第三章―07
全員の動作が停止していた。『第二の犠牲者』と、そう書かれた紙が、僕たちの時間を止めてしまったようだった。
頭から、血の気が退いていく気配。
全身の血が胸に集中し、心臓が燃え上がるほど熱くなる。どくどくどく、と異常な速さで鼓動を刻み出す。目の焦点がぶれ、紙に書かれた文字が輪郭を失う。
誰もが動けないでいる中、真っ先に行動したのは古橋さんだった。
「まさか――」
僕と守屋さんの脇をすり抜けるような形で、彼女が部屋の奥へと走っていく。その様子に僕もようやく我を取り戻し、壁に手を突いて立ち上がる。肩の痛みはとうに消し飛んでいた。
そして、見る。
部屋の奥に据えられたベッドの上、そこに異常なほど長い黒髪を振り乱して、一人の人間がこちらに背を向けて倒れている。僕たちの呼びかけに応じなかった、応じることの出来なかった彼女。
それは見間違えようもなく、御代川姫子だった。
「おい! 御代川さん! 御代川さん!」
古橋さんが彼女の肩を揺さぶる。しかし、反応はない。
古橋さんは舌打ちして呼びかけを諦めると、今度は彼女の首筋に手を当て、脈を測り始めた。一秒、二秒……。重たい沈黙が流れる。
「おい、どうなんだ……。まさか本当に――?」
守屋さんが床に這いつくばるような姿勢で、古橋さんに問い掛ける。彼女は「黙っててくれ」と静かに忠告して、その後二、三の検査を行った。医学者だけあって、さすがに手慣れているな……などと思って、焦燥を誤魔化す。
やがて僕たちに向き直った彼女は、唇を噛んで首を横に振った。
「死亡している。処置なしだ……」
うう、という悲鳴とも呻き声ともつかないものが、伊勢崎さんの唇から洩れた。他のメンバーはただ俯いて、静かに現状を受け入れようとしていた。
「死因は……死因は何なんだ」
守屋さんが立ち上がり、古橋さんに尋ねた。
「死因については、詳しいことは分からないよ。多分、窒息死の可能性が高いと思うけど……。ただひとつ言えるのは、彼女が何らかの毒物によって殺害されたということだ」
「毒物だと?」
「そうだ。他に外傷がなかったからね」
毒物によって殺害された――。
僕は霧山朽葉の小説『死者の館(上)』を思い浮かべた。霧乃に聞いたところによると、あの小説でも、第二の被害者は毒によって殺されたという……。
見立て殺人。
まさか、本当にそんなことが――?
無意識に引き摺られるようにして、足が部屋の奥へと進む。僕のふらふらした足取りを見て、古橋さんが「落ち着くんだ」と身体を支えてくれた。
古橋さんは恐怖の色に染まった全員の顔を、ぐるっと見回した。
「とにかく、この部屋は危険だ。すぐに出た方がいい」
それから、彼女は僕の視線に気付いたのか、
「いいか、この部屋には鍵が掛かっていたんだ。すなわち、密室だよ。密室で人を毒殺するような手段と言えば……」
「機械仕掛けの殺人」
古橋さんの台詞を、霧乃が引き継いだ。それを肯定するように、古橋さんが頷く。
「この部屋には、どこかに何か仕掛けが隠されているかも知れないんだ。御代川姫子を毒殺したような、危険極まりない仕掛けがね。――とにかく、大広間だ。大広間に戻って、そこでまた話し合うことにしよう」
かち、かち、かち……と時計の針が時を刻む音だけが、広い室内に響いている。「ロ」の字形に配置された長テーブルに付いている僕たちは、皆一様に無言だった。
霧山朽葉に続く、御代川姫子の死――。それが僕たちの沈黙の重さを増しているのは明らかだった。
古橋さんはテーブルに両肘を突き、両手の指を組んで、その上に顎を載せている。その瞳がかすかに揺れていることから、冷静沈着な彼女も精神に動揺を来していることが窺えた。
守屋さんは大股を広げて椅子に座り、難しい顔をして腕を組んでいる。時折僕たちを睨むように動く視線は、まるで犯人探しをしているみたいだ。
伊勢崎さんはさらに酷い。自分の両肩を抱くようにして、蒼白な顔で視線を落としている。唇が怯えるように、わなわなと震えているのが見て取れた。
そんな中にあって、東大寺霧乃だけは呑気だった。時計の秒針を呆然と眺めている。秒針の動きに合わせて、「いち……に……さん……し」などと小声でぶつぶつ呟いているのだが、羊の数でも数えているのだろうか。
そして僕は……。
はっきり言って、まともにものを考えられる余裕はなかった。考えれば考えるほど恐怖に取り憑かれて、気が狂ってしまいそうで。だから、他のメンバーの様子を観察したりして、極力頭を使わないようにしている。そうして漠然と、御代川姫子の死が心に暗い穴を空けていくのを感じていた。
「……正直言って、」
不意に、古橋さんが口を開く。その声に引き付けられるように、一斉に全員が彼女に注目した。きっと誰もが、誰かが口を開いてくれるのを待っていたのだろう。
「盲点、だったな。機械仕掛けでやられるとは。『死者の館』と同じように犯行が重ねられるものとばかり思っていたから、夕食にばかり注意していたんだけれど……。しかし、毒殺するだけなら、何も食べ物に毒を仕込む必要なんてなかったんだ」
「あの……機械仕掛けって、どういうことですか?」
僕は空気を乱すのを承知で、古橋さんに尋ねた。「ああ、それはね」と彼女が説明を始めたとき、「遠隔操作による殺人だよ」という声が隣から飛んできた。
声の主は霧乃だった。
「ゆぅくん。機械仕掛けの殺人ってのは密室トリックの一つで、犯人が現場にいなくても被害者を殺害できるっていうやつなんだ。たとえば、被害者の部屋に毒入りのコーヒーを置いておくとか、部屋に仕掛けられた拳銃が時限式で被害者の頭を打ち抜くとか。被害者が部屋の中から鍵を掛けていれば、それだけで密室殺人になるでしょ?」
「ふぅん。なるほど」
「御代川さんの場合も、多分その方法だ」と古橋さん。「あの密室は、御代川さんが中から鍵を掛けたものと見てまず間違いないだろう。御代川さんは一人で大広間を離れた後、自分の部屋に戻り、ドアに鍵を掛けた。その後、部屋の中に仕掛けられていた何らかの装置によって、死に至らしめられたんだ」
「あの部屋の鍵なら、確かに部屋のデスクの上にあったな」と守屋さん。「御代川姫子が自分でドアに鍵を掛けたって部分については、疑いがなさそうだぜ」
「うん……。つまり、この場合は密室はたいして重要じゃないんだ。問題は、犯人がどうやって御代川姫子を毒殺したか。あの部屋のどこに、そんな装置が仕掛けられていたのか」