第六章―08
神様、というのがいたのだろうか。
この日からちょうど三日が経った日の早朝、僕は知ることになる。
瀬戸内海の中心で、故障を起こして転覆していた一隻のモーターボートが発見されたこと。
それは、天上島の屋敷の檻に格納されていたモーターボートであり、僕たちが島からの脱出に使おうとしていたモーターボートだった。あの時は、鉄檻の鍵を開けられなかったため、ボートの使用は諦めざるを得なかったのだけれど。
僕たちが帰りの船で島を出た後、いまだ屋敷に潜んでいたその人物は、屋敷に火を放ち、檻の鍵を開けてモーターボートで島を脱出しようとしたらしい。
そんな最中、海の上でのモーターボートの故障、そして転覆。
海に投げ出されたその人物が、必死にしがみついていたのだろうか、モーターボートの船体には、無数の爪で引っ掻いたような跡が残されていたらしい。
生きるために。
彼女は一体、どんな思いで転覆したボートにしがみついていたのだろう。海の中、次第に衰弱していく自分を励ましながら、それでも生きることを諦めなかったのだろうか。
運命とは無情なもので。
発見されたのは、モーターボートの船体だけだった。
その事実を知った日から時は遡り、再び東大寺霧乃の部屋。
曲がりなりにも事件の全貌を知るに至った僕は、何とも言えない気分でそうめんを啜っていた。
『死者』であった過去の自分を棄て、新しい人生を歩んでいくために殺人劇を繰り広げた霧山朽葉。彼女は一体どういう思いで、自らの書いた小説に『死者の館』という名前を付けたのだろうか。そして、どういう基準であの企画の参加者を選んだのだろうか。
ひょっとすると霧山朽葉は、暗号の答えなどではなく、応募者の性質で参加・不参加を決めていたのかも知れない。自分と同じ、他者とのつながりを持たない『死者』であるならば参加を認め、正常な人間関係を持つ『生者』であるならば参加を認めない。そう考えると、あの屋敷に奇怪な人間ばかりが集まっていたのも頷ける気がする。
――そういう意味でなら、この屋敷はまさに生きながら死んでいる『死者』たちの集う館――『死者の館』と称して差し支えないんじゃないかしら?
生前の御代川さんの言葉は、案外当たっているのかも知れない。
そうだ。
僕の目の前にいる、この女の子も……。
「どうしたの。ゆぅくん?」
僕が変な目で見つめていたからだろうか、霧乃がそうめんを口から垂らしたまま、小首を傾げる。とろんと夢心地にいるような瞳が、僕の瞳を映している。
この子の目は、本当に僕を見ているのだろうか。
少しだけ、不安になる。
「あのさ……僕、ずーっと気になってたんだけど」
目を落とし、霧乃の白い首もとあたりに視線を据える。そうめんを啜って間を取るという選択肢を封じるため、僕は箸を置いた。
そのうえで、喉から質問を絞り出す。
「霧乃は、どうしてあんな企画に応募したのかなぁって……。ほら、霧乃って基本的に部屋に引き篭もってる人間だろ? それなのに、どうして急に外出しなけりゃならないような企画に、応募しようと思ったのかなぁって」
「んー……。それは、ホワイダニットだね」
ぴっ、と霧乃は箸で僕の鼻先を指した。脳髄までミステリに浸かっているのだろうか、この子は。
「ゆぅくんも、たまには自分の頭で考えようよ。どうしてぼくは、あの企画に参加したいと思ったのでしょうか? 本格推理じゃないけど、れっきとした日常の謎だよ、これは」
「日常の謎、ねぇ……」
その単語なら知っている。殺人やら密室やらという物騒な謎じゃないけど、日常の中に潜んでいる小さな謎に焦点を当てた推理小説だ。がちがちのミステリが苦手な僕でも、たまに霧乃が「ゆぅくん。これ一緒に読んで、感想交換しよう」と言って貸してくれる日常の謎系のミステリなら、何冊か読んだことがあった。
問題。東大寺霧乃はどうして、霧山朽葉の企画に応募しようと思ったのか。
ない脳みそを絞って、僕なりの答えを導いてみようとする。
旅行に行くと決まる前の、霧乃の態度。
僕をいきなり部屋に呼びつけて、企画参加が決まったことをだらしない笑顔で告げた霧乃。その後、「知らない人と旅行したってつまんないよ」と言い出し、「やっぱり、行くのやめようかなぁ」と言い出した霧乃。さらにその後、僕が折れて一緒に行くと言い出したとき、「じゃあ、行ってみようかなぁ」と頬を弛めた霧乃。
日常の謎系ミステリ。
ゆぅくん。これ一緒に読んで、感想交換しよう。
それが、答えなのだろうか。
東大寺霧乃という女の子にとって、僕という存在は――。
顔を上げる。心なし緊張した面持ちで、霧乃がそうめんを啜っていた。「分かった?」なんて、何気ないふうを装って尋ねてくる。でも、その声はちょっとだけ震えている。
僕は自分で出した答えを、口にしてみた。
「もしかして、僕と一緒にいたかったから。……とか?」
微妙な沈黙。
微妙な間。
そうめんを箸で摘んだまま動作を停止させていた霧乃は、やがて動作を再開すると「ゆぅくんがそう思うなら、それでいいんじゃないかなぁ」と真意の読めない口調で言った。
だが、そんなの卑怯である。
僕が憮然として彼女を睨み続けていると、霧乃が「あ、そうだ」と殊更なんでもなさそうに言う。
「ね、ゆぅくん。冬休みはどこか雪山へ遊びに行こうよ。雪山の山荘、吹雪付きセットで」
そう言って、言った後に気恥ずかしさが抑えきれなくなったのか、わずかにはにかんでみせる。「冗談言うなよ」と突っ込みながらも、僕も何だか笑ってしまった。その発言の裏に、霧乃の真意が透けて見えたから。
いや、もっとも、クローズド・サークルは冗談抜きで勘弁なんだけど。
でもまぁ、こんな日くらいは。
それをネタにして笑ってしまっても、いいような気がしたのだ。
そして、同時に確信する。
東大寺霧乃は間違っても、生きながら死んでいる『死者』なんかじゃない。彼女はきちんと人間の中に網を張って、自分の足で道を歩んでいる『生者』なのだ。
だって、霧乃の隣には僕がいるのだから。なんて、恥ずかしくて言えないけど。
それでも、きっと僕は霧乃の隣に居続けるのだろうし、霧乃は僕の隣に居続けるのだろう。
理由なんて、問うまでもない。
生きる者であるために。