第六章―07
僕は何だかもう、驚き疲れてしまった。
古橋さんだと思っていた人物が霧山朽葉で、その霧山朽葉こそが熊切千早だった――。
なんだこれ。わけが分からない。
「多分、霧山朽葉は、ぼくたちの部屋に写真やアルバムの類もあるんじゃないかと心配になったんだろうね。そこにもし、自分の顔が映っていたら――。せっかく、順調に進んでいる計画がすべて水の泡だもの。だから彼女は、ぼくたちの部屋に火をつけたんだよ。証拠を燃やし、あわよくば、それを発見して真実に気付いてしまったかも知れないぼくたちをも、一緒に葬り去ろうとね」
「じゃあ、熊切千早が父である熊切千秀を殺害したっていう、五年前の事件は……?」
「それも多分、本当のことだよ。
霧山朽葉であるところの熊切千早は、生まれてからずっと地下のあの部屋に監禁されていた。そして五年前、自分を監禁し続けた父に、ついに復讐の刃を向けた。
事態を知った熊切家は、事を揉み消して、熊切千早を自分たちで引き取った。それから熊切千早がどうなったのかは、ぼくにはよく分からないけど、とにかく彼女は霧山朽葉という名前の推理小説家として、デビューしたんだ。だから、『死者の館』の舞台があの屋敷に似ていたのは当たり前。だって霧山朽葉は、自分がかつて監禁されていた屋敷をモデルに、あの小説を書いたんだから。
ううん、それどころじゃない。あの小説が上巻しか発売されていないことを考えると、霧山朽葉はそもそも、あの殺人劇のためだけに、『死者の館』を書いたのかも知れないよ。最初から、下巻を書いて解決編をやるつもりなんかなかったんだ、ってね」
霧山朽葉、すなわち熊切千早――。
実の父に監禁され、およそ他者と触れ合わずに育った少女。
五年前、その実の父を殺害し、その後に推理小説家としてデビューして。
自分が監禁されていた屋敷をモデルに『死者の館(上)』を書き上げ、今度の殺人劇を計画し、そして実行した。
彼女という人間は一体、何を見つめていたんだろう。
何のために、こんな殺人劇を繰り広げたのだろう。
「動機については、彼女に聞かないと分からないから、ただの想像になるけど……」
霧乃はコタツ机に両肘を突き、両手で顎を支えた。どこか遠い目をして、自分の部屋の壁を眺めている。
「霧山朽葉は結局、自分が死んだと世間にアピールしたわけだよね。書斎にあったのは本当は古橋さんの死体だったけど、警察の判断では、あれは霧山朽葉の死体だったってことになってるから。ぼくは多分、それこそが霧山朽葉の本当の狙いだったんじゃないかと思うんだ」
「本当の狙い? 霧山朽葉が、自分は死んだと世間にアピールすることが?」
霧乃は黙って頷いた。
「自分以外に偽の犯人を仕立て上げたのも、自分の身代わりとなる死体を用意したのも……。多分、そのすべてが、霧山朽葉が死んだと見せかけるためのもの。恐らくそれこそが、彼女の真の目的――。
ぼくはね、ゆぅくん。霧山朽葉は、あの屋敷で一度社会的に死ぬことで、生まれ変わろうとしたんじゃないかと思うんだよ」
「生まれ変わり?」
「そう。霧山朽葉――熊切千早は、生まれたときから屋敷の隠し部屋に監禁され、誰とも触れ合わずに育った。いわば、生きながら死んでいる『死者』だよね。御代川さんの偽の遺書にあった言葉――あれももちろん霧山朽葉が偽装したものだけど、あれは案外嘘じゃないと思うんだ。
覚えてる、ゆぅくん? あの遺書の一節を……。
――私は鬼ごっこも、缶蹴りも、ドッジボールも、あらゆる遊びという遊びをしたことがありませんでした。十何年も薄暗い部屋に閉じ篭められ、他者と交わる機会が与えられなかった私に、そんな遊びが出来るはずもなかったのです。ただ情報としてのみ知るそれを、私は暗い部屋の中でうずくまりながら、ひそかにやってみたいと願うばかりでした。
ぼくにはね、これはどうも単なる嘘のように思えないんだよ。
これは嘘なんかじゃない。きっと、これは霧山朽葉の本心――熊切千早があの薄暗い部屋で監禁されているときに抱いていた、切なる願いだと思うんだ。
鬼ごっこも出来ない。缶蹴りも出来ない。ドッジボールも出来ない。それどころか、友達を作って普通に喋ったり、笑い合ったりすることすら許されなかった十年間――。
呪われた運命だよ。
だからきっと、霧山朽葉はそれを捨て去ろうと願ったんだ。
呪われた過去を、『死者』としての人生を棄て、もう一度新しい形で人生をやり直す――すなわち、生まれ変わり。
霧山朽葉は自らを一度殺し、そして別人として再生するために、あんな事件を起こしたんだよ。自分は死んだんだと世間に明確にアピールし、熊切千早でも霧山朽葉でもない、別人のまったく新しい人生を歩み出そうとしたんだよ。
ううん、もしかすると、今回の事件だけじゃないかも知れない。ずっと前から――それこそ、あの隠し部屋に監禁されていたその時から、霧山朽葉は生まれ変わりの幻想を抱いていたのかも知れないよ。いつか、こんな呪われた人生は棄てて、別人として生まれ変わってやるんだ、って。
もし、そうだとしたら。
霧山朽葉の行動がすべて、生まれ変わりというたった一つの目的に裏打ちされているのだとしたら。
霧山朽葉が推理小説家になったのも、『死者の館』という小説を書いたのも、屋敷での殺人劇も、すべては生まれ変わりというたった一つの願いのためだけのものだったとしたら――」
ゆぅくん。あなたはどう思いますか?
霧乃は声に出しこそしなかったが、そう尋ねるように僕を見つめた。
僕は、何を思ったのだろう。
生まれて以来、ずっと暗がりの部屋に監禁されて育った少女。
実の父を殺し、ただその呪われた人生を棄てることだけを目的として、生まれ変わりを願い続け、
推理小説家となり、『死者の館』という小説を書き、あの屋敷で殺人劇を繰り広げた。
つい一週間前までは古橋さんだと思っていた彼女の、落ち着いた物腰を思い出す。
あの人は――霧山朽葉は、あの静かな態度の裏に、一体どんな想いを秘めていたのだろう。どんな激情を、隠していたのだろう。
僕は、霧山朽葉――熊切千早という人物の人生に、爛々と輝くような強い意志と、そしてその意志の裏にある深い哀しみとを、感じざるを得なかった。