第一章―03
年中無休で引き篭もりの霧乃が、どうしてそんな企画に応募したのか、実のところ僕にはよく分からなかった。霧山朽葉という小説家がそんなに魅力的だったのか、あるいは気分転換のバカンスのつもりだったのか、あるいはただの気まぐれなのか。
ともあれ、引き篭もりで人見知りで甘ったれで読書廃人の霧乃が、理由はさておき外出したいと宣言したのは、大きな一歩だったのかも知れない。だから僕も、彼女のその意志は是非尊重したいと思っていた。……の、だが。
その話から一週間が経った頃、霧乃が急に「やっぱり、行くのやめようかなぁ」と言い出した。理由を尋ねてみれば、
「だって、外に出るの面倒だもん。それに、知らない人と旅行したってつまんないよ」
などと言う。せっかく霧乃の意志が外に向きかけていたのだから、この機会を逃してはならんと僕も説得したが、効果はなし。どうやら霧乃にはまだ、知らない人間のところへ一人で入っていくほどの気概はないらしかった。
だから、仕方なかったのだ。
「じゃあ、僕も一緒に行くから」
半日に及ぶ口論による攻防戦の末、結局僕はその一言を口にしてしまった。行かないよりはマシだ、と考えたのだ。そうすると、霧乃はその一言を待っていたと言わんばかりに、「じゃあ、行ってみようかなぁ」と頬を弛めた。あの時の霧乃の勝ち誇ったような顔は、おもちゃ売場で親をねだり落としたときの幼児の表情に、相通ずるものがあると思う。
それでもまぁ、これも夏のいい思い出になるさ。
そんな風に、僕はいささか楽観的に物事を捉えていたらしい。
しかしその日のうちに、僕は知ることになる。
霧山朽葉の別荘招待の日程は、まるまる僕の信州旅行の日程と被っていた、ということを。
僕は泣く泣く、信州旅行の方をキャンセルする羽目になったのだった。
きらきらと、輝く飛沫が波間に消えていく。茫漠と広がる海原は、それ自体が大きな鏡のようで、太陽光を反射してあちこちに輝きを灯す。僕はもう遠くなってしまった本州の陸地を見つめて、目を細めた。
八月中旬の太陽は、肌を刺すように熾烈だ。海の上には、都会のようなまとわりついてくる熱気がない分、太陽光線そのものの鋭さを感じる。僕はたちまち噴き出てきた汗を、タオルで拭った。
「でも、天気が良くて良かったね」
僕の隣で日傘を差している霧乃が、額に手をかざして、夏の青空をまぶしそうに見上げる。ワンピースの袖から露出した肌の白さにぞっとして、僕は何となく目を逸らした。
「引き篭もりが、いきなりこんな太陽の下に晒されて、きつくないわけ?」
僕の嫌味は嫌味として伝わらなかったらしく、霧乃は「嵐よりはマシだよ」と答える。
「嵐の孤島、吹雪の山荘。クローズド・サークルなんて、小説の中だけで充分だからね」
「クローズド・サークルねぇ……。それって、正確にはどういう意味なのさ」
霧乃のミステリ談義に付き合わされるとよく聞く単語だが、いまいち意味が分かっていなかった。尋ねると、霧乃は「ゆぅくんは無知だねぇ」と呆れたような横目を寄越す。
「クローズド・サークルってのはミステリの用語で、何らかの事情で外界との往来が断たれた状況のこと。たとえば、嵐で島の外に出られなくなった孤島とか、吹雪に閉じこめられた山荘とか。そこで連続殺人が起こったりすると、閉じこめられた人たちが外に助けを求められない代わり、犯人も外へ逃げられないでしょ? だから、ミステリの題材としてよく使われるんだ」
「なんだそれ。犯人はどうして、そんな状況の下で連続殺人なんか犯すんだよ。そんな容疑者が絞り込まれる状況下で無理しなくたって、街の中をうろついているところを殺せばいいじゃないか」
「そりゃあねぇ、ゆぅくん。クローズド・サークルの方が、読んでいる読者が楽しいからだよ」
「そうなのか……」
どうやら最近の犯人は、読者側の事情も考慮して殺人しないといけないらしい。殺人犯も大変だ。
それはさておき、僕たちがこれから訪れる島というのは、瀬戸内海に浮かぶ天上島という名前の孤島だった。小説家・霧山朽葉の別荘というのは、何でもその孤島に建っているらしい。というか、そもそも、天上島という島そのものが霧山朽葉の所有物なのだ。たかが十七歳が何を思ってそんな島を所有しているのやら、天才小説家の考えることは分からない。
僕たちは地元から瀬戸内海の港まで、新幹線とバスを使ってやって来て、今はその天上島へ向かう船の上だ。天上島には定期船が通っていないため、今日は特別に融通を利かせてもらっているらしい。ここまで来るだけで交通費もばかにならなかったが、費用はすべて霧山朽葉が負担してくれるとの話だった。なかなか気前がいい。
「でも、改めて考えてみると妙だよね」
日傘をくるくる回しながら、霧乃が口を開いた。
「うん?」
「今まで覆面作家で通してきた霧山朽葉が、どうして急にこんな企画を持ち出したのかな。自分の別荘に客を招待して、わざわざ自分の正体を明かすような企画をさ」
「さぁね。売り上げが伸び悩んでるとか、色々あるんでしょ。だから、ここらで話題作りのためにも、ってことで」
「そうかなぁ? そんなことしなくても、充分すぎるくらい売れてると思うけど。『死者の館』の上巻も面白かったよ」
犯人サイドと探偵サイドの二元中継に、いい緊張感があったよねぇ、と霧乃が言う。そんなこと言われたって、僕は読んでないんだから分かりっこないのだが。
「案外、どっきり企画なのかもね」
遠くに霞のように見える島々を眺めて、僕は言った。
「推理小説家なんだから、最後に観客がびっくりするようなトリックを用意してるのかもよ。だったら、この変な企画にも説明がつくでしょ」
「んー。それはあるかもね」
霧乃はそう言い、デッキの手すりから身を乗り出して、船の行く先に目を細めた。ふとした拍子に海に落っこちてしまいそうで、見ていて危なっかしい。
ところで、今日の霧乃の服装は当然ながら、ふるゆわ暖色系パジャマではなかった。清楚なお嬢様にも見える、涼しげなボーダー柄のワンピースだ。彼女が両手で持っている大きめの日傘と一緒に、この旅行のため街中のショッピングモールで購入した物だった。まともな服装をしてさえいれば、霧乃だってかわいらしく映るじゃないか……などと思ったのは、まぁ僕だけの秘密として。
そんな感じで、霧乃と二人で海の様子を眺めていると、別の客がデッキに現れた。