第五章―05
一日ぶりに訪れる書斎は、臭気に満ちていた。
臭いの発生源は言うまでもなく、霧山朽葉――いや、霧山朽葉だったモノ、だ。腐食の進行を抑えるために、書斎では昨日から冷房を全開にしていたが、それでも時間が経てば死体はどうしようもなく腐る。人間と物体の境目を実感した瞬間だった。首斬り死体に毛布が掛けられていて、その哀れな姿を直視する必要がなかったのが、唯一の救いだろう。
そうして誰もが顔をしかめながら探索を行った結果、ついに発見した。
書斎の隅の床板に、かすかに継ぎ目が見える。その床板を持ち上げてみると、地下へと続く穴がぽっかりと口を開けていたのだった。
「隠し通路……熊切千早の監禁部屋は、この先にあるってのか?」
守屋さんの独り言めいた呟きに、霧乃が黙って頷いた。
「この先の地下室に、熊切千早はずっと閉じ篭められていたんだよ。生まれてから何年も、あるいは、何十年も……」
四角形の穴の大きさは、人間一人がなんとか通れるほどのものだった。剥き出しのコンクリートの壁に取っ手が無数に取り付けられていて、僕たちはそれを梯子として地下へ潜っていった。潜れば潜るほど闇は濃くなり、空気が冷たくなっていくようだった。
どのくらい潜っただろうか。
先頭を行く守屋さんが「着いたぞ」と息を潜めて言った。狭くて暗い空間に、その声は何重にも反響して聞こえる。やがて、僕たちも地下の地面に降り立った。
真っ暗で、そして狭い。
地下の印象はそれに尽きた。視界はほとんどゼロで、上を見上げれば、地下への入り口の四角形が太陽になっている。また、地下は天井が低く、高さが二メートル程度しかないため、ひどく圧迫感を覚えた。
「どうやら、地下道が続いてるみたいだな……。部屋はこの先か」
守屋さんが携帯していたペンライトで、地下に明かりを提供してくれた。地面が円形にぼんやりと照らし出される。
監禁部屋へと向かう地下道は、真っ直ぐ続いているらしかった。
互いの横に並んで歩けるほどの広さはないので、しぜん隊列を組んで一列で進むことになる。守屋さんが先頭、その次に霧乃、僕、伊勢崎さんの順で、奥を目指す。ペンライトがあるとはいえ、ほとんど何も見えないので、僕たちは互いに手をつないで進んだ。右手には霧乃の手、左手には伊勢崎さんの手。心なしか、霧乃の手の方が力が篭もっている気がした。
こつ、こつ、こつ……とコンクリートの地面を踏む四人分の足音が、壁に反響して聞こえる。閉ざされた地下道ではあるが、空気はたいして外と変わらない気がした。恐らく、換気口が無数に空けられているのだろう。
霧乃の手に引かれ、伊勢崎さんの手を引いて進む。
どのくらい進んだか、先頭の守屋さんが「扉だ……」と呟いて、歩みを止めた。霧乃の肩越しにペンライトの照らす先を覗いてみれば、そこには確かに扉が立ちはだかっていた。錆び付いた鉄製の扉に、無骨なドアノブが付いている。まるで監獄の入り口のようだった。
「多分、この扉の先が監禁部屋だ。何が待っているのか知らんが、中にはきっと何かがあるんだろう」
守屋さんが僕たちを振り返る。
「だが、気を付けろよ。犯人――御代川姫子が招待したってことは、何か妙な仕掛けがあるかも知れん」
「こんな狭い地下室だから、大がかりな仕掛けはないと思うけど……」
霧乃が言う。
「毒針くらいはあるかも知れないから。みんな、不用意に壁に手を触れちゃ駄目だよ。それから守屋さん、ノブを回す役は危険だから、ぼくが代わるよ。ここに来ようって言ったのは、ぼくだからね」
そう言って、霧乃は半ば無理やり守屋さんと位置を交代してしまった。その勇気に、僕は少し感心する。どうだろう。もし僕が霧乃の立場に置かれていたとして、自ら危険な役を請け負うだけの勇気は、あるだろうか。
そんなことを考えている間に、霧乃はノブに触れ、そしてゆっくりと回した。鍵は掛かっていない。ノブはすんなりと回り、鉄扉が開かれる。
霧乃は鉄扉を完全に開け放つと、「中に入ろうよ」と僕たちを促した。
その部屋の中は、思ったよりも広かった。
高さがないのは地下道と同じだが、部屋の入り口から寝室までの狭い通路を経ると、奥は広々とした空間が広がっていた。ちょうど、僕たちの客室と同じような造り・広さだ。ただし、蛍光灯が切れているため、中は真っ暗だったが。
「お風呂やトイレも、一緒にあるみたい」
霧乃が入り口付近にあった扉を開いて、中を確認している。きっと、その中がバスルームになっているのだろう。僕たちの客室とまるで一緒だ。
違うのは、外の風景を楽しめるガラス戸や窓が皆無であること。それから、部屋がコンクリートの打ちっ放しであること。床も壁も天井も、冷たいコンクリートが剥き出しだった。まるで牢屋ですね、と伊勢崎さんが小さな声で呟いた。
この部屋で、熊切千早は何年という時を過ごしたのだろうか。
「それより、ここに一体何があるってんだよ」
守屋さんがペンライトを振り回している。
「あの紙によると、ここに何かがあるんだろ。犯人か、それに近い何かが」
そう言って、守屋さんはペンライトを片手に部屋の奥へと進んでいった。客室と造りが同じなら、多分あそこがリビング兼寝室なんだろう。薄明かりに、ベッドが照らされて見える。
ペンライトが、そのベッドを掠めたときだった。
そのベッドの上に一瞬、人の身体のようなものが映った……気がした。
「守屋さん。今、そのベッドの上に――」
僕が全てを言う必要はなかった。守屋さんはその場で固まったように、動けないでいたからだ。多分、彼はそこにある何かを発見したのだろう。
ゆっくりと、ペンライトがその人間の身体を映し出す。
「あったぜ……。これ」
押し殺した声に、バスルームにいた霧乃や、伊勢崎さんも守屋さんに注目する。
暗闇の中、ペンライトの明かりが映し出すものは――、
「もう、死んでる……」
御代川姫子の、青白い顔だった。
霧乃が弾かれたように、寝室のベッドの元へと駆け寄っていく。彼女は臆することなく、その身体にぺたぺたと触ると、
「まだ温かいね。死んでから、まだそれほど時間が経ってないよ。やっぱり、御代川さんは昨日の夜の時点では生きていたんだ」
「じゃあ、これは……」と僕。「どうして、今は死んでるんだよ」
「多分、自殺だな」
霧乃の代わりに、守屋さんが答えた。見ろよ、と言って、ペンライトでベッド脇のサイドボードを照らしている。そこには、注射針らしきものと、手書きの文字でびっしり埋め尽くされたコピー用紙が数枚置かれていた。
遺書……なのだろうか。
ふっ、と誰かが鼻で笑うような声がする。
笑いを抑えているような、どこか状況を愉しんでいるような。
それは、東大寺霧乃だった。
「これで本当に、犯人がはっきりしたってわけだね」
彼女はそう言って、口もとに笑みを含んだ。
その犯人――御代川姫子の遺書には、こう書かれていた。