第一章―07
僕と霧乃の部屋は、十二号室だった。
屋敷の二階も、基本的には一階と同じ構造をしている。回廊によって取り囲われた中央の大部屋は、一階では大広間だったが、二階では談話・遊戯室だった。回廊の外周に沿うようにして立っている無数のドアは、そのすべてが客室のドアであるらしい。もっとも、客室ドアにはすべて鍵が掛かっているため、鍵を持っていないと立ち入り出来ないのだが。
さて。自分たちの部屋に足を踏み入れた僕は、まずその設備が実に整っていることに驚いた。
「へぇ! まるでホテルの一室みたいだ」
部屋の入り口付近にドアがあり、奥にはベッドが二つ並んでいるのが見える。入り口付近のドアを開けてみると、中はトイレ+バスルームだった。この屋敷、客室が全部で二十弱ほどあったような気がするのだが、全部屋にこの設備が付いているのだろうか。霧山朽葉もたいした金持ちだ。
ベッドルームには作業用の大きなデスク、液晶テレビ、サイドボードに電気スタンドなど、小物類まで一通りが揃っている。僕の部屋の数倍は上等な装備だ。ベッドに腰掛けてみると、自分の体重を跳ね返すような、軽い反発があった。
「おい霧乃。このベッド、楽しいぞ!」
僕は何だか一人で嬉しくなってしまって、ベッドに寝そべってごろごろと寝返りを打った。信州旅行ではチャチな民宿に泊まる予定だったから、部屋の上質さだけならこの屋敷の方が遥かに上だ。これが無料なんだから、こっちに来て良かったなぁ……などと、僕は一瞬血迷ったりもした。良いわけがない。
「ゆぅくん。なんか、修学旅行の小学生みたいだよ」
霧乃がわりに醒めた目で僕を眺めて、ごろんと自分のベッドに横たわる。「ちょっと、ふわふわしすぎだよ。ぼく、自己主張するベッドは嫌いなんだ」とか、文句を垂れている。さすが年中ベッドに寝転んで生活しているだけあって、ベッドの質にはうるさいらしい。
僕は霧乃を放ってベッドから起き上がり、部屋のカーテンを開けてみた。
ガラス戸の向こう、眼前に広大な海原が広がっていた。
「へえぇ。海がこんなに大きく見えるのか……。ほら霧乃、海だよ海!」
ベッドに寝転んでいる霧乃に呼び掛けてみるも、彼女は「海なんて、東京湾を見慣れてるよ……」とまるでやる気がない。そんなの、アンコールワットを見て、「アンコールワットなんて、写真で見慣れてるよ」と言うのと同じじゃないか。これだから引き篭もりという人種は駄目なんだ。
部屋のガラス戸は開くようになっていて、簡単なバルコニーが付いていた。なので潮の空気を吸いに外へ出てみたのだが、足下を見て驚いた。
バルコニーの遥か真下で、波が不気味に渦巻いていたのだ。
「ここ、海にせり出してるのか……」
僕は急に足が竦んでしまい、すごすごと部屋の中へ引き返した。
そういえば、この屋敷は北側が断崖絶壁に面しているんだったっけ。どうやら、この十二号室は屋敷の北側に位置しているらしかった。
「ゆぅくん。海が見たいなら、二階の中央バルコニーに行ってくれば?」
霧乃が手荷物の中からハードカバー――『不連続の宇宙』とかいうSFだ――を取り出しながら言った。
「中央バルコニー?」
「ここへ来る途中、二階に観音開きの扉があったでしょ? あそこから、思いっきり海にせり出した大きなバルコニーへ行けるみたいだよ」
「ふぅん。よく知ってるんだ」
「ゆぅくんは観察力が低いんだよ。色々見ているようでいて、実は何も見ていない。クローズド・サークルだと、途中で少しだけ真実に触れて殺される脇役ってところかな」
「ああ、そう」
現実とフィクションを混同しかけている奴に言われたくなかった。
「でも、どうしようかな。せっかくだから海の写真撮りたいけど、カメラとかスマートフォンとか持ってきてないし」
カメラと、カメラ機能搭載の各種機器については、この企画では持参が禁止されていた。霧山朽葉は覆面作家であるため、というのがその理由らしい。下手に写真でも撮られてネットに流失したらかなわない、ってところだろう。スマートフォンを持参できないのは、現代人の僕には少々つらかったが。ちなみに、霧乃はそもそも携帯電話の類を所持していなかった。
僕は、ベッドに寝転んで淡々と読書を始める霧乃の隣に、腰を降ろした。
「なぁ霧乃。せっかくだから、中央バルコニーへ一緒に行ってみないか? あるいは、屋敷の周りをぐるっと探険してみるとか。せっかく瀬戸内海の孤島まで来たんだからさ」
「ぼくはいいよ」
ごろん、と霧乃は寝返りを打つ。ちょっと長いこと太陽の下にいたからだろうか、霧乃の色素の欠落した肌が、火照って上気していた。
「海や森を眺めるより、文字を追っている方がよっぽど幸せだからね。本がなければ何も満たされないけど、本さえあれば全て満ち足りる。そういう人間だよ、ぼくは」
「……知ってるけどさ」
東大寺霧乃の幸せの指標は、0パーセントと100パーセントの二つしかない。本がなければ0パーセント、あれば100パーセントだ。実に単純で、だからこそ救いようがない。この女の子には、本質的に他者というものが存在価値を持たないのだろう。
僕がその「他者」の位置づけに含まれているか否かは、保留するとしても。
「せっかく、瀬戸内海まで来たっていうのにさ……」
僕は唇を尖らせ、ゆらりと立ち上がった。霧乃の返事はなかった。
ベッドに埋もれて、ハードカバーへ眠たげな瞳を向ける少女。
異常に白い肌も、色素の薄い長髪も、華奢な肩も、棒きれのように細い腕も。
何だか彼女の全てが作り物のように見えてしまって、僕はやっぱり、土葬ならぬ「書葬」という言葉を、頭に思い浮かべたのだった。
実はさっき、それぞれの部屋に別れる前に、守屋さんから「全員でこの島を探索してみないか?」という提案が出ていた。
「せっかく小難しい暗号を解いて、ここまで招待されてきた仲間なんだからさ。お互い、親睦を深めるためにも。時間もあることだし」
「冗談じゃないわ!」
守屋さんのその提案に、まるで癇癪でも起こしたかのように反対したのは御代川さんだった。
「島の探索をする、ですって? あなた、自分が言っていることの意味を分かっているのかしら。森を歩いて蛇でも出てきたらどうするのよ。未開人の真似事なら、一万年前に遡ってやって来たらどうかしら?」
彼女は言いたい放題に喚き散らすと、さっさと自分の部屋へ閉じ篭もり、中から鍵を掛けてしまった。おそらく夕食まで一歩も外に出ないつもりなのだろう。守屋さんが「やれやれだな」と言って肩を竦め、僕も彼に同調して溜息をついた。
何のための集まりなんだか、ますます分からなくなってきた。
御代川さんのこともあって、守屋さんの提案は結局流されることになった。夕食までは各自、自由行動。そう決まって、霧乃がひそかに胸を撫で下ろしていたことを、僕は知っている。
そういうわけで現在、守屋さんが外へ探索に出ていった他は、全員が屋敷の中にいた。霧乃と御代川さんは自室に閉じ篭もっているわけだが、僕もそれに倣う気にはなれず、屋敷の中を歩き回ることにした。
中央バルコニーに繋がる観音扉は、霧乃の言った通り、二階回廊の北側に存在していた。扉に鍵は掛かっておらず、外へ出ると、確かにバルコニーが海にせり出しているのが分かった。足下を見下ろせば――さながら獲物が落ちてくるのを待つ生き物のように――白波が荒れ狂っている。もしここから転落すれば、間違いなくあの世行きだろうと思われた。
ひとしきり海原を眺めてから、二階回廊へ戻り、階段を降りる。
一階の回廊にも、二階と同じように、回廊の外周に沿うようにして無数のドアが立っていた。さっき見たフロア図によれば、一階には使用人部屋や応接室、書斎なんかがあるはずだ。もっとも、全ての部屋に鍵が掛かっているだろうし、中を覗こうとも思わなかったが。
そうして結局、大広間に戻ってきてしまった。
中に誰かいるかな――。そんなことを思いながら、何となく扉を開く。
すると、
「あれ?」
大広間の中で、見知らぬ女性が長テーブルを拭いていた。僕と同じタイミングで向こうもこちらを見ていて、目が合ってしまう。
肩口まで伸ばした髪、どこか物憂げな瞳。年上のようにも見えるが同年代のようにも見える、年格好のよく分からない人だ。
しかし、そんなことより目を引くのは彼女の服装だった。黒色のシンプルなドレスに、白色のエプロン。あの特徴的な衣装は……。
「もしかして、この屋敷のメイドさん……だったりします?」
気が付くと、僕の方が先に口を開いていた。それで彼女の方も我に返ったらしい、「あ、はい。そうです」といささか取り乱した様子で服装の裾を直し、慌てて僕に向き直る。
彼女は丁寧にお辞儀してみせた。
「ようこそいらっしゃいました。わたくし、この屋敷の使用人を務めております、伊勢崎と申します」