第四章―06
「あのね、ゆぅくん。ひとつ言っておくけど、仮に熊切千早ってのがいたとしても、その人が鍵の掛かっている部屋に潜んでいる可能性はないよ」
霧乃が僕の思考を読んでいるかのように言った。
「え、なんで?」
「伊勢崎さんが言ってたんだけど、霧山朽葉がこの屋敷を買ったときに、全部屋の鍵を一新したんだって。つまり、ここの客室を開けられる鍵は正真正銘、この世に二つだけなんだよ」
「二つだけ?」
「そう。この客室の正規の鍵と、それからこの屋敷のあらゆる部屋の鍵を開けられるマスターキーの二つだけ。でも、ぼくたちが使っている部屋の鍵以外の鍵は、マスターキーも含めて全部大広間にあったでしょ?」
「うん。確かにそうだね……」
僕たちが使用している部屋の鍵以外の鍵は、マスターキーも含めて全てが大広間の鍵置き場にあった。そして、強固な防衛システムに守られていたのだ。
鍵を透明ボックスから取り出すために必要な暗証番号は、霧山朽葉しか知らなかった。
そして、その霧山朽葉は一番最初に殺されてしまっているのだ。
「そういう理由もあって、ぼくは第三者の可能性なんて有り得ないと思っているんだよ。だって、隠れられる場所がないんだもの」
「でも、第三者じゃなかったら、僕たちの中――守屋さんか、伊勢崎さんが犯人ってことになっちゃうじゃないか。でも、その二人には、犯行は不可能だったんだ」
「そうなんだよねぇ……」
霧乃は再び、黙り込んでしまった。
回廊をひたすら歩き続け、とうとう僕たちの部屋の前までやって来る。ここまで、誰かの気配なんて微塵も感じることはなかった。
「まさか、この中に誰かがいるなんてことはないだろうけど……」
中に入れる数少ない部屋ではあるので、一応のこと調べておくことにする。
僕は一度ノブに手を掛けて、ドアに鍵が掛かっていることを確かめてから、持っていた鍵を使って扉を開けた。入り口のパネルを操作して照明を点け、霧乃と一緒に中に入る。
部屋の中は当然ながら、夕食前にここを出たときと変わっていなかった。床にまで散乱した霧乃の愛読書たち、ベッドの上の僕の荷物、部屋の片隅に放り置かれている古びた人形……。そういえばこの部屋には、熊切千早が昔この屋敷にいたことを示す品が、色々と収納されていたんだっけ。
名前しか知らない少女の姿を頭に淡く描きながら、バスルームを覗いてみたりする。当然、そんなところに誰かが隠れているはずもなく……、
「ゆぅくん」
僕が風呂場のカーテンを開けているとき、バスルームの外で霧乃が僕を呼んだ。なに? と答えて、風呂場の外に出る。
霧乃が文庫本を片手に、神妙な顔で立っていた。
「なにさ。どうかしたの?」
「この部屋、おかしいよ」
霧乃は手に持った文庫本から、僕へと視線を転じる。
「おかしいって、何が」
「デスクの上に伏せてあった文庫本のページ数が、変わってるんだよ」
「……どういうことだ」
僕は不穏な気配に、息を潜めた。
「晩ご飯の前に文庫を途中まで読んだから、そのページでデスクの上に伏せてあったんだ。それなのに何故か、いま見たらページ数が変わってるんだよ」
「そんな馬鹿な……。記憶違いとか」
「記憶違いなわけがないよ。ゆぅくんなら、ぼくの本に対する愛着は知ってるはずでしょ」
「……………………」
僕は何も言えなくなってしまった。よもやこの読書魔の霧乃が、文庫をどこまで読み進めたかを忘れるはずがないのだ。そんなこと、僕だって充分に承知している。
「でも、だったら……」
「そうだよ」霧乃は瞳に真面目な色を灯して僕を見上げ、「夕食から今までの間に、誰かがこの部屋に入ったんだ。そして何かの拍子に本を落としてしまい、元のページが分からないから適当に伏せて置いた……」
全身を鳥肌が蹂躙した。部屋の空気が急に、不吉なものを含んでいるように感じられ、息が苦しくなる。
夕食から今までの間に、誰かがこの部屋に入った?
馬鹿な――。
そんなこと、あるはずがない。
だって、
「この部屋の鍵は、僕がずっと肌身離さず持っていたんだぞ。それにマスターキーだって、大広間のボックスの中に確かにあった。鍵の掛かったこの部屋に、僕たち以外の誰かが入れるわけがないじゃないか!」
「でも、入られている。この事実は絶対だよ」
霧乃は淡々と言った。持っていた文庫本をデスクに戻して、窓辺に歩み寄る。
クリーム色のカーテンを脇に寄せると、大きなガラス戸が現れた。黒い夜の風景の中に、僕たちの姿が薄く映っている。僕の顔は動揺に引きつっているようだった。
霧乃がガラス戸に触れながら、冷静に口を開く。
「ドア以外からこの部屋に入る方法となると、このガラス戸しかないけど……。ちゃんと、鍵が掛かってるね。それにここは二階だから、そう簡単に侵入できるはずもないよ」
「でも、だったら犯人はどうやって――」
この部屋に侵入したんだ。そう、言いかけたときだった。
「おい! 東大寺さん! 小坂くん!」
廊下の方から、守屋さんの怒鳴り声が聞こえてきた。どたどたと足音を踏み鳴らして、彼がこちらに向かって走ってくる音がする。
僕は霧乃と顔を見合わせて、部屋の扉を開け、回廊に出た。
僕たちの部屋の前を行き過ぎようとしていた守屋さんは、僕たちの姿を認めると、「大変なんだ!」と息も切れ切れに叫んだ。動揺に歪んだ彼の表情に、これはただ事じゃないと直感的に悟る。
事実、彼の口から飛び出したのは、僕を驚愕させるに足る事柄だった。
「御代川姫子の死体が、なくなってるんだ!」