第四章―05
中央バルコニーには、屋敷を覆うように降り込める雨の音と、伊勢崎さんの啜り泣く声だけが聞こえていた。
古橋さんの姿が見えなくなってからも、守屋さんはペンライトを振っていたが、それもついに諦めたようだ。沈痛な面持ちで、ただ唇を噛んでいる。
残されたのは、四人。
僕と霧乃と、守屋さんと伊勢崎さん。この屋敷にいるのは、それだけだった。
「ねえ、ゆぅくん。今は落ち込んでる場合じゃないよ」
不意に、霧乃が僕の服の裾を引っ張ってきた。なに、と振り向くと、彼女は瞳をぎらぎらと光らせていた。守屋さんと伊勢崎さんも、霧乃に注目する。
「僕たちが悲鳴を聞いてから今まで、二、三分しか経ってないんだよ。もし犯人が直接、古橋さんをここから突き落としたんだとしたら……」
「そうか……」と僕。「犯人はまだ、この近くにいるかも知れない、ってことか」
霧乃は静かに頷いた。
――あれ? でも、それは変じゃないか?
僕たちはさっき古橋さんの悲鳴を聞いて、一階から二階へ四人全員で上がってきたのだ。とすると、僕たち四人の中には犯人はいない。そういうことになってしまうじゃないか。
この中に犯人がいる。霧乃はさっき、そう宣言したのに……。
やっぱり、いるのか? この屋敷には、僕たち以外の誰かが。
ちらと横目で霧乃を見やると、彼女は怪訝な顔をして俯いていた。こんなことは有り得ない、とそう言いたげに。
「良し。だったら、二手に分かれて二階を調べよう」
守屋さんが言った。
「この回廊は環状になってるんだ。左回りと右回りに分かれれば、途中で必ずぶつかることになる。それでいいか?」
守屋さんの提案に、全員が神妙に頷く。守屋さんと伊勢崎さんがペア、僕と霧乃がペアになって、それぞれ左回りと右回りで回廊を探索していくことになった。
中央バルコニーの扉を開き、屋敷の中へと戻る。
守屋さんが伊勢崎さんを先導するように右回りの方向へと消えた後、僕も霧乃に目配せした。
「よし。じゃあ、僕たちも行こうか」
「……ん」
霧乃は曖昧に頷きを返すだけだった。視線が俯きがちで、唇を軽く噛んでいる。
「何か考え事でも?」
「うん……。歩きながらにしようよ」
霧乃に促されて、回廊を左回りに歩き出す。遠近法の見本みたいに、両側の黒塗りの壁と床がどこまでも伸びている。右手の壁は談話・遊戯室の壁で、左手の壁は客室の壁だ。左手には客室に繋がる無数のドアが立ち並んでいたが、客室ドアの鍵のほとんどは大広間のボックスの中に閉じ篭められているので、開けることは出来ない。
「ねえ、ゆぅくん。ぼくたちが悲鳴を聞いてから、あの二人――守屋さんと伊勢崎さんに出会すまで、どのくらいだったかな」
「さぁ……だいたい、三十秒かそこらじゃない? 気が動転してたから正確じゃないかも知れないけど」
「うん……。たとえば、犯人は二階の回廊で古橋さんを襲い、殴るか何かして気絶させる。古橋さんが悲鳴を上げたのは多分、その時だね。で、その後、中央バルコニーに出て、気を失った古橋さんを海に突き落とし、大急ぎで一階に戻る。そして、僕たちと一緒にまた二階に上がる……守屋さんか伊勢崎さんが犯人だとしたら、それ以外に方法が考えられないけど……」
「無理だな」と僕は否定した。「いくらなんでも時間が掛かりすぎる。三十秒じゃ不可能だよ」
「そうだよね……」
「だから、やっぱり僕たち以外の誰かが、この屋敷には潜んでいたんだ。その何者かは、古橋さんを海に突き落として、僕たちが来る前に二階のどこかに隠れた。それなら三十秒でも何とかなる」
「んー……。でも、ぼくたち以外の誰かっていうのはねぇ……どうしても、しっくりこないんだよ」
「しっくりこないと言われても……だって、他に可能性がないじゃないか」
僕がそう言っても、霧乃は「むー」だの「んー」だのと曖昧に唸るだけだった。
でも、そうなのだ。この犯行は、僕や霧乃にはもちろん、守屋さん、伊勢崎さんにも出来なかった。すなわち、全員にアリバイあり。だから、第三者という概念を想定しなければ、これは不可能犯罪ということになってしまう。
きっと、どこかに潜んでいるのだ。この二階のどこかに、殺人狂が。
「しかし、開けられない扉が多いんだな……」
左手にずらずらと立ち並ぶ客室の扉を眺めて、そんな呟きが洩れる。
二階には客室がシングル・ツイン合わせて十五部屋ほどあるが、そのうちドアを開けられるのは僕たちの使っている四部屋だけだ。僕と霧乃の部屋、守屋さんの部屋、御代川さんの部屋、それに古橋さんの部屋……いや、古橋さんの部屋の鍵は、彼女と一緒に海の中だろう。とすると、僕たちが中に入れる部屋はたった三部屋だけになってしまう。
扉を開けられない部屋が、実に十四部屋。
その中に誰かが隠れているんじゃないかと、どうしても疑ってしまう。