き物育てるって。明日、こんな日はどういう事に気をつけないといけないか、明日聞いてみよ。

やっと眠気が帰ってきてくれた私は、自分の部屋に戻って、布団にもぐりこんだ。でも、寝たような寝てないようなぼやーっとした時間を過ごしていると盛大にドアをノックする音が意識をはっきりとさせてくれた。

「おはよー。彩夏ちゃん」

「おぁようございます」

寝ぼけ眼で扉を開けるとそこにはいつもに増して元気な純子さんが満面の笑顔で立っていた。

「すごかったねー、昨夜の雨。いきなりだったもんねー」

えぇ、そのお陰でちょっと寝不足気味です。と、心の中でちょっと呟いてみた。寝起きに純子さんのこのテンションは辛いなあ。

「昨日さあ、作業着貸したげるって言ったのにトランプしてて持ってくるの忘れちゃったじゃん。だから、ちょっと早めに来てみたんだ」

と。いうことは。うわ、まだ4時じゃないですか。予定より30分は早いよ。

黒のTシャツの上に、差し出された作業服に袖を通して、ファスナーをあげようとする。

「純子さん」

「なに?」

「これ、ちょっと胸がきついです」

丁度アンダーバストから上にファスナーが上がらない。

「あいたー。私よりスタイルいいんだねえ、彩夏ちゃん。しょうがない。陽子ちゃん式に腰のところで袖を巻いたらいいよ」

え、いやそんなことしたら、汗かいたら色んなものが透けて見えると思うんですけど。

そう思ったのを私の表情から見抜いた、純子さんは

「大丈夫、大丈夫。高山君は今日は昼間休みだし、藤谷君はタケル専属で世話してるからほとんど一般放牧場の方には来ない。場長は他人に興味ないし、社長は仕事が恋人だからね」

そっか、ならいっか。いや良くないよ。色んなもの見えるの前提じゃないですか。純子さんはちょっと戸惑った表情を見せた私の背中を押して部屋に押し込むと、着替えを促した。

私は純子さんに勧められた格好で部屋を後にした。事務所の玄関で、長靴を貸してもらって泥だらけの道を行く。

「綺麗に晴れて良かったですね」

「そうだねー。これから北海道も短いとは言え夏を迎えるから、呼び水代わりに丁度良かったかもね」

呼び水にしては豪快すぎて、幅三メートルを超える道のあちこちに大きな水溜りができているんですけど、いいんですか。

「ねえねえ、『彩夏探偵団』はしないの?」

「何ですか、それ」

機先を制されて、軽く両頬を膨らませた。

「サクラさんとか陽子ちゃんとか場長とかから色々話聞き出してるんでしょ。いーよ、いーよ。大した話でもないし、何でも聞いて」

純子さんはあくまで屈託のない笑顔で答えた。なんだか笑顔に負けた気分。私も微笑み返しちゃった。

「じゃあ、遠慮なく。純子さんはどうして、ココに勤めてるんですか?」私は、微笑みながら言った。

「私はねえ。元々看護師さん。出身はこっちなんだけど、神奈川の方の看護専門学校出て、東京で勤めてたの。でもねー。親が倒れちゃってさ。子供は私一人だし、それでこっちの就職先をハローワークで病院を中心に探してたんだけど、ある日突然、ロビーで社長に声かけられたんだ、『馬は、好きですか?』って」

懐かしそうに話をする純子さん。お兄ちゃんのことだからホントに突然声かけたんだろうなあ。

「んで、そのまんまハローワークで社長の面接受けて採用。早かったねー。有無を言わせなかったよ。考えてみれば、あそこで『はい』って答えなかったら、今私はココにはいないんだよねー。不思議だねえ。社長が言うには、お馬さんの面倒を人と同じ目線で見れる人が欲しかったらしいんだ。それで知り合いのハローワークの職員さんに看護士の資格持ってる人が職探しに来たら教えてくれって頼んでたんだって」

「へえ。ハローワークってそんなサービスもしてくれるんですね。知らなかったなあ」

純子さんはひとしきり笑うと朗らかに言った。

「してくれる訳ないじゃん。普通。でも社長は不思議な人だよねー。色んな所に顔が利くからね。ご先祖さんはこっちの人とはいえ、生まれも育ちも関西でしょ」

「ええ。大きな貿易港で有名な街の小さな港町です」

なんか上手に表現できなかったけど、その通りなんだから仕方ないかなあ。

「なのに、なんであんなに顔広いんだろうね」

「うーん。性格、かなあ」

小首を傾げた私の答えに、純子さんは、「確かにね。どこ行っても、例え宇宙のどっかの星でも当たり前の顔していそうな気がするもんね」とひとしきり笑った。

「それで純子さん。休みごとにバイクで実家に帰ってるんですか?」

「北海道は公共交通機関が不便でさ。それで、バイクに頼ってるの。早いよー。こっから釧路の実家まで三時間くらいで着いちゃうから」

なんか軽くスピード違反な気がするけど、流しとこう。

「あれ。厩舎の明かりが点いてる」

「もう誰か来てるんじゃないですか?」

「場長は四時四十五分厳守の人だし、藤谷君は遅刻常習。高山っちは昼からだから来るはずないし、お父さんは今日休み」

「お兄ちゃんは?」

「社長?社長はこんな朝早くから活動しないよ」

あっきれたー。それじゃ遅くまで仕事してるはずだよ。尊敬してたのにちょっと幻滅。

「鍵も開いてる、ってそりゃそうか。明かりが点いてるんだもんね」

純子さんは一歩部屋の中に足を踏み入れると同時に言った。

「うっわ。タバコくさっ」

慌てて、窓を開けて換気に走ろうとして豪快に転んだ。

「あいったー。もう何よ一体、って藤谷君?!」

実を言うと私はタバコの臭いより先に、倒れている藤谷君に気がついて、呆然としてた。

純子さんの驚いた声でスイッチが入った私は、慌てて助け起こそうとその側に駆け寄って、抱き起こした。正確には抱き起こそうとした。

「動かしちゃ駄目!」

純子さんの絶叫に近い声が私の動きを止めた。

「え、でもだって」

「倒れてる原因がわからないのに、無闇やたらに動かしちゃ駄目だよ。彩夏ちゃん」

まあそういう私が豪快につまづいちゃったけどね、と深刻な顔して矛盾したこと言う。うん確かに結構衝撃大きかったと思います。

純子さんはうつぶせに倒れてる藤谷君の首筋に指を当てると「脈はあるわね」と言った。

「藤谷君、藤谷君。聞こえる?意識ある?」

耳元で少し大きめの声を出して呼びかける。でも反応はない。

「救急車呼んだ方がいいわね」

顔を上げた純子さんの視線は私を通り抜けて、入り口の辺りに向けられた。

「ナイスタイミング」

純子さんのその声にすら、いつもと変わらない飄々とした姿勢で応じるのは、丸めたスポーツ新聞で肩を叩く桐生さん。

「どうした?」

と言った後、顔を下に向けて言った一言。

「なんか大変そうやね」

いや、大変だと思いますよ。桐生さん。

「場長。換気と警察と救急に連絡を」

藤谷君の目を開けながら純子さんが応じる。

「あとの二つはともかく、最初の一つは必要ないね」と桐生さんは、スポーツ新聞で事務所の奥の窓を差した。

そこには、割れた大きなガラス窓とびしょ濡れになった桐生さんの机があった。

「彩夏ちゃん。申し訳ないけど、事務所に戻って社長を起こしてきてくれるかな。で、厩舎の方へ来るように伝えて欲しい」桐生さんはそう言うと、ポケットから携帯を取り出して連絡を始めた。

私は元来た道を息せき切って駆け抜けた。長靴を玄関に脱ぎ散らかして、二階への階段を一気に上りお兄ちゃんの部屋に駆け込む。

「お兄ちゃん、大変。厩舎事務所の窓ガラスが割れてて、藤谷君が倒れてて、桐生さんが警察と病院呼んで、純子さんが介抱してるの」

お兄ちゃんの寝室に入るの初めてだけど、意外に綺麗に整頓されてる。単に置いてあるものが少ないだけかもしれないけれど。だって、タンスとベッドと大き目の机、パソコンが1台だけ。部屋の真ん中に置かれたセミダブルのベッドに駆け寄ろうとした途端、ベッドに丸くなっていた大きな人型がB級ホラー映画に出てくる安っぽいミイラみたいに起き上がった。

「ともかく、何か事故が起きたってことだね、彩夏。寮に行って女性陣三人を起こしてサクラさんと陽子さんも厩舎の方に来るように伝えてくれないかな。楓さんには、そのまま事務所で待機してもらって、救急車が来たら厩舎に案内するように伝えて」ただでさえ切れ長の目が寝ぼけて開いているのかないのかわからない状態で指示を出すお兄ちゃん。眠り、浅いのかなあ。

「お兄ちゃんは?」

「着替えてから、厩舎にすぐ行くよ」

お兄ちゃん、寝るときは裸派だったんだね。眠そうな顔を自分で平手で二回叩いて薄くなった目を大きく開け、ベッドから起きだして下着をはこうとしてるお兄ちゃんの姿をドアで隠して、私は今度は寮に走った。

 寮ではもう楓さんが起きてて、朝ご飯の支度を始めてた。

「あら、どうしたんだい。彩夏ちゃん」

「えっと、厩舎で事故が起きて、サクラさんと陽子さんに来てもらいたいって、お兄ちゃんが」

「事故?」

「事務所の窓が割れてて、よくわかんないけど藤谷君が倒れてるんです」

「そりゃあ、大変だね。わかった。すぐ行くよ」

楓さんは着けかけてたエプロンを丸めて、キッチンカウンターに放り出すとサクラさんたちを起こしに女性寮の方に向かった。

「あっ、楓さん。楓さんにはココで待機してもらって救急車を厩舎まで案内してもらいたいって」

「わかったよー」と遠くから楓さんの返事がするのを聞いた私は寮の入り口を飛び出して、厩舎に向かって走り出した。前にはお兄ちゃんの大きな背中が見える。お兄ちゃんは厩舎に今まで見たこともないようなスピードで歩いてく。やっと半分くらいまでの所で追いつくと私は小走りにおにいちゃんに並んで進んだ。厩舎につくまでの間、お兄ちゃんは無言だった。

部屋に入ったお兄ちゃんの第一声は「藤谷君の様子は、どうですか?」だった。

「意識は不明ですが、命に別状はないと思います。詳細は不明ですけど、見える範囲で擦過傷、打撲の跡。特に両腕と頭部に集中してます。傷跡から見れば複数の人数で襲われたんじゃないでしょうか。すぐにでも病院に運んだ方がいいと思います」

「そうですか、もう間もなく救急車が到着するはずです。楓さんに付き添ってもらいます。事務所からなくなっているものは」

「細かくはわからんが、今のところはない」

割れた窓ガラスの辺りに居た桐生さんが、足先でガラスの破片を蹴飛ばしながら言った。

その時陽子さんとサクラさんが厩舎にやってきた。

「ねえ、一体何があったの」

「端的にいうと、堅いところでは『家宅不法侵入』。疑いでは、『暴行傷害』『強盗』が入るかどうか。この後は専門家に任せた方が良さそうだね」

サクラさんは、大きく首を振る。どう足掻いても事件性が高そうだからだろうね。お兄ちゃんは割られた窓に視線を向けて、何かを考えている風情だった。

「なんだ。私、また藤谷君が転んで頭で窓ガラスでも割ったのかと思った」

胸をなでおろすサクラさんの様子を見て、時ならぬ小さな笑い声が起きる。失礼だけど、本当にそうだったら、どんなにか平和な一日だったろう。

「しかし、随分派手に割ってくれたもんだよ。昨日の雨がいい煙幕だな」

「むしろ雨がなかったらこうはなってなかったんちゃうか」

桐生さんは部屋の中へ散らばるガラスの破片の一つを取り上げ、表面についた靴型の泥を表裏から仔細に眺めた。あ、桐生さんいつのまにか軍手をはめてる。

「確かに。一時の雨宿りくらいのつもりだったんだろうなあ」

「そこへ、昨日の汚名返上のつもりで藤谷が早く来た。多分早めに来て部屋の掃除やら、お茶入れやらやっとこうと思うたんやろ。まだ若いとはいえ、一度の失敗を償うには継続した取り組みが必要であるということに気がついていないのが残念やね。ま、それはさておき。この部屋に侵入しとった何者かは慌てて藤谷を襲って、開いたドアから逃げた、と」

推理するのが妥当なところやないかな。と桐生さんは言葉を続けた。この場に居た全員が今の二人の会話でおおよそココで起きたであろう事態を理解した。

お兄ちゃんは大きくうなずくと、頭を二、三度振り、「悪いときには悪い流れが続くもんやな」と悲しげな表情をした。

「サクラさんは場長と二人で盗まれたものがないか調べてください。陽子さんと純子さんはいつもどおり朝の放牧へ。あ、あの仔たちに異常がないかどうかも確認してください」

「もう確認してある」

淡々と言う桐生さんの言葉に安心した様子のお兄ちゃん。

厩舎の前で車が止まる音がして、慌てた様子で楓さんが飛び込んできた。

「救急車が来たみたいですね。ではココからは専門家に任せましょうか。楓さん。申し訳ないですが、病院まで付き添ってもらえますか?」救急隊を案内して入ってきた楓さんにお兄ちゃんが依頼する。

「あいよ。連絡は緊急連絡網でやればいいかな」

「はい。それでお願いします」

お兄ちゃんは、駆け込んできた救急隊の皆さんが、ストレッチャーっていうのかな?それに藤谷君を載せるのを手伝って、一緒に外に出ていく。やがて車が動き出す音がして、救急車を見送ったらしいお兄ちゃんが厩舎事務所に戻ってきて辺りを見回した。

そして深いため息をついて、後頭部を掻いた。

「さて、荒らしたい放題荒らしてくれたなあ。まあ、ここは金目のものはないから、それが救いといえば救いか」

「ああ。大事なこと言うの忘れとった」桐生さんがいつもの如くなんでもない顔でお兄ちゃんの方を向いた。

「何よ」

「タケルがおらん」

お兄ちゃんは驚きと呆れたの中間の表情を見せて

「なんで?!」

「理由を聞くにしては間抜けな質問やし、事実を問いただすにしても愚かな疑問やな」

いないものはいない。まるで返してもらえる当てのない借金を申し込まれたかのようにぶっきらぼうに答える桐生さん。

「おらんのはタケルだけか」

「そう。不思議なことにタケルだけ」

お兄ちゃんは右掌を額に当てて、参ったなあというような表情を一瞬すると

「どっちにしろ警察が来て現場検証に入るまでココは片付けられへんしなあ。高山さん親子には申し訳ないけど、タケルの捜索を手伝ってもらおうか」

「社長、場長」

サクラさんが、事務机の上に置かれた空き缶を見つけた。

「おっさん」

その呼びかけに応えて、桐生さんがお兄ちゃんに作業服のポケットから軍手とペンライトを取り出して渡す。

軍手はともかく、何でペンライトなんて常備してるんだろう。

「よく見えないが、タバコの銘柄が最低でも四種類ある」お兄ちゃんは、空き缶の口からペンライトで中身を照らして内容を確認し、同じ位置にそっと空き缶を戻すと言った。

「ま、複数の誰かがココに侵入したことは間違いなさそうだな」

「しかも手口からするとあんまり後先考えてない連中、ってとこか。お前の一番嫌いな手合いだな」桐生さんの言葉に反応した訳じゃないだろうけど、明らかにお兄ちゃんの持ってる雰囲気はそれまでと変わった。

床に少し早目のリズムを刻んだ足音が響いて来た。ドアが静かに開いて、陽子さんが顔だけを覗かせる。

「場長、厩舎の裏の電圧線が1本切られてる」

それを聞いたお兄ちゃんと桐生さんはお互い顔を見あった。

「しまったなあ。内から外に出るのを防ぐことは想定してたんやがなあ。物理的にばっさりいかれるとは」

と首をひねったのはお兄ちゃん。

「それと漏電しないように並列の迂回回路構成にしたのが失敗だったな」

腕を組んだのは桐生さん。

「次に作るときはちょっと回路構成も厳密に考えようか」

「あのー、お兄ちゃん」

「なんだい、彩夏」

「あのね。昨日、お兄ちゃんの事務室に行ったでしょ。あの後、厩舎事務所に明かりが点くの見たんだ。大雨が降ってたから、きっと誰か厩舎の様子見に行ったんだと思ってたんだけど」

私は小さく手を上げて夕べ見た状況をできるだけ正確に伝えた。

「彩夏。そういうことはできるだけ早くに言った方がいいね。これから気をつけるように、ね」

お兄ちゃんは、私の頭を撫でながら穏やかに言った。

「しかし決まり、だな。誰かが夜中に牧場に侵入し、雨宿りのために厩舎事務所の窓ガラスをぶち破った。朝まで寝てこそっと出て行くつもりだったけど、藤谷が早くに来ちまったから、思わず」桐生さんが確信に満ちた口調で言う。

「藤谷君は、くじ運強い方かな」

お兄ちゃんがおおよそこの場の雰囲気にそぐわない質問をする。桐生さんが気の抜けたとした言いようのない表情でお兄ちゃんの顔を見る。

「いや。普段だったら、一番に来るのはあんただろ。で、昨日の話からすると純子さんと彩夏だったかもしれない訳だ。ところが被害にあったのは思いもよらず藤谷君。回復したら宝くじでも買うように勧めてみるか」

「何を呑気な」完全にあきれた口調で桐生さんが吐き捨てるように言うと、その場に居た全員がそれぞれの表現で同意の意思表示をした。もちろん、私も。

「しかし。するとタケルはどうして消えた?」

桐生さんが、困った顔で腕組して考え込む。

「それはおいおいわかるさ。電圧線が切られてたのなら、そこから逃げ出したのかもしれないし、なんかの理由で連れ去ったのかもしれない。そう言えば馬房柵は?」

「そのままでした。動かした形跡もありません。あ、ついでですみません。全頭放牧に連れて行きました」戻ってきた陽子さんが報告する。お兄ちゃんはうなずいて桐生さんにさっきの質問の答えを求める。

「無くなったものは?」

「ない」

「荒らされ損だけで済んだ、か」

お兄ちゃんは、もう一度薄く目を閉じて頭の中を整理しているかのようだった。

そして、ゆっくりと自分の中で内容を確認しながらなんだろう。一つ一つ指示を出し始める。

「とりあえずタケルの捜索と日常業務の遂行に全力を尽くそうか。お客様のことは後で考えよう。到着予定時間は、サクラさん。何時だっけ?」

「午後一時三十分頃。食事を一緒にしてから、牧場視察、その後プレゼンの予定」

お兄ちゃんは正確なその報告に満足そうにうなずいた。

「それじゃあ、俺とおっさん、サクラさんは捜索組。純子さん。申し訳ないけど高山さん親子を起こして三人で日常業務をまわしてくれるかな。陽子さんは、お客様対応の準備を。その後、手が空いたら高山君たちを手伝ってください。余裕ができたら、親父さんに休息を」

お兄ちゃんは改めて陽子さんを呼び止め、「今日の資料その中に入ってるから、陽子さんの眼から見ておかしなところがあったら修正しておいて下さい」とUSBメモリを渡した。

「こういうときに警察はあんまり当てにならないってのが痛いねえ」桐生さんはため息混じりに呟いた。

「一零細牧場のために非常線なんて張ってくれんさ。しょうがない」お兄ちゃんは最初っからあきらめてるのか、妙に潔いというか、恬淡としている。

桐生さんの視線は、壁に掛けられた大きな柱時計に向けられた。

「六時十五分、か。仮に四時三十分以降に何らかの事故が起きたとして、一時間四十五分。最低捜索半径は大体五十キロくらいか」

「おっさん、その範囲の中にご近所さんは何件くらい入る?」

「何件くらいってお前。そら、ここらへんはほとんど牧場やからなあ」

「純子さん、さっきの指示一部変更。ご近所さんへ連絡してタケルの捜索協力依頼をお願いしてください。合わせて高山君、親父さんに謝っておいて。今度、美味い酒ご馳走するからって」

純子さんは、了解の意味だろう。冗談めかした敬礼の姿勢で返した。

「あ、それとあいつは賢い奴やから、自分で放牧場に帰ってるかもしれないので、時々放牧場を見に行ってください。連絡は携帯でするから忘れずに持っていくように」

サクラさんが、この周辺の地図を机から出してテーブルの上に広げた。

「ご近所さんが居ないのは、幸い町へ向かうこの西への一本道だけね。全部に電話を掛けるとしてもざっと三十件くらい。連絡できない件数ではないわ。私たちはこの道を追いかけましょう」ピンクの蛍光ペンで実際に牧場と道をなぞって示した。

「それにしても半径五十キロは理論値やな、広すぎる。タケルのスタミナを考慮して、もうちょっと縮められんか」

「じゃあ一次、二次、三次捜索範囲を決めるか」

「それがええな。で何か案は?」

「たまには自分で考えたらどないや」

「そうは言ってもあんたのことだ。腹案の一つや二つあるんやろ」

桐生さんは大きくため息をついた。

「お前の期待に応えられる俺がイヤだよ」

「へえへえ」

「まず最大捜索範囲を半径五十キロメートルとする。その内、協力を求められそうな牧場は捜索範囲から除く。これだけで全捜索面積を半分にすることができ、捜索方面を西方面の一本道に絞る事ができる。これはサクラさんも言ったとおりだ」

お兄ちゃんは、目で話を続けるように促す。

「馬の習性から考えて、走りやすい道を走る事及び回りを見渡せる広場に集まりやすいことを考慮すれば、自ずと捜索範囲は面から線、点になる」

「それで」

「故に捜索距離を五キロ単位で区分し、その範囲内に存在する広場を重点的に捜索する。一次目標は半径十キロ、二次目標は半径二十五キロ、三次目標は半径五十キロとする」

「ふむ。妥当なところかな」

「えらそうに」

憮然とした表情の桐生さん。

「彩夏ちゃーん。知ってる?こういうのを『人の褌で相撲を取る』って言うのよ」

明るく言ったのはサクラさん。

「はい。覚えました」

二人で顔を見合わせてにっこり微笑みあった。

「こらこら。いたいけな少女に余計なことを教えない」

お兄ちゃんは、笑顔でサクラさんに言うと更に言葉を続ける。

「サクラさん、今のおっさんの案を地図に落としこんでくれるかな。それに従って捜索を開始しましょう」

お兄ちゃんは、サクラさんに指示を出すと、桐生さんに事務所の入り口に車を回して置くように言って、厩舎の出口に向かった。

「おい」

多分その後には、「どこへ行くんだ」と続くはずだった桐生さんのその呼びかけを、お兄ちゃんは振り向きもせずに片手で遮って

「ちょっとお守りを取ってくるだけや」といつもと同じような調子で言った。

「お兄ちゃん」

事務所を少し駆け足で飛び出して、階段を上りかけたお兄ちゃんの大きな背中に向かって、私は思いっきり大きな声をかけた。

「私も、彩夏も行く。連れて行って」

お兄ちゃんは少し困ったような顔をして

「彩夏。気持ちは嬉しいけれど」

お兄ちゃんは、その先の言葉は言わなかった。確かに私が行っても役に立てないと思う。タケルと他の仔の区別もつかないし、どう扱って良いかも良くわからない。でも、行きたい。少しでもみんなの役に立ちたい。

「まあ、ええんやないか。一人でも手が欲しい状況ではあるし」

「そうそう。それに、目は一杯あったほうがいいわよ。その分たくさんの方向を見れるんだしね。車は四人乗りでしょ」

桐生さんとサクラさんが、それぞれ助け舟を出してくれる。

お兄ちゃんは天を仰いでから、ため息を大きく吐くと、ぼりぼりと後頭部をかきながら

「まったく。いつの間にうちの番頭と金庫番を手懐けたんだかね」

苦笑いしながら、腕組して桐生さんとサクラさんの顔に視線を送る。

二人は微笑みを返している。

ほんっといいなあ。ここの空気は。みんな大変な時なのに、落ち着いてるよ。悪い言い方をすれば緊張感に欠けるって言われるんだろうけれど、みんなきちんと自分の役割を心得てるからそんな感じは全然しないよ。

「彩夏、桐生のおじさんと車のところで待ってなさい」

お兄ちゃんは二、三歩上りかけて、上半身だけで振り返った

「但し、危ないことは絶対しないこと。わかったね」

お兄ちゃんの、困ったような顔がおかしくて、私は軽く笑っちゃった。

「うん」

力いっぱいそう応えた私の声を背中に受けて、颯爽と厩舎を後にした。私は桐生さんとサクラさんの後に続いて厩舎の扉をくぐった。

「まずいなあ。あいつ、完全に怒ってるよ」

「え、そうなの。私にはいつもと同じに見えたけど」

駐車場へ向かう途中で桐生さんが頭抱えて言う言葉にサクラさんが呑気に返す。でもこの場合は私も桐生さんと同意見なんだよね。お兄ちゃん、怒りをためて爆発させるタイプだから普段はどうってことないんだけど、怒ると容赦ないから。「理」で追い詰めて、「力」でねじ伏せるから相手は反論も反撃もしようがないんだよ。

「しかし。僕も『おじさん』と呼ばれてもおかしくない年になったのかねえ」

さびしげに呟く桐生さんの肩をサクラさんが叩く。

「冗談に決まってますよ。社長の口が悪いのは今に始まったことじゃないじゃないですか」

「ま、それはわかってるんだけど。僕も気がつけばもう二十代も後半だからねえ。時間が経つのが早く感じるよ」

「『光陰矢の如し』という奴ですよ。場長」

「少年老い易く、学成りがたし。一寸の光陰軽んずべからず」

桐生さんは、少し寂しげにため息をついて、辿り着いた車の助手席に乗り込んだ。

やがて駐車場にやってきたお兄ちゃんの左手には唐草模様の竹刀袋があった。竹刀袋に入ったまんまだからよくわからないけど、あの重量感は竹刀じゃないよ。

桐生さんはそれを見て眉をひそめたんだけど、「いいから、いいから。万一に備えただけだから」とお兄ちゃんはさらりと受け流した。

お兄ちゃんが運転席に乗り込んで、ようやくタケル捜索隊の出発。

みんなには悪いけれど、私は少しワクワクというか、ドキドキする気持ちを止められなかった。お兄ちゃんは牧場を出る直前で車を止め、ハンドルに右手を置いて3人が視界に入るように振り返る。

「じゃ。みんな頑張って捜索活動頑張ろうか。では経済速度で出発進行」

「宜う候」応えたのは窓から左手を出して、外を眺める桐生さんだけだった。ホントこの二人の会話って漫才の掛け合いみたいだね。

タケル。どこに居るかはわからないけれど、無事で居てね。貴方は私の大事な人の夢の結晶なんだから。神様お願い。普段あんまりお願いしたことないけど、お兄ちゃんの分までも強くお願いするからどうか、タケルを無事で居させてください。

ついでに余裕があったらでいいです。藤谷君の事もよろしくお願いします。


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