第二章―05
「残りの手段と言えば」
気付くと、僕は勝手に声を出していた。
「帰りの船が来るまで、全員でずっとこの広間にいるってことぐらいですね。帰りの船、明後日には来るんでしょう?」
「ええ……。明後日の昼前に、ということになっていましたから」伊勢崎さんが答えた。
「だったら、明後日までの辛抱ですよ。ここは、全員で一箇所にまとまって……」
「冗談じゃないわ!」
僕の提案を遮った嬌声の主は、言うまでもない。御代川さんだ。
「私はね、他人と同じ空間にいると、ひどいストレスをこうむる体質なのよ。今だって我慢の限界が近いというのに、それを明後日まで!? そんなことしたら、誰が手を下さなくたって、私は間違いなく殺されてしまうわ」
「しかし、御代川さん……。今は、そんなこと言ってる場合じゃないですよ」
「そんなこと、ですって! これだから常識人って人種は好きになれないのよ。自分の中にある考えが、たまたま世間のそれと合致しているからって、それが万人共通の認識だと思い込む。自分の考えが他者には理解されないとしっかり認識している点で、私はあなたより殺人犯との方が気が合うわ!」
目を剥いて捲し立てる御代川さんに、僕はすっかり閉口してしまった。僕の隣にいる霧乃が、「変わった人だねぇ」と呑気に言う。こいつだって人のことを言える立場じゃないのだが。
「まぁまぁ」
御代川さんの乱入で収拾のつかなくなった場を取り繕うように、仲裁に入ったのは古橋さんだった。
「僕は御代川さんの言い分も充分に分かっているつもりだよ。なにしろ、僕も世間じゃ異端児だからね。でもとりあえず、この場は落ち着こうじゃないか。取り乱すと、また血圧が上がるよ」
「ふん。それもそうね」
御代川さんが引き下がると、古橋さんは全員をぐるっと見回した。
「僕はまだ、この島からの脱出を諦めたわけじゃない。電話や携帯電話がなくて外部と連絡を取れなくなったからといって、ただちに失望する必要はないよ」
「でも、連絡が取れなかったら……」
僕が口を挟もうとするのを、古橋さんは「まぁまぁ」と手で制した。
「ここは島だ。それも、定期船さえ通っていないような孤島。そこにこんな屋敷があるなら、モーターボートの一つや二つ、あってもいいとは思わないかい?」
「ボートか……」
それは考えていなかった。僕たちは屋敷の事情に詳しい伊勢崎さんに注目した。
「一応、あることはあります。閉じ篭められたら困るので……」
「ふぅむ。一応、ってのはどういう意味かな」と古橋さん。
「その……モーターボートは浜辺の鉄檻の中にあるんですけど、檻を開けるには鍵が必要でして。そこの壁に掛かっているんですけど」
そう言って、伊勢崎さんは僕の背後の壁に目をやった。昨日、確認した通りの装置がそこにはある。
壁に掛けられた無数の鍵、それを囲う透明なボックス、暗証番号入力機――。
確かに、無数の鍵の中には、フックに「ボート小屋」と記された鍵がある。あるいは。「マスターキー」と記された鍵でも開けられるかも知れない。
しかし、このボックスを開けて鍵を取り出すためには、暗証番号が必要だった。
そして、その暗証番号を知る唯一の人間――霧山朽葉は、もう既に殺されているのだ。
再び、僕たちの間に失望が広がった。
「つまり、だ。僕たちには、モーターボートを使用することが出来ない。そういうわけだね」
「いんや」
結論付けようとした古橋さんに、食ってかかったのは守屋さんだった。
「馬鹿正直に番号入力してやる必要なんかない。壊せばいいんだ。鍵を囲っている透明な箱か、あるいはボートが入っているって檻を」
言うや否や、守屋さんは立ち上がって僕の背後に回り込んだ。ちょっと失礼、と誰も座っていない椅子を取り上げて、彼はボックス装置に向かう。
椅子を思いっきり振りかぶり、そして振り下ろす。
ごん――。
分厚いガラスを素手で殴ったような、鈍い音がした。ボックスには傷ひとつつかない。
「無理です」伊勢崎さんが言った。「そういう事態を予想されて作られた装置なんですから、人間業じゃ壊せるわけがありませんよ。銃で撃ったって傷ひとつ付きません」
「ふざけやがって!」
守屋さんの怒りは、一体何に対するものだったのだろう。
やめて下さい、と伊勢崎さんが止めるのにも関わらず、彼は椅子を振りかぶり続ける。その度に生まれる音が、大広間に不気味に響いた。
何度か叩きつけたところで、椅子の方が壊れた。
守屋さんは荒い息で、その場に座り込んでしまった。
「おい、伊勢崎さん。ボート小屋の方はどうなんだ」
「鉄檻です。どうしようもありません」
「くそ……。じゃあ、この忌々しい箱をぶっ壊すしかないじゃねぇか。確か、書斎に斧があったよな?」
「斧って……」
僕は言葉をなくした。
なにしろ、その斧は、霧山朽葉の首を切断したものなのだ。
僕たちが止めかねているうちに、守屋さんは一人で広間を出ていってしまった。やがて彼は本当に斧を抱えて戻ってきたが、その斧の刃は黄色い液体でぬめっていて、誰もが目を逸らした。
そして、結果は変わらなかった。
「クソ! 何だってこいつは、こんな頑丈に出来てるんだ! まるで俺たちをここに閉じ篭めようとしているみたいじゃないか!」
「霧山さんが取り付けるよう指示してきたものです。どうか、悪く言わないで下さい」
伊勢崎さんの言葉に、守屋さんは何も言い返せず、ふんと鼻を鳴らすに留まった。
霧山朽葉……。彼女は一体どうして、こんな強固な防衛システムを用意したのだろう。自分の家というならともかく、ここは別荘で、しかも誰も入り込めない孤島だというのに。
彼女は本当に、僕たちをここへ閉じ篭めようとしたんじゃないか――。
そんな変な妄想までもが頭をもたげてくる。仮面のような微笑面をした、思考の奥底が読めない覆面作家。その真意を尋ねようにも、彼女はもう何者かに殺されているのだった。
「とにかく」
誰もが口を閉ざした頃、僕の隣の読書中毒娘が、すべてを総括するように言った。
「これでぼくたちは、この島に完全に閉じ篭められてしまったわけだね」