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おいしいケーキのつくりかた

作者: 坂本 晴人

「みんなできちんと分けて、食べなさい」

 父親はいつもそう言っていた。彼の眼前には、母親が焼いたホールサイズのチーズケーキがある。黄金(こがね)色したその表面を銀のナイフがゆっくりと進んでいく。母親は慣れた手つきでそれを八等分に切り揃える。扇形に生まれ変わったそれらはどれも同じ大きさだった。

「もうちょっとだけ待っててね。みんな一緒に食べるのよ。お母さん、頑張ったんだから」

 母親は自慢げにそう言いつつケーキを小さな丸い皿にひとつずつ乗せ、席に着いて待つ子供たちのもとへと運んで行く。対照的に無言のままの父親は肘かけに腕を遊ばせたまま、優しく穏やかな瞳でその様子を見ている。子供たちは既に皆フォークを握っていたが、しかしまだ誰ひとりとてそれを、指呼(しこ)(かん)にある至福の豊穣に差し伸ばしはしない。

「全員、自分のケーキとフォークはあるな?」

 取り分けるのを終えた母親もまた席に着いた時、父親はそう言った。子供たちは待ちきれんとばかり、幾度も首を縦に振る。

「それでは、食べようか。いただきます」

「いただきます」

 長机を囲む六人の兄妹が唱和した。そして皆、澄めた皿の上にあるケーキに手を伸ばす。一番体の大きい長兄はあっという間に食べ終えてしまう。それと争うようにして次兄が、そして三女が皿を空にする。その様子に肩をすくめつつ、長女は両脇に座る次女と末弟に手本を見せるようにゆっくりとケーキを口に運ぶ。

 母親はそんな彼らの様子を見ながら微笑した。父親は相好を崩すことこそなかったが、しかしその身を自らの体より大きな背もたれへと深く預けていた。

 ケーキひとつを皆で分けあって、誰もが幸せだった。誰もが満足していた。

 父親が、死んでしまうまでは。




「みんな、ちょっと聞いて欲しいんだけど」

 ある夜、一番上の兄がそう切り出した。既に寝てしまっていた末弟を除いた四人が彼の方を向く。彼ら六人はひとつの部屋を共にしている。僅かな空間も余すところなく使おうとコの字型に置かれた三つの二段ベッド。顔一つ分ほどの出窓から差し込む月明かりの他には、部屋の中央に吊された裸電球だけが彼らを照らしていた。

「最近、おかしくないか?」

「何が?」

 そう布団の中から首だけを出して応じるのは次男。

「ケーキだよ。最近、俺たちのケーキ、少ないと思わないか?」

「思い過ごしじゃないのかしら?」

 次女の髪を梳きながら長女は口を尖らせる。

「いや、そんなことない。変じゃないか。俺たち六人に母さん、合わせて何人だ?」

「七人でしょ」

「そうだろう。だけど俺たちのケーキは、ありゃ八等分じゃないか。もう一欠けはどこ行ったんだ?」

「私、食べたい」

 唐突に三女は手を挙げて無邪気に言う。甲高いその声は夜闇の間にあまりに響き、長女は慌てて人差し指をその口元に寄せる。

「ばか、うるさいでしょ。静かにしなさい」

「だって、食べたいもん」

 そう頬を膨らませた三女は掛け布団を引っ掴むと、それを自分の体に被せて隠れてしまった。

「また布団もぐっちゃって。どうしよう?」

「大丈夫よ、どうせすぐに出てくるわ」

 それを見てどこか楽しそうな次女に、ため息交じりの長女はその髪を撫でつけながら言い聞かせた。

「兄さんはじゃあ、どう思ってるのかい?」

 依然として首だけを突き出した次男は長男にそう問いかけた。それを受けた長男は得たりや応と言い放つ。

「母さんが二欠け食べてるに決まってる」

「そんな、まさか。お母さんが?」

 耳を疑った長女は櫛を持ったままベッドから抜け出し、上段に座っている長男を見上げる。

「ねえ、ちょっと言っていいことと悪いことがあるんじゃない? お母さんを疑うなんて」

「だけどお父さんが死んでから、母さんちょっと変になったじゃないか。ほとんど笑わなくなったし、話も全然聞いてくれなくなった。それに『みんなできちんと分けて食べましょう』だってもう全然言いやしない」

「それは、そうだけど」

「みんな、ちょっと真面目に考えてみてくれ」

 そう言った長男はぐるりと周囲を睥睨(へいげい)する。布団の中にもぐりこんでいた三女もいい加減暑くなったのか、少し上気したその顔を布団の外に出してきた。

「俺だって母さんがそんなことしてるとは思いたくない。だけど、もしそうだったら? 俺たちが食べられるはずのケーキを、母さんに取られていたら?」

「それはよくないな」

「でも、作ってるのはお母さんじゃない」

 然りと頷く次男を見て長女は声を上げる。だが長男は視線を逸らさぬまま首を横に振る。

「生地を作ってオーブンで焼き上げるのは母さんだけど、材料の買い物に行ってるのも、食器を出すのも、後片づけをするのも全部俺たちだろう?」

 これには長女も返す言葉がなかった。それでもその細い顎に手を当て、彼女は言うべき言葉を考える。しかし彼女の努力が実る前に、ぽつりと次女が口を開いた。

「もっと食べれたら、あたし、嬉しいな」

「俺もだ」

「ケーキ、もらえるの?」

 次男は一層深く頷きながら、三女は目をきらきらと輝かせながらそう同調する。長男に寄せられる期待と希望をはらんだ視線。彼は拳を作って言い放つ。

「俺は明日、母さんが本当にケーキを二欠け食べてるのかどうかを確かめようと思う。俺の思い過ごしならそれでいい。だが、もしそうでなかったら」

 長男はそこで言葉を切る。部屋を覆う予期せぬ沈黙。それに耐えきれなくなり、長女は彼を促す。

「だったら、どうするの?」

「やらなきゃならないことがある」

 そう短く答えると、長男は電球に手を伸ばして明かりを落とした。そのまま布団に潜り込んでしまった彼に、長女はもう何を訊くこともできなかった。



 結論から言えば、長男の疑念は的中していた。いつものようにケーキを食べた後、兄妹が協力して洗い物をやっている時のこと。母親は余っていた、そして彼女が隠していた一欠けを自室でこっそり食べていたのだ。

 鍵穴を通してその様子を見た長男はその夜、すぐさま残りの五人にそれを伝えた。信頼していた母親がそんな卑劣なことをしていたという事実は、彼らにそれぞれの衝撃を与えた。

「そんな、嘘でしょ」

「嘘じゃない。この目で見た」

「やめて、もう言わないで!」

 もっとも母親への信頼が篤かった長女はその衝撃を受け止めきれず、両の耳を塞いで長男の話を頭から拒否してしまっていた。

「聞くんだ。ちゃんと現実を見ろよ」

 彼女の態度に対し長男は更に語気を強める。

「嫌よ。どうしてお母さんのことを悪く言うの?」

「ケーキを一人だけ多く食べてるんだぞ。その分俺たちが食べる分が減ってるのが分かんないのか?」

「私たちを育ててくれたお母さんがそんなことするはずないじゃない」

 遂に長女は泣き出して、自分の布団にもぐり込んでしまった。この調子では幾ら長男が言葉を尽くそうと、もはや何の甲斐もないだろう。

「兄さん、あたしは信じるよ」

「俺も信じる。見たって言うんなら」

 一方でそう言ってきたのは次女と次男の二人。

「そうか。二人ともありがとう」

「兄さんの言うとおりだ。もしそれが本当だったら、いくらなんでもあんまりな話だ」

「そうよ。お父さんが生きてたら何て言ったか」

 だが彼らにもう迷いが一切なかったかと言えばそうではない。ならばともしもの砕片を端々にちりばめた次男の口吻(こうふん)はその証左。

「だけど、もう父さんは居ない。俺たちがなんとかしなけりゃならない。さもなきゃずっとこのままなんだ」

 そんな彼らに長男は言葉を向けた。確かに父親が死に母親が豹変してしまった現状、彼らが(たの)める存在は自分たちだけだった。

「でも、どうやって? やらなきゃならないことがある、って昨日は言ってたけど」

「まず必要なのは、俺たちが団結することだ」

そう訊いてきた次男に長男はすぐさま答える。

「団結して、キッチンを押さえる。今は母さんしかあそこには入れない。それが駄目なんだ。だからごまかされる。もっとたくさんケーキが欲しいなら、あそこを手に入れて俺たちが母さんに取って代わるしかないんだ」

 迷いもなく一息に長男は言い切った。しかしこの口上も何も知らずに眠っている末の二人には届かない。そしてそれと同じだけ、次女に彼の熱は伝わらなかった。

「待って兄さん。そんなの、むちゃくちゃだよ」

「何でだ?」

 彼女の冷めた言いぶりに長男は目を剥いた。

「だって、キッチンからお母さんを閉め出して、それでどうするの? そしたらケーキは誰が作るの? 誰も作れないじゃない」

「今はそうだ。だけど、すぐにそうじゃなくなる」

「すぐって?」

「すぐだ」

「要はやってみなければ分からないんじゃないの?」

「だが何もしないよりかは断然いい。そうだろう?」

 団結を求めて懸命に長男は訴えかけたが、ついに次女は退いた歩を進めることはなかった。しかしその一方で次男は一気に二歩を踏み出した。

「兄さん、俺は協力するよ。兄さんの言うとおりだ。どうなるかは分からないけど、何もしないよりかは」

「本当か」

 途端に長男は顔を明るくした。次男もその気色にひとつ頷く。そんな彼の横に立つ次女は力無く数度首を横に振ると、自分の寝床へと戻っていった。

「二人だけで何とかなるかな。うまくいけばいいけど」

「そんな弱気でどうする。何とかするんだ」

 長男は伏し目になった次男に向けて言葉を継ぐ。

「絶対にうまくいく。そうすればきっとみんなも分かってくれる。正しいのはこっちなんだから」

 そう言った彼ら二人がその計画を実行に移すまでは、この日から一週間ほど待つ必要があった。




 キッチンを手中に収めようという彼らの思惑は、根本的なところから不可能だということが明らかになった。よしんばどんなに綿密な計画を立て、それをどんなに精緻に実行することができたとしても、長男と次男の二人にそれを成し遂げることはできなかっただろう。彼らはまるで相手の強大さを理解していなかったのだから。

「馬鹿なことをしてるんじゃないの」

 そのたった一言と一発ずつの平手で彼らの乾坤一擲の大攻勢は終息せしめられてしまった。あっさりと彼らはキッチンから追放され、その翌日に皆で食べたケーキは結局八等分のまま。その結果だけを見れば、彼らの努力は何の実も結ばなかったと言わざるを得なかった。

 その無情な敗北から一ヶ月が経ったある日のこと。

「ねえ、兄さん。話があるの」

 雨粒がのべつ幕無しに小さい出窓を叩き続けている。未だに自らの力不足に苛まれていた長男に、神妙な顔をした次女が声をかけた。

「何だよ。今更、何だって言うんだ」

「お願い兄さん。そんなこと言わないで。私も私なりに考えているんだから」

 次女はかつて長女がよくやっていたように、ゆっくりと噛んで含めるようにして彼に告げた。その長女はもはやこの種の話題にはまるで興味を示さない。近頃、彼女たちのケーキが以前よりも小さめに切り分けられていたことに気付いていなかったのは長女だけだった。

「考える? 何を考えるって言うんだ」

「やり方をよ。あんな無茶な方法じゃなくって、もっとずっと成功に近いやり方を」

 ベッドの中から身を起こした長男は彼女に対して露骨に顔をしかめ、口を閉ざした。彼がそれに興味がないわけではなかったが、しかし自分の方法を否定されて気分が良いわけがない。まだ起きていた次男と三女は彼らへとその視線を送る。ガラスがサッシに殴りかかる音ばかりが、部屋の冷たい空気を揺らす。

「何だって?」

 ようやく返された彼の言葉はそれだけだった。だが次女にとってはそれで充分。彼女はしっかと彼の目を見据えると言葉を紡ぐ。

「兄さんたちは無理矢理キッチンを奪い取ろうとしたでしょう。だから失敗したの。ええ、私は失敗すると思ってたわ」

「だから何だって言うんだ。馬鹿にしたいだけか」

 いよいよ機嫌を損ねた長男はそう食ってかかるが、それに対し彼女は大きく、はっきりと首を横に振った。

「私が言いたいのは、この状況を変えたいんだったらお母さんをキッチンから追い出そうなんて考えてちゃ駄目ってことよ。歩み寄らなきゃ駄目なのよ」

「歩み寄る?」

 長男は隠そうともせず鼻を鳴らした。

「馬鹿を言うな。母さんは俺たちを騙してるんだぞ。歩み寄るべきはどっちだ。どうしてこっちが」

「そうかもしれない。けど、兄さんのやり方じゃうまくいかなかったでしょう。あれじゃお母さんはますます私たちをキッチンから遠ざける。もっとたくさんケーキが食べたいなんて言ったって、聴いてもらえるはずがないじゃない」

「じゃあ、どうしろって」

 長男は苦々しげにそう呟いた。しかしその視線は彼女に向けられたまま。今、眠りこける長女と末弟以外の目は全て、滔々(とうとう)と述べ立てる次女の目を捉えている。

「みんなでお母さんに協力するの。要は、ケーキ作りを手伝うのよ。そうすればお母さんは私たちを信頼して話を聴いてくれるはず。頑張って手伝えばもっとケーキを食べたいってお願いも受け入れてもらえるはずだわ」

 満を持して披瀝(ひれき)されたそのアイディアに、ベッドの中で黙って聞いていた三女は思わず手を打った。

「お姉ちゃん、すごい!」

「それならうまくいくかもしれないな」

次男もそれとほとんど同時にそう言った。しかるに長男は納得のいかない様子。

「無理な話だね。面倒で大変な作業ばかりやらされて、それでおしまいさ」

「やってみなければ分からない、でしょ?」

「どうだか」

 次女に背を向け、膝を曲げた長男は布団を顎まで引き寄せる。

「そんなこと言っといて、どうせ自分たちだけでケーキを食べるんだろうさ」

「そんなことはないわ」

「やってみなければ分からない」

 口角を吊り上げ彼はそう言い捨てた。次男と三女はお互いの顔を見合った後、唇を噛んで立つ次女にその視線を移す。その目線に気付いた次女は彼らに微笑を向け、電球のスイッチに手を伸ばした。明かりを落とす直前、彼女はもう一度だけその唇を動かした。

「そんなことは、ない」




 彼ら三人の申し出はあっけないほど簡単に受け入れられた。ただ前のこともあり、次男はケーキ作りを手伝うことこそ認められたが、キッチンに入ることは許されなかった。それでも残りの二人は全面的に歓迎され、彼らは確実にうまくいっていると感じていた。

 ケーキ作りの肝所(かんどころ)であるオーブンレンジを扱えるのは母親だけだったが、焼きあがったケーキを切り分けるのは次女に任せられた。このことは想像以上に大きな変化であった。今まで彼らはあくまでも『与えられる側』だったが、しかしここを以て彼らは一部だけとはいえども『与える側』としての地歩を占めたのだ。

「みんなでやると楽しいものなのねえ」

 そう言った母親は、父親が生きていた頃のような笑顔を取り戻していた。若返ったように思えさえする。それが嬉しくて三人は無邪気な笑顔を浮かべていた。

「いただきます」

 手伝いを始めてから二週間。自分たちが作ったケーキが目の前で輝いているのを見た彼らは、その達成感にすっかり酔い痴れていた。それだけでもう途方もなく嬉しかったのだ。もはやそもそもの目的は忘れていた。

 だからだろう、彼らのケーキが長男らのケーキに比べて大きめに切られていたことを彼らは何の気にも留めなかった。それが未熟練と偶然に依るものであったことを誰も釈明するつもりもなかった。当然、最も早くに食べ終えた長男が彼女たちにどういう視線を向けていたかなどは、誰も気付くことはなかった。

「裏切り者め」

 部屋に戻った次女たちを待っていたのは、そんな長男の罵声だった。

「裏切り者だ」

 それを真似するようにして末弟も声を張り上げた。次女らはなぜ自分たちがそのように呼ばわれなくてはならないのか理解できず、戸口でただ立ち尽くす。ベッドの中の長女は彼ら全員に背を向けている。

「何の、話?」

 数秒の後、次女はかろうじて呟いた。しかしその頭は時が進むほどに混乱する。未だ耳に残る裏切り者という響き、そして二人の黒い瞳睛(がんせい)が彼女たちに向ける憎悪の鋭さが彼女をそうさせていた。

「何の話だと? よく言えたもんだ。自分の胸に訊いてみたらどうだ」

「ねえ待って、兄さん、本当に分からないの。私たちが何かした? あなたたちに、何か」

「どこまで(しら)を切るつもりだ?」

「裏切り者だ」

 腕を組んで青筋を立てる長男の横で、ポケットに手を突っ込む末弟は再びその言葉を口にした。それは単純に長男のまねをしているわけでないことは明らか。彼は彼自身の意思でその言葉を次女たちに投げつけている。

「おい、いい加減にしろ」

 あまりの言われように逆上した次男が部屋へと踏み込んだ。彼は長男らに向かって声を荒げる。

「何で俺たちが裏切り者なんだ? 俺たちは、母さんと一緒にケーキを作ってる。そうして母さんと協力して、いずれはみんなでもっとたくさんのケーキを食べられるようにしようとしてるんだぞ。これのどこが──」

「ふざけるな!」

 瞬間、長男の言葉は次男のそれを遮り雷霆の如く彼らの間に閃いた。

「お前たちのケーキの方が俺たちのよりも大きく切られてたのに気付かなかったとでも思ったか? どこまで俺を、俺たちを馬鹿にするつもりだ!」

「裏切り者だ」

 繰り返される末弟の声は次女らの肺腑を(えぐ)り、彼女らの方寸をどうしようもないまでにかき乱す。

「いいか、お前たちが何をたくらんでるかなんて、俺にはとうにお見通しだ」

「聞いてよ兄さん。そりゃ誤解だ。俺たちは本当に、みんなでたくさんケーキを食べたいからってだけで」

「嘘を()け。今日ではっきりした。お前たちは口だけは偉そうだが、本当のところは俺たちを切り捨てて、お前らだけでケーキを独占するつもりなんだろう」

 長男はその拳から人差し指を彼らに向けて突き出した。それはあるいは罪人の頭に突きつけられる銃のようであり、あるいは岩を穿ち別つ(くさび)のようであった。

「僕だってケーキ食べたいのに、なんで僕のは少なかったのさ。そっちは僕なんか知ったこっちゃないってことでしょ? みんな僕に嘘吐いてたんだ」

 末弟はその目を吊り上げ、次女らを睨みつける。

「待って、聞いて、そうじゃないの。本当は――」

 ようやく事態そのものと、その深刻さを理解した次女は必死に釈明を試みた。だが不幸にもそれが彼らのもとに届くことは永遠になかった。

「何言ってるのよ! 自分のことばっかり考えてんのはあんたじゃない。私たちがこの二週間どんなに頑張ってたかも知らないで!」

 その言葉と共に激昂した三女は前に踏み出し、その手を振り上げた。次女がそれを止めようとした時には既に、彼女の小さな手は末弟の頬を打ち据えていた。

「馬鹿ッ、何やってるのよ!」

 慌てて次女は三女の手を掴みその身を彼から引き離す。だがもうどうしようもなかった。覆水盆に返らず、末弟の目尻から流れゆく一雫もまた、そうだった。

「もうやめて!」

 その時、今まで彼らに背を向けていた長女がその声と共にベッドから身を起こした。彼女は彼らの方を向くと声を限りに泣き叫ぶ。

「何でそんなことするの? 何でそんなこと言わなくっちゃならないの? やめようよ、こんなこと。ケーキなんか、もういいじゃない」

 両の掌で顔を覆った彼女は、これ以上兄妹がいがみ合うのを見ていられなかったのだ。滂沱(ぼうだ)として流れる涙は、彼女が今まで口を閉ざすことで堪え続けてきた感情。彼女の言葉は何も間違っていなかった。だがしかし、それはそれゆえに間違っていたのだった。

「今、何て言った?」

 嗚咽する長女に長男は低い声で訊いた。

「だから、もうやめようって。ケーキなんかなくてもいいじゃない。誰がどれだけ食べるかなんても――」

「ケーキなんか?」

 突如放たれた彼のその怒号は、部屋の壁を砕き割らんばかりであった。

「何を言ってるか分かってんのか。もう一回言ってみろ。ケーキなんか、だと? よくも平気でそんなことを言える。何もしようとしないくせに、あんたが何もしようとしないかわりに、俺たちがやってるっていうのに! ふざけるな。この裏切り者め!」

 言ってはならないことを言ってしまったのだと長女が気付いた時には、既にこの怒りは部屋中を満たしてしまっていた。彼女以外の五人は、彼らの心を踏みにじった彼女に対して明確な敵意さえ向けていた。長女にそれを真正面から見返すことなど出来ようはずもない。彼女はただ泣き散らすばかりであった。

「もう、いい」

 長男はそう呟くと、末弟を促しつつ自らのベッドに入り込む。

「お前らはお前らの好きにすればいい。うまくいくはずなんかないがな」

 その言葉に反応を示す者は一人も居なかった。わざわざそれを示す必要などなかったからだ。同じことを、皆お互いに対して思っていた。未だ泣き止まぬ姉と、その背姿しか認められない兄。彼らを一瞥した次女は次男と三女に眠るよう言うと、白く熱く光る電球のスイッチを切った。その明るさと暖かさが恋しくなくなるまでには、あと一体どれだけの時間が要るのだろう。




 それから数年が経った。この間、彼ら兄妹六人の間で揉め事は一切なかった。それはそうだろう。互いに口を利きもしないのに、どうやって喧嘩をするというのだ。彼らが一緒のテーブルに着くことはもうなかった。

長女の言葉は誰にも、自分にさえも届かない。自らの意思を持たぬ者の言葉など何の価値があるだろう。今の彼女に自分で何かを変えることは能わなかった。

 一方で長男は長じた末弟と日々議論を繰り返していた。母親と裏切り者たちを排除し、本来の目的を達成するにはどうするべきか、と。

 そして次女、次男、三女の三人は母親と戮力(りくりょく)し、日々たくさんのケーキを作っていた。彼らは笑っていた。彼らだけが笑えていた。

 オーブンで焼き上げられるケーキの量は以前の倍にもなっていた。それは間違いなく彼らの努力と協力の賜物である。しかし、長男たち三人が食べるケーキの大きさは以前と何も変わっていなかった。

そのきっかけはささいなことだった。次女らが練習で作ったケーキを、自分たちだけで全部食べてしまったことがそれだった。見栄えが悪いから、味が良くないから、母親に黙ってやったから。言い訳は幾らでもあった。今回だけだから、という魔法の言葉は、それからも果たして何度使われたことだろうか。

 簡潔に言おう。彼らは自分すらも騙しながら本来平等に分け与えられるべきケーキを独占し続けていたのだ。やってみなければ分からない。それに自分が何と返したのか、蜜の味を覚えた次女はもう忘れていた。

「私は絶対に嫌だからね」

 食器の並ぶテーブルを叩いてそう言った三女の傍らには、うつむき気味の次男が控える。頬を紅潮させた次女が彼女らと三歩の間合いで相対している。

「何が嫌なの? 何で嫌がるの?」

「当たり前じゃない。ケーキを作るのは誰? 私たちでしょ。それなのに何でお母さんの友達にあげなくっちゃならないのよ」

 必死に自分を抑える次女をあざけるように三女は言い切った。だがその口元は真一文字に引き締められ、冗談を言っている風などは微塵も感じられない。

「材料も道具も全部向こうが持ってくるって言ってるのに。私たちはそれでケーキを作ればいい。それだけのことじゃない」

「私たちは?」

「どういうこと?」

「私たちは誰のものなの?」

 その言葉の意図を掴みきれない次女に向かい、三女は矢継ぎ早に言葉を放つ。

「私たちはお母さんのものでもないし、ましてやお母さんの友達のものでもない。私たちは誰のものでもない。そうじゃないの?」

「待って、何が言いたいの」

 返答に窮した次女はそう訊き返す。三女は一息に咫尺(しせき)(かん)まで彼女に近寄り、その目を見開いた。

「私たちが作ったものは私たちのものだってことよ! 私たちは誰のものでもない。私たちが作ったケーキは私たちのものなの。材料がどうとか、道具が何だとか、そんなことは何の関係もない。手伝いもしないやつにどうしてケーキを渡さなきゃならないのよ!」

 尋常ではない剣幕でまくし立てる三女。次男はちらりと彼女を見やるが、すぐにその視線は彼の足下へと戻されていった。

「いい? 姉さん。お母さんと一緒にケーキを作るのは構わない。だけど、それをお母さんの友達にあげるなんてことになれば話は別よ。私は反対だからね」

「そんなこと言い出したら、あいつらが私たちのケーキを食べてるのはどうなるのよ。あれはいいの?」

 次女はそう反駁(はんばく)したが、しかし三女の背筋は毛一本ほども揺るがない。

「家族だからよ。家族なんだから、協力してくれなくっても私たちは助けてあげなくちゃならない。だけど、お母さんの友達なんてのは所詮は他所者(よそもの)じゃない」

「他所者だなんて、そうかもしれないけど、お母さんを助けてあげようって思わないの?」

「姉さんは誰が一番大事なの? お母さんなの? 私たちなの? お母さんの友達のためにケーキを作る暇があったら、私たちのために作るべきなのよ」

 彼女らは丁々発止と言葉を交わす。だがそれが為されれば為されるほどに、二人の感情は背離していった。

 この数年間、揉め事は一切なかった。だが、あくまでもそれは表面での話なのだ。称讃さるべき連帯の影で、目に見えない──あるいは見ようとしない──暗がりで、亀裂は()うの昔に生まれていたのだった。

 それはまばゆい新雪に覆い隠されたクレバスであり、あるいは堅牢なる城壁の下に掘り進められたトンネルであった。それがあると気付いた時にはもう既に、何をしたところでどうしようもないのだ。

「裏切り者」

 三女は短く、ただそれだけを吐き捨てた。

「今、何て?」

 数秒の後、顔面蒼白になった次女はかろうじて声を絞り出した。

「もう一回言ってあげるよ。裏切り者だって言ったのよ。もう分かったわ。姉さんは、お母さんにもっと取り入って、私たちの分のケーキまで独り占めしようってつもりなんでしょ」

「そんな、そんなつもりは──」

「ねえ、兄さんもそう思うでしょう?」

 次女の訴えを無情に遮り、くるりと振り向いて三女は兄を呼ばわった。彼はここまで何も言わず、ほとんどずっとその足下を見続けている。

「兄さん? そうでしょう?」

 一向に顔を挙げようとしない彼にいら立ち、次女はその歩を彼の方に進めようとした。

「俺はそうは思わない」

 その時だった。彼の発した言葉に三女は面食らった。反対に喜色を浮かべた次女には全く気付かぬまま、彼女はその狼狽を必死に抑え隠しながら彼を問い詰める。

「どういうことなのよ。まさか兄さんも姉さんが正しいなんて言うつもりじゃ」

「そういうわけでもない」

「え?」

 そこで短く声を上げたのは次女の方だった。遂に次男は顔を上げ、真正面から彼女たちを見つめて言う。

「二人とも間違ってるんだ。誰のために作ってるんだとか、独り占めしようとしてるんじゃないかとか、そんなことで争う必要なんかそもそもどこにもない! 大体、もっとたくさん食べたいなんて言い出したのがおかしかったんだ。あのままで我慢してればよかったのに」

 次男は切々と彼女らに訴えかけた。今の彼は、かつて自らも一蹴した長女の気持ちを完全に理解していた。もうこれ以上争うことを彼は望んでいなかったのだ。

「もっと欲しいってみんな思うから喧嘩になる。兄さんも、お前らも、母さんだってそうだ」

「だから、何だって言うの。あいつみたいに、姉さんみたいに私たちの今までの努力を否定するつもり?」

「違う、話を聞いてくれ!」

 柳眉を逆立て詰め寄ろうとした次女を彼は制する。

「いいか、欲しがらなければ、最低限のものだけでみんなが我慢すればいいんだ。だからもちろん母さんの友達になんかケーキは作らなくていい。だけど俺たちの方もみんなに一切れ行きわたる分だけしか作っちゃならない。もっと食べたい、そりゃあみんなそうだろうけど、その為に争ってたら、馬鹿馬鹿しいだけじゃないか」

 みんながみんな一切れのケーキだけで我慢する。それこそが彼が考えに考えた末にようやく編み出した解決策だった。もう一切れのケーキを誰が欲しがることもなければ、どうしてそこに争いが生まれようか。

「ふざけないで!」

「本気で言ってるの?」

 しかし、次女と三女はほとんど同時に絶叫した。彼の言葉から彼女らの返答まで一秒の間さえも空かなかった。その間こそが彼女らの本心だった。

「本気も本気だ。頼む、少しだけでも考えてくれよ!」

「考える必要なんかない、兄さんも裏切り者だ!」

 思えばそうだろう。一体誰が何も望まないことを望むだろうか。世界のどこを探したところで、誰よりも得をしたいと思う人は居ても、誰よりも損をしたいと願う人は居ないというのに。

「兄さんも姉さんも、みんな、みんな裏切り者だ! 出てけ、みんなここから出てってしまえ!」

 ただひたすらに三女は繰り返す。そんな彼女に次男は力なくくずおれ悲嘆に暮れる。

「いい加減にしなさい!」

 もう次女の我慢も限界だった。彼女は喚き散らす三女の肩を掴み振り向かせると、鋭くその手を振り抜いた。

 乾ききったその音が残響することはなく、一瞬の後に部屋は静寂に包まれた。三女は赤くなった頬を押さえ、膝を曲げてうずくまる。その口の端から零れる(むせ)び声。痛みを封じ込めるように爪を掌に食い込ませる次女は、首を動かして彼女を視界の外へと追いやった。

誰も何も言わなかった。否、誰が何を言えただろう。ふとその静寂を破ったのは、ドアが軋んで開く音。

「お母さん」

 ドアを開けたのは母親だった。次女はしかし、彼女を一瞥して違和感に気付く。笑っているはずの優しい顔は笑っていなかった。それどころか、今にも死んでしまいそうな程に疲れ切った(かげ)が色濃くそこには見て取れる。

「お母さん?」

 無言で彼女らのもとに歩み寄る母親。母親は三人のことを一人ずつ見やる。それから、その(しわが)れ切った声でこう言った。

「みんな、出て行きなさい」




 何の言葉も実を結ぶことはなかった。理由は教えてもらえなかった。ただ、数ヶ月が過ぎ去ってもなお受け入れられない現実だけがそこにあった。

 今や次女にも、次男にも、三女にも、もう一度行動を起こす力は残されていなかった。正しいと思ってやったことなのに、みんなのためだと思ってやったことなのに。どうして誰も理解してくれないのだろう。彼らの頭にはそんな思いばかりが浮かんでは消える。

 長男の中にたぎっていた使命の炎も、時を経るうちに(おき)()に成りさらばえていた。考えれば考えるほどにやるべきこと、やらねばならぬことが多すぎて、彼は何をするべきかもう分からなくなってしまった。

 長女は相も変わらず無関心と無干渉を貫き続けている。誰が何をしようと、誰が何を望もうと、自分に多大なる損害を被らせない限り構わないというわけだ。

 だから、母親が病にその体を蝕まれていたことなどに気付く余裕は彼らにはなかった。それがあったのはただ一人、未だ目に光を保つ末弟一人だった。

「みんな、聞いてほしい」

 ある夜の事、末弟はそう口を開いた。かつての長男のときと異なるのは、誰もその言葉に対しそれと分かる反応を示さないこと。しかし構わず彼は言葉を続ける。

「提案がある。今度のは絶対にうまく行く。だけど僕一人じゃ無理だ。だから、協力してほしい」

 簡潔に彼はそう申し出た。五人はそれに対し無言の返事を寄越す。

「今まで兄さんたちと姉さんたちが失敗してきたのは、誰がリーダーかはっきりさせてこなかったからだ。だからうまくいかなかった。目的と方法をリーダーがはっきり示して、そしてそれをみんなで協力して、全力で実現に向けて努力するべきなんだ」

「お前がそのリーダーってわけか?」

「もちろん、そうだ」

 ベッドに寝そべったままの長男からの問いに、末弟は当然のように即答した。

「僕は今までみんなの失敗を見てきた。だから分かる。何をすればいいのか、何をしては駄目なのか。僕の指示に従ってくれれば、もう一度みんなでたくさんのケーキを食べられるって約束する」

 末弟の言いぶりはまさに傲岸だった。しかし、そこにはもう誰一人として末弟をたしなめる者も咎める者も居なかった。皆疲れ切ってしまっていたのだ。それでも次女はひとつだけ浮かんだ疑問を彼にぶつける。

「お母さんにはどう言うつもりなの?」

「その必要はない」

「え?」

 予想外の返答に次女は思わず訊き返した。

「ねえ、どういうことなの」

「もう既にキッチンの主はお母さんじゃない。今キッチンを持ってるのはこの僕だ」

 彼が言い終える前に長男はその身を起こし、彼に向かって驚愕の視線を差し向ける。

「嘘だ。いつの間に」

「嘘じゃない。どうやったかを説明することは出来ないが、だが、これは真実だ。後はみんなが協力してくれれば、僕たちは何だって出来るんだ」

 末弟の舌が奏でるその()は、傷つき疲れ果てた彼らを確実に捉えていた。川の流れに溺れる者が藁にすがりつく時、果たしてその者はどれだけ藁の持つ力を理解しているだろうか。彼らが末弟の提案に引き寄せられたのはそれと大して変わりはしないこと。たといその力を理解していたとしても、やはりそれを掴みに行ったであろうということまで含めてそうだった。

「ねえ、私たちはどうすればいいの?」

 長女は呟くようにして問いかける。

「簡単だよ。みんなはただケーキを作る準備をしてもらえばいい。材料の買い物に、食器の準備。それから、そう、後片付けだ」

「ケーキを焼くのと、切り分けるのは?」

「僕がやる」

 しかしその言葉を聞いた時、次男は跳ね起きながら短兵急に声を上げた。

「それじゃ、変わらないじゃないか。お前の言っていることは、お前が新しく今まで母さんのやってたことをやるってことだろ。そんなの認められない」

 だが末弟は冷静さを失うことなく、流麗に反論を述べてゆく。

「それは違う。父さんが死んでしまってから、母さんは僕たちを見ていなかった。僕らの意見を聞こうともしなかった。そのことは兄さんが一番よく知ってるはずだよね? けど僕は、あくまでもみんなと協力することを、一緒にやることを前提に話をしている。僕はこれっぽっちもみんなを支配しようなんて考えちゃいない。僕とみんなは仲間なんだ。そう、同志なんだよ」

 そこで一旦言葉を切り、そして彼は続ける。

「ケーキを焼くのと切るのを僕が一人でやるのは、ちゃんとした理由があるのを分かって欲しい。オーブンは扱いが難しい。日々やっていないと具合が分からなくなってしまう。いつでも最上のケーキを作るには僕が一人でやるしかない。ケーキを切るのもそうだ。昨日と今日で自分のケーキの大きさが違うのはどういうことだ、なんて不満が生じないようにする為には、順番でやるなんて訳にはいかないだろう?」

「でも、それは誰がやってもいいんじゃないの?」

 ぽつりと零れた三女の呟き。それにさえ彼は機敏に反応した。

「そうかもしれない。しかし、責任は重大だ。リーダーの僕がその責任を負えば、みんなは楽にしていられるよね? 僕はみんなのために責任を負ってあげようと言ってるんだ」

 末弟が全てを言い終えたその時、彼の言葉に疑いを持った者は居なかった。誰もがそれを信じた。誰もがその先にあるだろう未来に希望を見た。そんな彼らの様子を見た末弟は大きく頷くと、微笑して言った。

「それじゃあみんな、明日からよろしくね」




 兄妹全員が同じテーブルに着くのがあまりに久しぶりのことだったから、席の位置を思い出すのにも時間が要った。なんとかようやく着席した彼らは、末弟がキッチンの方から出てくるのを待っていた。

 末弟の指示に従って彼らは買い物を済ませ、生地を仕上げ、食器を準備した。その先、つまりケーキをオーブンで焼き上げ、切り揃えるのは末弟の役割。気が散るといけないという彼の求めに応じ、長男らはキッチンを出て食堂で待つことにしたのだった。

「もうそろそろ、焼けたのかしら」

「匂いがしてきた。多分、今切ってるところだろう」

 そんな言葉を交わしていたのは三女と長男。この程度の会話さえも彼らの間ではどれだけ絶えて久しいものだったか。彼ら五人の間にあった垣根は消えてなくなり、彼らは今、同志として団結していた。

 食堂とキッチンを繋ぐドアがゆっくりと開いた。全員が一斉にそちらを見やる。そこに居たのは、大きな丸皿を持って微笑む末弟。その丸皿の上には、黄金色に光るホールサイズのチーズケーキが──あるはずだった。

「みんな、ありがとう。うまく焼けたよ。さあさあ、早く食べよう」

 末弟がテーブルの中心に置いたお皿の上。誰もが目を疑った。そこにあったのは、既に扇形に切り揃えられた三切れのケーキ。絶句する彼らをよそに、末弟はそれらをてきぱきと更に半分に切り分ける。そしてすっかり薄く小さくなってしまったそれを皆の取り皿に乗せると、彼はおもむろに席に着いた。

「何だよ、これ」

「どうかしたの?」

 そう言った次男に、末弟は笑顔を浮かべたまま平然と言ってのける。

「どうもこうも、何なんだよ。何でこんなに小さいんだよ。おかしいだろ、こんなの」

「そうよ、これじゃ前より全然少ないわ。二口か三口で食べ終わっちゃうじゃないの」

「大体どうして三切れしかないんだよ。ホールサイズで作ったはずじゃないか」

 そんな声が次々に彼らの口を衝いて出てくる。混乱しきった表情を浮かべる兄と姉に対し、しかし末弟はその歯を見せたままこう言った。

「何を言ってるのさみんな。みんなできちんと分けて食べようって言うのに、一体何が不満なの?」

「どういうつもりだ!」

 長男はそう声を荒げて立ち上がった。勢いよく押し出された椅子が倒れ、床に転がって大きな音を立てる。

「残りのケーキはどこにやったんだ。答えろ!」

 今にも殴りかからんばかりの形相で長男は末弟に向かって叫んだ。それでもまだ彼の口の端は上がったまま。

「これでケーキは全部だよ」

「何だと?」

「僕が焼いたのはこれで全部だって言ったのさ。残りなんかどこにもないよ。そんなことより早く食べようよ」

 そして末弟はその手にフォークを取った。自らの理解を超える現実に長男らは言葉を失う。

「騙したな」

 彼らの中でいち早く末弟の言葉の意味を理解した次男は、ぽつりとそう言った。

「騙してなんかいないよ。ケーキを切るのも焼くのもみんな僕に任せたはずだ。じゃあどうやってやるかは僕の自由だよね。リーダーは僕なんだから」

「お前の言うとおりにすれば、俺たちはもっとたくさんのケーキを食べられるって、お前は言った」

「もちろん。みんながもっとたくさんケーキを作ってくれればね」

 怒りでその身を震わす次男に向けられた彼は笑っていたが、しかしその視線は実に冷ややかなものだった。

「ふざけないで!」

 その時、突如絹を裂く声を上げたのは次女。彼女は立ち上がると、キッチンへ通じるドアへと駆け寄った。

「そのドアを開けたら、姉さん、あんたは裏切り者だ」

 だが彼女がまさにそうしようとした直前、身を切るような末弟の声がその背を襲った。裏切り者。その響きは彼女の手から力を奪い、彼女の背筋を凍らせた。

「ねえ、みんなもそう思うよね? 折角僕が同じ大きさにケーキを切ったのに、それじゃ嫌って言うんじゃ」

「違う」

「みんな同じだけ頑張ってるのに、一人だけもっと食べたいって言うなんて。そんなの平等じゃないよ。抜け駆けなんてしたら、それはもう裏切りだよね?」

「違う。そうじゃない。私は――」

 声と勇気を振り絞り、次女は振り向いた。その目に飛び込んできたものは、いつの間にか眼前の小さなケーキに手を伸ばしていた兄妹の姿。何も言わず、ただ黙々と黄金色のそれを咀嚼している。末弟の問いかけに対しての彼らの返答がそれであることは明らかだった。

「うん、そうだよね。抜け駆けなんかするはずないよね。それじゃ姉さんも早く食べなよ」

 僅か二口で自分のケーキを食べ終えた末弟は、立ち上がりざま彼女に向かってそう言った。彼女はもはや頷かざるを得ず、ふらふらとした足取りで自分の席に戻り、おぼろげな手元でフォークを掴む。

「それじゃあ、後は頼んだよ」

 彼女はそう言い残して去っていく末弟の方を見る気にはなれなかった。周りの誰もがそうであり、皆無言のまま、小さなケーキを更に小さくして口に運んでいく。長男すらもまだ半分程度しか食べ終えていない。軋むドアの残響が消えたその時、彼女は思わず呼んでいた。

「お母さん」




「ありがとうね。お前は本当に優しいね」

「構わないよ。気にしないで」

 ベッドにその身を横たえる母親の横で、末弟は満面の笑みを浮かべた。

「お母さんは本当に幸せだよ。こんなにおいしいケーキを食べられるんだから」

 彼女の視線の先、末弟の座る椅子の横にあるつづまやかな黒く四角い机。その上に置かれていたのは、半ホールのチーズケーキを乗せたきらびやかな白く丸い皿。

「どうやって作ってるんだい?」

「みんなで協力して作ってるんだよ。みんな自分から積極的にやってくれるから、たくさん作れるんだ」

 一切の澱みも無く彼はそう言った。

「そう。みんなえらいのね。ねえ、今度お母さんの友達にもひとつ焼いてあげてくれないかい?」

「任せて。いっそ、うちにその人を呼んだらどうだい? どれだけ僕たちがすごいか見せてあげたいな」

「そうね、きっとみんな驚くだろうね」

 末弟はナイフを掴むと、あっという間にケーキを四つに切り分ける。二つは彼に、もう二つは母親に。

「随分と大きいね。食べられるかしら」

 それらはどの一欠けを取っても、彼の兄姉に与えられたケーキより遥かに大きかった。

「多かったら僕がもらうから」

 彼はナイフを皿の端に置き、フォークに持ち替える。それでケーキを一口大に切り出すと、彼はその欠片を母親の口元へと運んでゆく。

「はい、どうぞ」

 勧められるままに母親はそれをゆっくりと口に入れた。彼女はそれをいつくしむように噛みしめ、長い時間をかけて飲み込んだ。末弟もまた、自らの分のケーキを頬張る。口いっぱいに広がる甘く豊かな味を楽しんだ彼は、心の底から満足げに破顔するのであった。


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