第二章―01
第二章 悪意の集う夜明け
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昔から。
昔からずっと、生者と死者の境目というものが、よく理解できなかった。
それは単に心臓が動いているか否かの差異なのか、あるいは他の定義が与えられ得るのか。与えられ得るのだとしたら、それは一体何なのか。
たとえば、生まれてから一度たりとも他者に感知されることのない人間が存在するのだとしたら。たとえば、指先でつつくほどの影響力さえ世界に行使できない人間が存在するのだとしたら。その人間は、果たして生者であると呼べるのか。生者と死者の境目は、一体どこに存在するというのか。
彼が、彼女の頭に鈍器を振り下ろすとき、考えていたのはそんなことだった。
その一瞬は、永遠かと思われるほど長かった。
振り上げた凶器。どうして、と問うように見開かれた彼女の目。風を切る音。身体に伝わってくる確かな手応え。低音。裂けた肉。赤い液体。滑りけ。
気付いたとき、意識を失った彼女が目の前に倒れ伏していた。
彼は血を滴らせる凶器を片手に、しばらく彼女の身体を眺めた。
生者と死者の境目を、今まさに越えようとする物体。彼が彼のために価値を損なわせたモノ。
精神は、思ったより冷静を保っているようだった。それどころか、殺人を犯すことによって、ますます冷徹に研ぎ澄まされていくようにすら感じた。
血液の付着した頬を、指の腹で拭う。
それから彼は、懐から頑丈なロープを取り出した。それを注意深く、意識を失った彼女の首の下に通していく。
後の作業は、ただの事後処理に過ぎなかった。
彼は彼女に馬乗りになり、体勢を安定させて、ロープを左右へ思いきり引っ張った。彼女は意識を失っているから、マネキンの首を絞めるのと大差ない。ただ、生理的反応なのか、首を絞め上げたとき、彼女の口から、ぐぅ、と喉を引き絞ったような声が洩れた。
秒数をきっかり数えたのち、彼はロープに掛ける力を緩めた。彼女は飛び出さんばかりに目を剥き出し、唇を歪めて絶命していた。彼女の首には、まるで蛇が這った後のような、毒々しい赤色の索状痕が残されていた。
彼は自らが創り出したその光景をしばらく眺めてから、用意していた紙を死体の脇へ添えた。
『第一の犠牲者』――。
紙にはそう書かれていた。
(霧山朽葉『死者の館(上)』より抜粋)
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