第四章―13
炎に包まれた扉。それを阻むように置かれた、同じく炎に包まれた無数の荷物。あれをどかさなければ、廊下には出られない。炎の中、二人で手分けしてどかしても、仲良く焼死が関の山だろう。かといってここで黙っていれば、黒煙に巻かれて死ぬ。
どうすればいい。
炎に包まれた扉=扉の前の火だるまの荷物=どかす=死亡……。
この図式のどこを、破ればいいというんだ。
いや、違う。
図式を破るんじゃなくて、もっとこう……前提条件を覆すような何かを……。僕たちはどこかで、正解へと続いている隠された分岐道を、見過ごしてしまったんじゃないのか。
そして、ふと思いつく。
この状況を打開しうる方法。二人で助かりうる方法。
それは危険な方法だ。しかし――。
他に、打開策はなかった。
逡巡一秒、僕はそれが正解へと至る道だと、決めつけた。
「霧乃、来い!」
僕の隣で困ったようにしている霧乃の細腕を、無理やり掴む。
引っ張って、走る。
部屋のドアがある方向とは、真逆の方向へ。
「図式が崩せないなら、問題設定を崩せばいいんだ!」
何故なら僕たちは、それを『問題』として認識した時点で、犯人の罠に填っているのだから。
『問題』に対する解法が何一つとして見出せないとき、僕たちはどうするべきか。
簡単だ。『問題』の方をねじ曲げればいい。
僕は寝室のカーテンを引き開けると、ガラス戸を開け放った。
そこにあるのは、バルコニー。眼下では、黒々と海が波をうねらせている。
「ゆぅくん……まさか」
「まさかだよ」
霧乃が息を呑むのが分かる。目を丸くしているのだろうか。この太平楽を驚かせられたなら、それだけで満足な気もする。
だが、僕たちはそれだけでは終わらない。
「霧乃、思いっきり息吸え!」
指示すると共に、自分も肺に酸素をありったけ溜め込む。胸が膨らむのが分かる。いささか焦げ臭い空気だったのが残念だ。
眼下に望む海原。
獲物が落ちてくるのを待ち構えているような、黒々としたうねり。
見下ろして、そのあまりの遠さに一瞬の躊躇。足が竦む。……が。
他に解法はなかった。型破りだろうと何だろうと、自分で出した答えなら自信を持つしかない。
「行くぞ!」
僕は叫び、そして夜空へ向かって駆け出した。
足で踏み込んで、柵を飛び越えて、
そして一息に――
僕たちは、宙に身体を手放した。
重力から解放される、一瞬の浮遊感。
風を切る音。
空気を裂いて前進する感覚。
しかし、それはたった一瞬のことで――。
次の瞬間には、空中での失速。
ずんと重たくなる身体。
圧倒的すぎる重力の支配。
自分がただの「物体」に過ぎないと実感した一瞬の間に、目の前には加速度的に海が迫っていた。
黒い海原。粘りけを感じさせる波の流動。僕たちを飲み込まんと、ぽっかり口を空ける海面。
落ちる、と思ったその瞬間、滅茶苦茶な衝撃が全身を貫いていた。
上下左右、全方位から散弾を浴びせられるような感覚。痛みを知覚する以前に、それは衝撃として僕の身体に叩きつけられていた。
耳元で唸っていた風が止み、一切の音が消える。ごぼごぼごぼ……と口から酸素が漏れ出ていく音だけが聞こえる。
どこまで沈んだか、水のクッションが僕の身体を受け止めた。
目を開けても、そこは暗黒の世界。
上下左右がどこにあるのか、分からない。宇宙空間に放り出されたような、不安定な感覚。
ふっ、と身体が浮かび上がる。僕はその方向を上だと判断して、体勢を立て直す。水中で平泳ぎのように水を掻き、酸素を求める。
――出た。
ようやく、海面から顔を出す。その場にあったありったけの酸素を取り込まんとばかりに空気を吸う、吸う。空気と一緒に海水が入ってきて、噎せた。
そういえば、霧乃はどこにいる?
海面から出た首から上を振って、その姿を探す。……と、いた。僕の近くで海面から顔を出し、盛大に咳き込んでいる。その光景に、ひとまず胸を撫で下ろした。
しかし、まだ安心は出来ない。
伊勢崎さんによると、ここの海は流れが速く、あっという間に沖へ持って行かれてしまうんだとか。事実、古橋さんの身体は沖へと流されたまま、消えてしまった。あそこまで流されたら、泳ぎの出来ない人はまず助からない。そして、古橋さんは泳げなかった――。
あの時の光景を脳裏に浮かべながら、島の断崖絶壁になっている部分をどうにか掴む。岸壁だ。ここに手を突いてさえいれば、この岸壁沿いに島の砂浜まで戻ることが出来る。海面に浮く霧乃の腕も掴んで、岸壁へと引き寄せた。
「どうにか、助かったな……」
歓喜の声を上げるほどの元気もないので、呟くように言う。その言葉に霧乃も、小さくではあったが、はっきりと頷いた。
頭をもたげて上を見れば、屋敷の僕たちの部屋が火が噴いている。バルコニーまで焼き尽くすつもりらしい。あの分じゃ、部屋にあった荷物類は何も残らないだろう。
「とにかく、屋敷に戻ろう」
霧乃を促して、岸壁に手を突きながら夜の海を泳ぐ。
きっともう、これ以上のことは起こらない――。
何故だか分からないが、僕の中にそんな確信があった。