第四章―12
「消火は諦めて、とにかく一刻も早くこの部屋を出よう」
霧乃が押し殺したような静かな声で言った。しかし、炎に照らされる横顔には焦りが浮かんでいる。
「でも、部屋を出るったって……」
僕は言葉を詰まらせた。
部屋の入り口はもう、炎で塞がれてしまっているのだ。いや、それだけならまだ、捨て身で走り抜ければ、火傷くらいで外に出られる可能性もあるだろう。
しかし、この部屋にはこともあろうか、バリケードが作ってあるのだ。
外側から内側に入れないという事実はすなわち、内側からも容易に外側には出られないという事実を意味する。ドアの前には、バリケード用の荷物が山となって積み上げられているのだ。そして今は、そのすべてが炎に包まれている――。
すなわち、火だるまと化した荷物の山を、ドアの前から退けない限りは、僕たちは部屋の外に出られないのだ。
しかし、燃えている荷物を悠長に移動させている暇なんかない。そんなことしていたら、その間に僕たちが焼き殺されてしまう。少なくとも、ただの火傷じゃ済まない。
どうする。
焦燥が身を刻む。
「ねえ、ゆぅくん」
霧乃が、声を沈めて僕に呼び掛けてきた。その瞳は、じっと入り口の炎に据えられている。
「なんだよ」
「ゆぅくんは、命に価値ってものを認める?」
「は?」
意味の分からない質問だった。思わず頓狂な声を上げて、霧乃の横顔を見返してしまう。しかし、彼女は真剣な眼差しで炎を睨んでいた。
「じゃあ、質問を変えるよ。ゆぅくんは、一つの命より二つの命の方が、価値があると思う?」
「何言ってるんだよ」
「いいから、答えて」
霧乃の大人びた口調に僕は戸惑いを覚え、そして仕方なく「当たり前だろ」と答えた。一つよりは二つ。少ないより多い方がいいのは、命だって同じだ。
――と、そこで僕は何か嫌な予感が、脳裏を掠めるのを感じた。
奥歯で砂を噛んだような、あのざらついた感覚。
東大寺霧乃は、真剣だった。
「そっか。だったら命が一つもないよりは、一つでもあった方がいいってことだよね」
「待てよ……お前、何を」
「ぼくがドアの前の荷物を全部どかす。そして、力が残っていればドアも開ける。ドアが開いたら、ゆぅくんは炎の中を走り抜けて、廊下に逃げて」
霧乃の考えていたことは、僕の嫌な予感そのものだった。
「そんな……そんなこと言って、じゃあ霧乃はどうするんだよ! あの炎の中で荷物をどかしてたりしたら、まず助からない……」
「ゆぅくん、言ったでしょ。一つの命より二つの命の方が価値があるって。一つよりは二つ。ゼロよりは一つ。同じだよ」
「駄目だ! そんなこと認めない……認めるもんかよ」
こともあろうか、僕に霧乃を見殺しにして逃げろ、だと? いや、それどころじゃなく、自分が助かるために霧乃を道具として使え、だと?
出来ない。
いくら死ぬのが怖くたって、それは出来ない。
僕が持つ最低限のプライドが、その最悪の選択を拒絶する。
「ゆぅくん」
霧乃はあくまで冷静に、言葉を紡いだ。
「今日の御代川さんの話、覚えてる? この屋敷は『死者の館』そのものだっていう、あれ」
「覚えてたら、どうだって言うんだ」
僕は記憶の糸を辿り、御代川さんの声を思い出す。
――でも、いよいよもって『死者の館』ね。この屋敷。
――五年間孤島に一人で暮らしていた小間使い。ドイツ留学で殺人をして、日本に追い返された異端児。無人島生活を趣味とする物好き。部屋に閉じ篭もって外部と接触しない引き篭もり。それに、本がお友達の素敵な読書中毒さん。みんながみんな、まともに他者とつながりのない人間ばかり……。そういう意味でなら、この屋敷はまさに生きながら死んでいる『死者』たちの集う館――『死者の館』と称して差し支えないんじゃないかしら?
覚えている。
だが、それが何だって言うんだ。
「ぼくはね、『死者』なんだよ。ゆぅくん。生きながら死んでいる、『死者』。生きていることも、死んでいることも、たいした変わりはない。だから大丈夫」
「そんな馬鹿な――」
認めない。認めてたまるもんかと、心が震える。
そんな中で思い出す、ひとつの声。
――ねぇ、ゆぅくん。ぼく時々思うんだけどさ、醒めない夢の中で生きることと、死んでることって、一体何が違うんだろうね。
――もしかすると、ぼくは死ぬことをあまり怖れてないのかも知れない。
「認めないっ!」
僕はその全てを振り払うように叫んだ。そうでもしなければ、僕は死の恐怖に何も言えなくなってしまいそうだった。
「生きるのも死ぬのも同じなんて、そんな馬鹿なことあるわけないだろ! なにが『死者』だ! 認めない! 僕は絶対に、認めない!」
「ゆぅくん……」
僕の剣幕に毒気を抜かれたか、霧乃が困惑したように眉を曇らせて僕を見やる。
炎に揺れるあどけない横顔。
どうしようもなく読書中毒で、人見知りで甘ったれで呑気屋で、そして僕のたった一人だけの味方。この狂った屋敷の中で、何度も何度も僕を励ましてくれた、大切な女の子だ。
だから絶対に、認めない。
霧乃を道具として使って一人だけ生き延びるなんて、不可能だ。
だが――。
「くそ……」
どうする。どうやって、この状況を打開すればいいんだ。