第一章―08
伊勢崎さんが出してくれたカフェラテは、甘すぎるのが玉に瑕だった。とはいえ、飲まないのも失礼なので、僕は一口ずつカップを口に運びながら、僕を見守るように立っている伊勢崎さんに話し掛けることにした。
「でも、驚きましたよ。てっきり、この屋敷にいるのは六人だけだと思ってたので……。まさか、メイドさんがいるとは」
「すいません。顔も出さないで」
伊勢崎さんが大げさに頭を下げて謝ってくる。それで逆にこっちが恐縮してしまって、「いえいえ」と手を振った。これじゃコントだ。
「じゃあ結局、ここにいるのは七人ってことですか?」
「そうですね。霧山さん、古橋さん、守屋さん、御代川さん、東大寺さん、小坂さん。そこにわたし伊勢崎を加えて、全部で七人です」
「ふぅん。七人にしちゃ、ちょっと屋敷が豪華すぎますけどね。もう二十人くらいなら、楽々入れそうですよ」
「ええ、まぁ。広いお屋敷ですから」
あまり使われないのが少しもったいないくらいです、と伊勢崎さんが付け加える。僕は糖分たっぷりのカフェラテを一口含み、気になっていたことを尋ねてみた。
「あの……この屋敷って、本当に霧山さんの所有物なんですか? いや、屋敷だけじゃなくて、天上島そのものも」
「ええ。今は確かに、霧山朽葉さんの個人所有ということになっていますね」
「やっぱり、そうなんですか……。まだ十七歳なのに、どうしてこんな屋敷を作る必要があったんですかね。僕も十七歳ですけど、見てるものが違いすぎる気がしますよ」
伊勢崎さんは困ったように、曖昧に笑んだ。
「えっと、ひとつ誤解を正しておくと、このお屋敷は確かに霧山さんの所有ですけど、彼女が建てたわけじゃないんですよ」
「え、どういうことですか?」
「ええっと、少し複雑な事情があるんですけど……。簡単に言うと、このお屋敷を建てた前の所有者さんから、霧山さんが島と屋敷を買い取るような形になったんです。熊切さん、って言うんですけどね、その前の所有者さん。ほんの数ヶ月前の話です」
「数ヶ月前! そんな最近になって、霧山さんが買った屋敷なんですか」
言われてみると確かに、大きな屋敷ではあったが、真新しいという印象は特別受けなかった。それは、背後にそんな事情があったからなのか。
しかし、それはそれで、どうして霧山朽葉がこの屋敷を買ったのかという疑問が残る。まるで、この企画のためだけに購入したみたいだ。……さすがに、それはないか。
「実を言うとわたし、元々はその熊切さんに仕えていたんですよ」
伊勢崎さんが、カップを握る僕の手元に目を落として言った。
「熊切さん……。ここの前の所有者さんに、ですか」
「はい。このお屋敷専属の使用人として雇われたんです。その当時は、他にも使用人が何人かいて、熊切さんも頻繁にこのお屋敷を訪れていらっしゃったんですが……」
「熊切さんの別荘だったわけですね?」
「ええ。熊切さんは、週末には必ずここへいらっしゃいました。今から、だいたい五年ほど前までは、それはもう必ず」
伊勢崎さんの言い方には妙な含みがあった。僕はカップを置いて、彼女を見つめた。伊勢崎さんは伏し目がちで、どこか戸惑うような気配を纏っている。
「何かあったんですか? その、五年前に」
「ええ。……実はわたしもよく知らないんですけど、何か事件のようなものがあったらしくて」
「何かって? 伊勢崎さんって、ここで働いてたんですよね?」
「ええ、そうなんですけど。……その時、ちょうど暇を頂いていたので。詳しいことは何も知らないんです」
そうなんですか、と僕は鼻を鳴らした。
いくら休暇中とはいえ、自分の職場だ。何か事件があったのなら詳細を知っていても良さそうなものだが。そう思ったが、積極的に知りたいと思うほどの興味はなかったので、僕は黙ったままでいた。
「で、その事件らしきものの後、どうなったんですか?」
「ええ。その事件を境に、わたし以外のすべての使用人が解雇されて……わたしだけが、このお屋敷の維持・管理という名目で、引き続きここに務めることになったんです」
「へぇ……。何だか、えらく怪しい話ですね」
僕は半ば他人事として彼女の話を聞いていた。今日は変人の話ばかりだったので――十年間監禁されていた女性やら、ジャッカルと格闘した男性やら――感覚が麻痺していたというのもあるが。
五年前、孤島の洋館で起きたという、謎の事件。職場の人間にすら詳細を知らせることの出来ないような、後ろめたい秘密。
いかにも霧乃が好みそうな話題ではあるな、とは思った。
「それで、伊勢崎さんは事件の後、五年も一人でここに?」
「まぁ、そういうことになりますね。この五年間、買い物へ行く以外は、島を離れたことは一度もありませんから」
「それはまた……」
メイドさんまで世捨て人だったか、と心の中で呟く。顔が引きつっていないか、心配になった。
「とにかくも、それでようやく数ヶ月前、ここの所有者が熊切さんって人から霧山さんに変わったってわけですね。で、伊勢崎さんも熊切さんのところを辞めて、霧山さんに仕えるようになった……?」
「そういうことです。もっとも、わたしがその霧山朽葉さんって方と実際に会ったのは、今日が初めてでしたけども」
ずっと電子メールでのやり取りでしたから、と彼女は続けた。どうやらあの霧山朽葉という小説家、秘密主義が人格に根を張っているらしい。皆の前でもペンネームで通して、実名を明かそうとしないところにも、その片鱗が窺える。
しかし、それにしても――。
絶海の孤島、謎の事件が起こったらしい洋館、秘密主義者の覆面推理小説家、奇怪きわまる招待客。
およそ歓迎されがたい舞台装置だけが、着々と整っていくようだ。
背後に漂う奇妙な予感に、僕は背筋を震わせた。