第三章―02
夕食は昨日と同じように午後六時から、大広間で執り行われることになっていた。十分前に僕と霧乃が下へ降りていくと、守屋さんと御代川さんは既に席についていた。最後にやって来たのは古橋さんで、彼女は「悪いね。遅れちゃって」と苦笑していた。
霧乃もかなり呑気に構えているが、古橋さんも随分と飄々とした人だ。仮にも友達である霧山朽葉が誰かに殺されたのに……と思ったが、考えてみれば彼女も自称人殺しだった。この人はおよそ死というものに疎いに違いない。
全員がテーブルを囲んだところで、伊勢崎さんが厨房からワゴンを押して現れた。
「みなさん、申し訳ありません。随分と簡単な食事になってしまいましたけど……」
恐縮するように身体を縮ませながら、彼女は僕たちの前に料理を配膳していった。ハヤシライスに、ベーコンとほうれん草のスープ、それからレタスとミニトマトだけのシンプルなシーザーサラダ。グラスにはウーロン茶が注がれていた。
「本当なら、もっとしっかりしたものをお出しする予定だったんですけど。なにぶん、あんなことがあった後なので」
「構わないよ」
古橋さんが答えた。
「こちとら、何だかあまり食欲が湧かなくてね。特に、肉料理なんかは見たくもない気分だったから、かえってありがたいよ」
「恐縮です」
肉料理なんかは見たくもない。その言葉の含むところに、僕は胃袋が絞め付けられて気持ち悪くなった。冗談にもならない。
「でも、私たちも大概気が狂っているわね」
骨の浮く細い腕を組んだ御代川さんが、料理を眺めて言う。
「この中に、もし毒でも入っていたらどうする気? こんな状況で他人の作ったものを食べるなんて、気がふれているとしか思えないわ」
「仕方ないよ。一日くらいならともかく、少なくともあと二日はこの屋敷にいるんだからね。食べなきゃ、こっちの身体が持たない」
「ふん。それで食事に毒が入っていたら笑い話ね。身体が持たないどころの話じゃないわ」
「毒なんて、入ってませんよ」
伊勢崎さんが、御代川さんに反論した。
「食料庫には鍵が掛かっていて、その鍵はわたしが持っていたんですから。毒を入れようったって、誰も入れられません」
「どうかしらね。あなたが犯人だったら、すべてそれで片が付くんじゃなくて?」
「そんな……」
伊勢崎さんは言葉を失って黙り込んでしまった。床に目を落としながら、「わたし、犯人じゃないです」と小声で呟いている。でも、この瞬間ばかりは、僕も御代川さんに同意したい気分だった。
僕と霧乃以外の誰かが、間違いなく犯人なのだ。
霧山朽葉を殺害し、僕たちをこの島に閉じ篭め、そして連続殺人を予告した――。
古橋さんか、守屋さんか、御代川さんか、伊勢崎さんか、あるいは熊切千早という謎の人物か。いくら伊勢崎さんのような気弱な人とはいえ、信用できるわけがなかった。
きっと、誰もが同じ目をしている。
同じ目をして、お互いのことを睨んでいる。
食事を前にした大広間の沈黙は、明らかに剣呑さを含んでいた。
「まぁ、仕方ないだろ」
緊張を破ったのは守屋さんだった。彼は日焼けした顔を歪めて僕たちを見回し、
「こういう状況じゃ、可能性を疑い始めたらきりがないと相場が決まってるんだ。トイレにも行けないし、寝ることさえ出来ない。何か喰わなきゃ身が持たないのは事実なんだから、黙って喰うことにしようぜ。ただし伊勢崎さん、あんたも一緒にだ」
「え?」
大人しい小間使いが、戸惑うように顔を上げる。「悪いが、」と守屋さんは続けた。
「俺たちには、あんたを信用する根拠がない。あんたが犯人だという可能性を否定できないんだ。だからあんたにも、俺たちと同じものを、同じように喰ってもらおう。そうでなきゃ、俺たちはあんたに毒を盛られて皆殺しされかねないからさ。みんなの皿から、少しずつ料理を分けてもらって食べるんだ。いいだろ?」
「……分かりました」
伊勢崎さんは気の毒なほど怯えた様子で、緩慢に頷いた。少し可哀想な気もしたが、仕方がない。
その後、これまた守屋さんの提案で、全員の料理をランダムに交換することになった。配膳は伊勢崎さんによるものだったので、もし彼女が犯人だったら被害者を狙い撃ちできるから、というのがその理由だ。いくらなんでも不穏なやり方だ、と思ったが、誰からも反論は出ず、結局じゃんけんをして適当に皿を交換した。
皿を交換し終えた後、守屋さんは眉間に皺を寄せて全員の顔を見やった。
「俺もこういうやり方はしたくないが、こんな状況になった以上仕方ない。もし毒が入っていたりしたら、その時は運が悪かったと思って諦めてくれ」
「あら。まるで、この皿の中のどれかに毒が入っていると知っているような口振りね」
例によって、御代川さんが横槍を入れる。
「違う。そういうんじゃない。もし、万が一そういうことがあったらの話をしているだけだ。それに、昼飯のときは誰も何ともなかったんだ。きっと夕飯だって何ともないさ。とにかく、食べよう。スープが冷めちまう」
そう言って、守屋さんは機先を制するようにスープを口に運んだ。美味いぜ、と彼は一言だけ感想を述べたが、それは沈黙の大広間にあまりに空虚に響いた。
しかし、それに続くようにして、誰からともなく箸を取り始める。ハヤシライスに、シーザーサラダに、ウーロン茶に、手を伸ばす。ただし、誰もが無言で、皆一様に難しい顔をしていた。
僕もシーザーサラダのレタスに箸を伸ばそうとしたが、そこで手が止まった。
動かない。
手が震えているのだと、その時になって気付いた。
「ゆぅくん?」
震える箸でレタスを摘もうとして、何度も取り落とす。ついに僕が諦めて箸を置いてしまうと、隣に座っている霧乃がその様子に気付いて、僕の顔を覗き込んできた。
「どうしたの? やっぱり、食べれない?」
うん、と僕は黙って頷いた。
もし、この中に毒物が混入していたら――。
一旦そう考えてしまうと、疑心暗鬼に取り憑かれたように身体が固まってしまう。膝の上で握った両拳が、小刻みに震えた。
「こんなの、やっぱり狂ってるよ。安全かどうかも分からない食べ物を全員で交換して……。まるで、誰かが毒で死ぬのを待っているみたいだ」
「仕方ないよ。他に、食べるものがないんだから」
「なら、食べなきゃいいじゃないか。二日間くらい、何も食べなくたって死にはしない」
「それじゃ弱っちゃうよ。それこそ、犯人の思い通りになる」
「でも……」
僕が躊躇していると、不意に霧乃が僕の拳に自分の手を添えてきた。白くて繊細で、柔らかな子どもみたいな手。
「ゆぅくん」
霧乃が僕に呼び掛ける。顔を上げると、いつになく真剣な顔をして霧乃が僕を見つめていた。
「食べよう。食べなきゃ駄目。心だけじゃなくて、身体まで弱っちゃう」
「それでも……」
食べたら死ぬかも知れない、と僕が渋っていると、霧乃は意を決したように「ぼくも一緒に食べるから」と言った。箸で僕の皿に盛られたレタスを摘み、自分の口に入れる。それを飲み込んでから、彼女は箸でレタスを摘むと、僕の目の前に差し出した。
「ぼくと一緒だから。ゆぅくん、口開けて」
恐る恐る、目を瞑って言われた通りにする。口の中に箸が差し込まれた。レタスの感触が舌の上に載る。噛んで、という霧乃の指示通りに、噛み砕く。胃が抵抗するように収縮して、吐き気を催す。僕が食べ物を飲み込むまで、霧乃は僕の拳を、ぎゅっと握っていた。この小さな手がなかったら、僕は気持ち悪さのあまり嘔吐していたかも知れない。
我慢して、飲み込んで。
何ともないみたいだ、と悟って目を開くと、霧乃が「大丈夫だから」と言って僕を見つめていた。うん、と答えた僕の声は、少しだけ震えていた。