第一章―02
僕が東大寺霧乃に呼び出されたのは、夏休みに入って数日が経った頃のことだった。
夏休み――高校二年生、十七歳の夏だ。
彼女と夏祭りに……みたいな、分かりやすい青春イベントとは無縁の僕だが、それでも今年の夏にはちょっとした予定があった。というのも、クラスの友達と一緒に、五人で長野へ遊びに行こうと計画していたのだ。三泊四日で、避暑がてら信州を満喫しようという計画だった。
白状すると、実は友達同士の旅行なんて中学の修学旅行以来だ。そういう事情も手伝って、僕は少し浮き足立っていた。
旅行自体は二週間後だけれど、じゃあそれまでに宿題を片付けようとか、そんな気はちっとも起きなくて。本屋で「信州」と大文字の入ったるるぶを買ってきて、居間でごろごろしながら、まだ見ぬ信州の地に想いを馳せる生活。それはそれで夏休みを満喫してるなぁって気がして、悪くなかった。
悪魔の呼び鈴が鳴り響いたのは、そんなときだった。
るるぶで信州そばの特集ページを眺めていると、居間の片隅に設置された固定電話が鳴り出す。両親が共働きで仕事に出ているため、電話には僕が応対するしかなかった。
「はい、小坂です」
『あ、ゆぅくん。ぼくだよ』
夢の中にいるような、独特に甘ったるい声音。僕は一瞬にして、電話の相手が同じマンションに住む東大寺霧乃であることを悟った。また何か面倒事を押し付けられるんじゃ……、といささか顔をしかめつつ、「あぁ、霧乃か」と返す。
「えーと、何か用?」
『うん。ちょっと見せたい物があるから、今からぼくの部屋まで来てよ』
「部屋まで? 電話じゃ駄目なの?」
『だめなの』
少し強い語調で否定される。ほら、これだ。東大寺霧乃という少女は、僕がささやかな幸せに浸っているときに決まって、あれこれと面倒事を運んでくる。食べ物がないだの、扇風機が壊れただの、本屋までパシリを頼まれてくれだの……。
霧乃と知り合ったのが僕が中学一年生の時だから、彼女との付き合いも五年目になる。この間、霧乃に細かい用事を押し付けられるのは日常茶飯事だったから、こんな電話もすっかり慣れっこになってしまっていた。
「分かった。今行く」
受話器に向かって答え、せめてもの抵抗として溜息をつく。
何だかんだで霧乃のペースに流されてしまうところが、僕の悪いところなんだろうけど。
東大寺霧乃という少女を一言で表現するならば、「奇人」という言葉を選ぶべきだろう。次点で「変人」、「偏屈」、「廃人」などなど。要するに、そういう奴だった。
僕の住む高層マンションに東大寺霧乃が引っ越してきたのが、今から五年前。すなわち、僕が中学一年生のときだ。霧乃は僕と同い年で、同じ中学で、そして同じクラスだった。僕の通う中学は小学校からの持ち上がり組ばかりであり、見知った顔と過ごす生活に飽き飽きしていた頃だったので、「転校生の女の子」というフレーズはそれだけで魅力的に響いた。まして自分と同じクラス、同じマンションというから、仲良くなっちゃったりするのかなぁ、と思春期的な淡い想像に浸ってもいた。……の、だが。
実際、東大寺霧乃は中学入学から卒業まで、教室に一度も姿を見せることはなかった。
いわゆる、不登校というやつだったのだ。
どういう理由があって不登校になったのかは、五年が経った今でも、実は知らなかったりする。理由が聞きづらいとか、別にそういうわけじゃない。ただ、東大寺霧乃という少女を見ていると、学校に通うか通わないかなんて、朝食にご飯を食べるかパンを食べるか程度の、些細な違いでしかないと思わされてしまうのだ。不登校以前に、霧乃は世間の常識から軒並み外れた人間だった。
初めて東大寺霧乃の部屋を訪問したときのことは、今でもよく覚えている。
中学一年生の五月とか、それくらいだったか。学校から配布されるプリント類を持っていって欲しい、と担任教師に頼まれた僕は、嫌々ながら霧乃の部屋を訪れたのだ。僕の部屋は二階で、霧乃の部屋は十五階にあった。だいたいその辺りから、何となく嫌な予感がしていた。
いくら同じ高層マンションとはいえ、低層階と高層階では家賃が文字通り天と地ほどに違う。ここのマンションで言うなら、十階以上の高層階にはそこそこ名のある企業の重役やら医者の息子やら、要するに金持ちしか住んでいなかった。
高額物件に暮らす不登校の少女……。
それだけなら、まだ理解の余地がある。僕が本格的に度肝を抜かれたのは、東大寺霧乃がそんな場所に、事もあろうか一人で暮らしているという事実を知ったときだった。玄関端に現れた少女に、保護者向けのプリントを手渡したとき、「ぼく、一人暮らしなんだけど」と言われたときのあの衝撃は、今でも忘れない。思えば、あれは僕が世間の広さに触れた初めての出来事だった。
ともあれ、同じマンションのよしみもあって、中学時代の僕はことあるごとに霧乃の部屋を訪れては、学校から配布されるプリント類を配達した。かといって、プリントを渡すだけというわけにもいかなかったから、義務感から一言、二言ほど会話を交わしてもいた。霧乃は奇人ではあったけれど決して会話が成立しないというわけではなく、彼女の部屋を訪れたときは数分ほど話し込むのが、いつしか日課になっていった。
そうして、気付いたとき。
僕と霧乃の間には、何やらよく分からない関係が成立していた。そういうことだ。
「友達、なのかねぇ……」
十五階の高みから都会の風景を見下ろして、ふと呟く。唇から零れ落ちたその単語は、どこか酸っぱさを含んでいた。他者との関係に友情とか、そういう青臭いものを認めるのは何だか気恥ずかしいから、しぜん友達って言葉を使うのも躊躇われる。思春期してるなぁ、と自分の身を省みて、少し苦笑い。
霧乃の部屋の前に立ち、玄関ベルを鳴らす。しばらく待つと、ドアが用心深くそろりと開いて、隙間から霧乃が顔を出した。
「あ、ゆぅくん。いらっしゃい」
相手が僕であることを確認すると、ドアがすっかり開放される。霧乃の表情も幾分柔らかくなり、一応歓待されてるんだなぁと実感。まぁ悪い気分ではない。
一目見れば分かるが、東大寺霧乃は随分と特異的な少女だった。
まず最初に目を引くのが、異常なまでに白く透き通った肌。誇張でなく、霧乃はこの四年間あまり、直射日光に晒されたことが数えるほどしかないのだ。白魚のような不健康な肌は、外気に数時間も晒されれば、たちまち火傷してしまいそうだった。
同じ理由から霧乃は成長不足で、手足が棒のように細い。元々華奢な身体つきのうえ、一日中部屋に閉じ篭もって動かないのだから当然だ。こちらも誇張でなく、僕が捻れば簡単に折れてしまうだろう。不健康の権化みたいな奴だ。
そんな霧乃だったが、顔立ちだけは唯一の利点と言って憚らない。眠たげに半開きの双眸、控えめに結ばれた唇。伸びすぎた前髪が目に掛かって、常時睡眠不足のような印象を与えるものの、顔立ちだけはこのうえなく整った美少女だった。東大寺霧乃を見ると、天は人に二物を与えず、という言葉をしみじみ理解する。
「で、用事ってなに?」
ちなみに、霧乃の標準装備はチェック柄の暖色系パジャマだった。たまに近所のスーパーへ買い物に行くときも、いつもこの服装らしい。果たして霧乃がこのパジャマ以外に服を持っているのか、僕は知らない。
「見せたい物があるんだ。とりあえず入ってよ」
パジャマ姿の霧乃に促されて、部屋の中に足を踏み入れる。こっちだよ、と伸びすぎた髪をひょこひょこ揺らす霧乃の後ろ姿を眺めて、無防備だなぁと思った。まぁ、僕が相手だから無防備なんだろうけど。
果たして霧乃に案内されたのは、彼女のベッドが置いてある寝室だった。霧乃は基本的に一日中、この部屋のベッドに寝転がって読書している。そんな生活も、かれこれ四年と半年になるのだろうか。
寝室にはいつも通り、ハードカバーやら文庫やらが散乱している。いや、散乱しているなんて生易しいものじゃない。地層を形成していると言うべきだ。きっと、大地震の後の図書館はこんな感じなんだろう。霧乃がこの部屋のベッドに横たわって読書しているのを見ると、僕はいつも土葬ならぬ「書葬」という言葉を思い浮かべる。東大寺霧乃は重度の読書中毒であり、本中毒だった。
実を言うと、この部屋の光景にうんざりして、前にも何度か部屋の片付けを進言してみたことがあるのだ。
「これ、片付けようとか思わないわけ? 本棚でも何でも買ってきてさ」
「なに言ってるの、ゆぅくん。片付いてることと整理されてることは別物だよ。あるべきものはあるべき場所に。それが秩序であり、片付いてるってことでしょ? 外見的に整理されてたって、あるべき場所になきゃ秩序とは呼べないよ」
よく分からないが、霧乃的に見ると、この部屋は「片付いている」らしかった。まぁ、どうせ学校にも通わず日がな一日、ベッドの上で本を読み漁っている読書廃人の言うことだ。僕なんぞに理解できるはずもない。
ちなみに、以前ちらりと霧乃から聞いたところによると、ここへ一人で引っ越してきた理由も、誰にも邪魔されずに本を読む空間が欲しかったから、という酔狂なものであるらしい。僕は何だか馬鹿馬鹿しくなって、それ以上の追及を諦めた。
さて、現実に回帰しよう。
霧乃に「まぁ座ってよ」と促された僕は、何となく居心地の悪さを感じつつベッドに腰掛けた。足下は本の墓場になっているので、迂闊に脚を伸ばすことすらままならない。霧乃が僕の隣へちょこんと腰掛けた。
「で、見せたい物って?」
「うん。ゆぅくん、霧山朽葉の『死者の館』って本、知ってるでしょ?」
「霧山朽葉……『死者の館』……?」
そういえば少し前、霧乃がそんなタイトルの本を読んでいたような気がする。クローズド・サークル物のミステリなんだー、と霧乃が頬を綻ばせていたけれど、生憎僕は「クローズド・サークル」ってものが一体何なのか、よく知らなかった。
「ごめん。覚えてないかも」
「むー」霧乃は不満げに眉根を寄せる。「じゃあ、霧山朽葉の方なら知ってるでしょ? 十四歳でデビューして、いま十七歳の推理小説家」
「あ、そっちは聞いたことある」
十四歳という若さで衝撃のデビューを飾ったとして、一時期世間で騒がれていた小説家だ。顔もプロフィールも一切非公開という覆面作家の体を取ったことも、世間の注目を浴びる一因になっていた。デビュー作『朽ちた葉』は、幼少期に虐待を受けた少女が連続殺人鬼に成長するというショッキングな内容だったが、ミステリとしての評価も高く、100万部を越える大ベストセラーとなった……とか。以上、すべて霧乃情報。
「で、その霧山朽葉がどうかしたの?」
「うん。あの小説家の最新作が『死者の館』っていうタイトルなんだよ。上下巻なんだけど、まだ上巻しか出てなくて」
「なるほど。下巻が出たら、僕にすぐ買ってきて欲しいってわけか」
依頼を先読みすると、意外にも霧乃は「違うよ」と首を振った。色素の薄い長髪が揺れるのを見て、そろそろ髪を切ってやらなくては、などと思う。まるで飼い猫の世話でもしているみたいだ。
霧乃は枕元に置いてあった『死者の館(上)』の文庫を僕に手渡すと、「その本の巻末を見てみてよ」と言う。言われた通りにすると、そのページには何やら奇怪な文字列が無数に並んでいた。
GNKFB……とローマ字が円形に並んでいるものがあれば、75628 28591……と数字が延々と続いているものもある。まるで意味不明だ。
「なにこれ」
「暗号だよ」霧乃の答えは単純明快だ。「『死者の館』の上巻には、最後に十個の暗号が付いてるんだよ。その暗号を、文庫の発売日の翌日までに解いて、答えを指定の郵便番号に送ると、抽選でスペシャルプレゼントがもらえるって企画なんだ」
「はぁ……スペシャルプレゼントねぇ」
いかがわしい話だな、と知らず知らず渋面になる。だいたい、締め切りが発売日の翌日までって、何だそれ。誰が解くんだよ、その暗号。
「で、そのスペシャルプレゼントって何なのさ」
「うん。霧山朽葉の別荘への、三泊四日の特別招待券なんだ。暗号を解けた人の中から、抽選で三人だけ」
「……何だか、露骨に怪しい企画だな」僕は顔をしかめた。
「まぁね。でも、謎の覆面作家と顔を合わせられるチャンス! とか言って、本屋でも大々的に広告されてたよ。なにしろ、一世を風靡したあの霧山朽葉だからね」
「ふぅん。そうなの」
僕は霧乃の話を聞き流しながら、『死者の館(上)』の文庫をぱらぱらと捲ってみた。血溜まりに死体が……とか、顔が緑色に変色している……とか、あまり健康的でない描写が見受けられる。SF、ミステリ、ホラー系が好物な霧乃はともかく、僕にはあまり向かなさそうだ。だいたい、タイトルに「死者」が入っていたり、作家名が「朽葉」だったりする時点で、僕の好みから外れる。
十七歳、謎の覆面作家、霧山朽葉。巻末の暗号と、限定三名様の特別招待券。しかも、解答の受付は発売日の翌日まで……。なんとも、コアなマニア向けの企画だ。
しかし僕の隣には、まさにその「コアなマニア」がいるわけで。
「こんな話をするということは、つまり、だ。あんまり考えたくはないけど……」
「そう。実はぼく、その特別招待券の入手に成功してしまったのです」
霧乃はそう言って、にっこりとだらしなく微笑んだ。