第四章―11
――夢か、現実か。
ひどく身体が重たかった。全身に鉛を詰められたかのように、腕に、脚に、倦怠感がある。頭が鈍重で思考が回らず、意識がはっきりしない。
たとえて言うなら、無理やり夢から現実に引き戻されたような感じだった。
神経がまだ夢の世界に根を張っているせいで、頭がぼんやりとしている。風邪を引いたときのような世界が曖昧な感覚と、頭の鈍痛……。
――僕が異変に気付いたのは、この時だった。
違う。
僕はどうして無理やり現実に引き戻されたんだ。気怠い覚醒を、余儀なくさせられたんだ。
それは、臭いだった。
鼻孔をちくちくと刺し、剥き出しの眼球を刺激するような、不穏な空気。それが焦げ臭さだと気付くのに、時間は掛からなかった。
――焦げ臭さ?
そう思うのと同時に、覚醒しきらない頭をもたげ、ベッドの上で半身を起こす。目やにのついた目元を手の甲で擦り、そして見た。
客室ドアの入り口、バリケードとして置いた荷物が、燃えていた。
一瞬の呆然。
それから、脊髄を金属バットでぶん殴られたような衝撃。目の奥で、火花が弾けた。
「かじ――火事だっ!」
そう叫んで、ベッドから跳ね起きる。全身の筋肉が一瞬にして覚醒する。が、
跳ね起きて……何をすればいい?
混乱する。自分が混乱しているという事実を認識して、さらに混乱する。僕はとにかく霧乃だと思い立って、隣のベッドのふんわりパジャマ姿に視線を馳せた。霧乃はさっき僕の立てた大声で目覚めたらしく、ベッドで上体を起こしていた。部屋の入り口で燃えている荷物を見て、目を丸くしている。
「ゆぅくん……これ」
「火事なんだ」
僕は簡潔に一言で、今の状況を示した。紅蓮の炎を背景に、霧乃がふっと表情を曇らせる。部屋の中で、四つの瞳が不安に揺れた。
火事――。もちろん、自然なものであるわけがない。
誰かが火をつけたのだ。
屋敷の中にいる殺人犯が、この部屋の前までやって来て、炎を放ったのだ。
だが、今はそんなことどうだって良かった。どうして犯人が炎を放ったのかも、少なくとも今の問題じゃない。
僕は霧乃を見つめた。
「とにかく、早く火を消そう。炎がまだ小さいうちに」
炎の背景に縁取られた霧乃は、少し躊躇したように見えた。しかし他に解決策が浮かばなかったのか、小さく頷く。
僕は部屋の入り口で燃える炎を睨んで、とにかく水だと思った。炎はすでに僕のボストンバッグを燃料にして燃え広がっている。ここまで大きくては、踏んだり叩いたりで消火できるレベルではない。
「バスルームに行こう。あそこにシャワーがある」
僕は瞬時に思いついた案を口にして、半ば無理やり霧乃の手を取った。握った瞬間、その腕が思ったより遥かに細かったことに、ぎくりとする。僕はその腕を引っ張って、バスルームに走った。
この部屋はバスルームと寝室があるだけの、ビジネスホテルの一室のような造りだ。部屋の入り口から寝室までは廊下のように幅が細くなっていて、その廊下の横の空間にバスルームが収まっている。
僕はバスルームの扉を開くと、中に駆け込んだ。洗面台、トイレットの向こうに浴槽がある。シャワーはそこだ。僕はシャワーの首をひっ掴むと、カランを最大にして水を噴射した。ヘッドが変な方向を向いていたせいで僕と霧乃はずぶ濡れになってしまったが、そんなことを気にしている場合ではない。シャワーを引っ張って部屋の入り口まで――、
「届かない……」
冷静に考えてみれば当たり前だった。シャワーがバスルームを貫通して外にまで伸びる道理はない。長くて邪魔なだけだ。
「ゆぅくん、桶!」
絶望していた僕に、霧乃が声を掛けてくる。彼女は洗面台のところにあったプラスチックの桶を掴んで、僕に差し出していた。ここに水を溜めて、部屋のドアの炎まで運ぼうというのだ。効率が悪いが仕方ない。僕はシャワーの水を桶の中にぶち撒けた。水が溜まるまでの時間がもどかしい。炎が刻一刻と大きくなって、この部屋を飲み込んでしまう妄想に取り憑かれる。
ようやく桶に水が溜まった。霧乃がバスルームの外へ水を撒く。炎は消えたか、消えてくれたか……?
しかし――、
「駄目だよ、ゆぅくん!」
空の桶を片手にバスルームへ戻ってきた霧乃は、動揺を隠していなかった。瞳が揺れている。呑気極まるこいつがここまで動揺するなんて……と僕はむしろそっちの方にショックを覚えた。
「炎がどんどん大きくなってる! もう消せないよ!」
早く外に出よう! そう言って今度は霧乃が僕の腕を掴み、バスルームから外に飛び出す。 その一瞬、僕たちはまさに炎に包まれた。
薄い高熱の膜をくぐり抜けるような感覚に近かったが、それは間違いなく炎の中に飛び込んだのだった。そのまま二人して、なだれるように寝室の方へと倒れ込む。振り向くと、炎はとうに部屋の入り口を焼き尽くし、僕たちが出てきたばかりのバスルームの扉を焼いていた。
もしさっき、シャワーのヘッドが変な方向を向いていなくて、僕たちが水を浴びなかったら――。
きっと、繊維のパジャマに炎が燃え移り、今頃二人とも火だるまだっただろう。
僕たちの背後に近寄っていた死の危険に、しかし、今は背筋を震わせている場合ではない。
どうする。どうすればいいんだ。