第二章―09
そして最後、僕と霧乃の客室。
自分で鍵を開けて中に入ったところで、そういえばと思い出すことがあった。
「あの、古橋さん。実は昨日のことで、いま思い出したんですけど……」
「うん? 何か変わったことでもあったのかい?」
「はい。変わったこと、ってほどでもないんですけど」
僕は昨日の夜のことを説明した。
孤島の洋館、奇怪な招待客。それらが『死者の館(上)』の舞台設定とよく似ていたこと。また、『死者の館(上)』に登場する館では昔、小さな女の子が監禁されていたという設定が存在していること。そして何より、霧乃がこの部屋で見付けたという古びた人形……。
部屋の隅に放って置いたその人形を見せると、古橋さんは「ふぅむ」と顎に手を当てて難しい顔をした。
「随分と年季の入った人形だね。十年とか十五年とか、そのくらいかな……。つい最近、この屋敷を買ったばかりという朽葉のものじゃなさそうだよ」
「とすると、やっぱり前の所有者……熊切千秀に関係のあるものなんでしょうかね」
「そうかも知れない。あるいは、彼に隠し子がいたという噂は本当なのかもね。とりあえず、もう少しこの部屋を探してみよう」
その後、古橋さんと二人で僕と霧乃の部屋の捜索を行った。本棚は古橋さんが担当すると言い出したので、僕はベッドの下やデスクの裏など、細々した部分を徹底的に調べた。もっとも、僕の方はいたずらに埃を撒き散らすだけの作業だったが。
「ちょっと、小坂くん」
たっぷり埃気を吸い込んで噎せていると、古橋さんが僕を呼んだ。これ見てみなよ、と言うので彼女の手元を覗き込むと、ノートに何やら文字が書かれているみたいだった。
『くまきりちはや くまきりちはや くまきりちはや くまきりちはや……』
下手くそな――まるで幼稚園児の書き殴ったような文字が、ノート一面を埋め尽くしていた。文字はどれも同じ、「くまきりちはや」だ。
「……何ですか、これ」
僕は少し気味悪くなって、声を潜めた。
「多分、子どもの字だよ。自分の名前を何度も書いて、文字を書く練習でもしていたんじゃないかな」
「自分の名前……?」
「そう。『くまきりちはや』だ。奇しくも、この屋敷の前の持ち主だったという熊切千秀と、同じ苗字のね」
くまきりちはや――恐らく、熊切千早と書くのだろう。女の子の名前だ。
歴史小説家・熊切千秀。この屋敷の前所有者。そして、隠し子の噂……。
このノートは一体、何を意味するのか。
「それだけじゃないよ」
古橋さんは言った。本棚の隅に転がっていた何かを取り上げて、「ほら」と僕に手渡してくる。
それは、プラスチック製の小さなショートケーキの玩具だった。
「これ……もしかして、おままごとの?」
「多分ね。明らかに子どもの玩具だよ。探せば他にも見付かるかも知れないけれど、そろそろ決めつけてしまってもいいだろう」
「この屋敷には昔、小さな女の子がいた……?」
「その通りだ。そしてその女の子は、まず間違いなく熊切千秀という歴史小説家の隠し子だった。子どもの名前は恐らく、熊切千早」
熊切千早――。
熊切千秀の娘であり、隠し子。この屋敷に閉じ篭められ、育てられてきたという。僕はまだ見ぬ少女の姿を、淡く頭に描いた。
その子は今、一体何歳になっているのだろう。
そして、まさかとは思うが、彼女は今もこの屋敷のどこかに息を潜めているのだろうか。
霧山朽葉を殺害し、首を斬り落とし、そして『第一の犠牲者』という紙で連続殺人の予告を行った殺人鬼。電話機を破壊し、僕たちをこの島に閉じ篭めた張本人。
熊切千早。まさか、本当にそんな人物が……?
「もしかすると、熊切千早は長年この部屋に閉じ篭められていたのかも知れないね」
古橋さんがノートをぺらぺらと捲りながら言う。
「こんな小さな女の子がいるんだ。それだったら、熊切千秀が週に一回は必ず、この屋敷を訪れていたというのも頷ける」
「そうですね……」
「とにかく、だ」
古橋さんはノートを閉じると、僕に真剣な眼差しを向けた。
「早く下に降りて、このことをみんなに報告しよう。熊切千秀の隠し子は実在しており、それは熊切千早という名前で、どうやらこの屋敷に監禁されていたらしい、という事実をね」