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はるのおとずれ

作者: 三笠 とあ

 やわらかな陽光が差し込む窓際のベッドの上で、今日も私は呆けていた。


 寝起きなのだ、果たして今が何時なのか、いつからここにいるのか、こういう生活を始める事になった経緯もよくおもいだせなかったけど、妙な心地よさに身を委ねることで今の私は満足だった。


 部屋の扉が開いて見覚えのある顔が飛び込んできた。


 父だ。


 私を一瞥し、父は部屋の外を覗きながらゆっくりと扉を閉める。それから再び私に向き直り「やれやれ」といった表情でベッドに歩み寄ってくる。


「なあ、あの外の人たち頭痛くないのかなぁ、あんなに壁に頭を打ちつけて」


「馬鹿ね、痛くないからここにいるんでしょう」


 私は冗談ともとられかねない口調で、さも当然といった風に返した。


 父は持ってきた小さな花束を花瓶に生けながら「そんなもんかね」と呟いた。

呑気なものだ、本当に呑気だ。


 春が近づいている。この部屋にいても季節の変わり目は多少なりとも感じられる。

 例えば夕日の角度とか、日照時間の長さとか、紫外線の量とか、父が持ってくる花とか、部屋の外から聞こえてくる、ゴツゴツと規則正しいリズムのヘッドバンキングとかで。


 昔、隣の家に住んでいたカッちゃんが自分の頭を壁に打ちつけだすと、決まって母は呑気にこう言っていた。


「春が来たのネェ」と。


 そんなカッちゃんの異常行動をほほえましく語る母に多少なりとも反感を抱いた。カッちゃんの家はお母さんとカッちゃんとお姉ちゃんの三人暮らし。あんまり幸せな家庭とはいえないと、当時の私ですら思っていた。


 カッちゃんのせいでお姉ちゃんの縁談がまとまることがないのだという、彼女の言葉は認めたくはなくとも真実といえた。


 カッちゃんが家の門柱に頭を打ち付けすぎて倒れた時、母はこんなことを言った。


 カッちゃんがもたらす春の合図とは裏腹に、お姉ちゃんには春が来たんだからよかったんじゃないかと。


 若さゆえだったのだろうか、わたしはそんな無神経な言葉を吐く母を強く罵倒した。


 カッちゃんがいなくなってから、私の中では長く春は訪れていないように思う。

だから、今わたしは再びこの音を懐かしく聞いている。


「よかった、今日は機嫌よさそうで。今日は渡したいものがあるんだ」


 過去を反芻するわたしの口元は知らず知らずのうちに緩んでいたのだろう、父はわたしの顔を見て微笑んだ。


 そしておもむろにわたしの左手をとり、どこに隠し持っていたのか薄金色の指輪を取り出してわたしの薬指にはめた。


 綺麗だ。


 指輪に魅入るわたしの視線を他所に、ベッドの脇に腰掛けてわたしの頬にやさしくキスをする。その感触に一瞬どきりとして身をもだえるわたしは、記憶の溝に落っことした何かを爪の先でひっかけようとする。


 だけど、すこしばかり届かなかった。


「弟さんのことは――克己君のことは、残念だった。だからって訳じゃないんだ、本当だよ。君とこの先ずっと、克己君の分まで一緒に生きてゆきたいと思ったんだ。だからこれを受け取って欲しい」


 父は相変わらず呑気だ、真っ白な壁と真っ白なベッドだけのつまらないこの部屋では、耳元でささやかれるこんな父の冗談も多少の暇つぶしにはなる。わたしはお返しに、にっこり笑って礼を述べる。


 格子窓から緩やかに差し込む春の日差しはわたしと父を優しく包み込む。きっとこんな幸せな時間はそう長くは続かないのだけど、今日は呑気な自分でいることを許そうかと思った。


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