第四章―04
どこか遠くから、人間の悲鳴のようなものが聞こえてきた……気がした。
雨の音に紛れてはっきりとはしないが、何が異音が混ざったような……。
一瞬だけだったから、耳を澄ませても、もう何も聞こえない。
「おい、霧乃……。今、何か聞こえなかった?」
尋ねると、霧乃は眉をひそめて大広間の天井を見上げた。
「二階の方……かな。確かに、何か悲鳴みたいなものが……」
その次の瞬間、霧乃は椅子を蹴って飛び出していた。迷いなく大広間の扉を開け放って、外へ走り出ていく。
待てよ! と叫びながら、僕もその華奢な背中を追いかけた。
大広間から外に出て、回廊を突き進んでいく。誰かの悲鳴はもう聞こえない。一体何があったというのか。まとわりついてくる不吉な想像を振り払う。
前を走る霧乃は、意外に速い。僕も足をもつれさせながら、その小さな背中を追う、追う。
一階から二階へ上がる階段の手前で、守屋さんと伊勢崎さんに出会した。
「守屋さん、伊勢崎さん! 今、二階で悲鳴がして!」
叫びながら、しかし足を止めることはない。伊勢崎さんが恐怖に顔を引きつらせているのが見えた。
俺たちも行く!
守屋さんがそう叫んで、伊勢崎さんの手を引っ張って走り出す。伊勢崎さんは足が竦んでいるのか、半ば守屋さんに引き摺られるような形だった。
僕の前には東大寺霧乃。後ろには守屋さんと伊勢崎さん。
待て……。
古橋さんは、古橋さんは一体どこにいるんだ!
「くそっ――」
まさか、という想像を振り払って、ただ走る、走る。
階段を駆け上がり、二階の回廊に出る。伸びる廊下、立ち並ぶ無数の客室ドア――。
どこだ、悲鳴はどこから聞こえた。
「中央バルコニーだ!」
背後から、守屋さんの声が飛んできた。
「何かが海に落ちる音が聞こえたんだ! 多分、中央バルコニーから――」
そう言われるや否や、霧乃が回廊を駆け出していた。
思い出す。
中央バルコニーの眼下に広がる海、砕ける波飛沫、獲物を待ちかまえる海原――。
まさか、あそこから誰かが突き落とされたというのか?
走る。
息が上がり、心臓が絞め付けられるように痛む。足がもつれ、倒れそうになる。
ようやく中央バルコニーへと続く観音扉の前に到着する。
その扉を見て、先に到着した霧乃が一瞬、たじろいだ。
僕も見る。
大きな観音扉。そこには、まるで僕たちを嘲笑うかのように――。
『第三の犠牲者』
定規を使って書かれた角張った文字が、三番目の凶行を示していた。
それでも、霧乃がたじろいだのは、ほんの一瞬のことだった。
貼り付けられた紙を一瞥し、観音扉を開け放って外へ出ていく。僕もその動作に続いた。
外は雨が降っていた。もっとも、中央バルコニーの上には庇があるので、僕たちが濡れることはない。バルコニーには僕たち以外誰もいなかった。
霧乃が柵に両手を突き、身体を乗り出して眼下の海を見下ろす。雨のせいもあって視界が悪く、よく見えない。黒々とした波がうねっていることだけが分かる。
「ライトだ」
と、後からやって来た守屋さんが、ペンライトで海を照らしてくれた。伊勢崎さんもバルコニーに出てきて、地面に膝を突いている。
黒い海に、ライトが照らされた部分だけが、ぼんやりと黄色く光る。守屋さんはライトを動かしては、そこにあるはずの何かを探した。
そして、ついに――。
「古橋さんだ!」
黒々とした波間に、人の姿があるのを発見した。
長い黒髪、白い頬。それは見間違えようもなく古橋さんの姿だった。しかし彼女は意識を失っているように目を瞑って、まったく反応を示さない。波間に揺られて、だんだん沖へと引き摺られていく……。
「おいっ! おいっ! 気付けよ!」
守屋さんが、海に向かって怒声を飛ばす。しかし、海面に呑まれた古橋さんは何の反応も示さなかった。
「くそ――。意識を失っているのか、既に事切れてるのか」
「どっちにしろ、あのままじゃ」僕は言った。「沖に流されて、助からないですよ……」
守屋さんは唇を噛む。彼は諦めずに海に向かって叫び続けたが、それはもはや何の意味も為さなかった。
背後で、嗚咽するような声が聞こえる。
伊勢崎さんが地面にうずくまって、泣いているようだった。
「どうしようもねぇのか……」
古橋さんの身体は、沖へ、沖へと運ばれていく。
やがて彼女の身体は海中に沈んで、もう何も見えなくなった。