第一章 12『赤灯の檻』
保存槽が割れた音は、破裂音というよりも、卵の殻が内側から砕かれる音に近かった。
硬質なガラスが床に散り、透明な培養液が白い床を濡らして広がる。赤い警告灯に照らされた液体は血のように見えたが、匂いは血よりもずっと薄く、薬品と鉄と腐った海水を混ぜたような不快なものだった。
その中から、失敗作たちが這い出してくる。
腕だけのもの。
足だけのもの。
胴体に複数の顔が埋まったもの。
背骨が外に露出し、肋骨を脚のように動かすもの。
人間だったのか、動物だったのか、それとも最初からそういう形で作られたのかすら分からない何かが、濡れた肉を床に擦りつけながら爆たちへ向かっていた。
「……趣味わりぃにも限度があんだろ」
爆はスルトを構えた。
布を剥がされた刀身が、赤い照明を受けて鈍く光る。ロケットミサイルじみた異形の刀身は、普通の剣のように静かではない。柄から伝わる熱と振動が、爆の掌に荒々しく食い込んでくる。
まるで、早く振れと急かしているようだった。
滝壺は爆の少し後ろで宵丸を構える。
黒い刀身は光を反射しない。むしろ、通路の赤を吸い込み、闇の輪郭だけを残しているように見える。彼女の目は冷静だった。だが、その静けさは感情がないという意味ではない。
怒っている。
爆とは違う形で。
静かに、深く、刃の奥に沈めるように。
「照夜、後ろ頼む」
「頼まれなくてもやります」
照夜は端末を片手に持ったまま、もう片方の手を床へ向けた。足元の影が広がり、赤灯に照らされた通路の隙間を縫うように伸びていく。
失敗作の一体が跳ねた。
それは人間の上半身だけを持っていた。下半身の代わりに、何本もの細い骨が蜘蛛の脚のように生えている。肘から先が異様に長く、指先には爪ではなく、金属片のような刃が並んでいた。
天井を蹴る。
壁を蹴る。
視界の端を滑るように移動し、爆の真横へ回り込む。
速い。
爆が気づいた時には、その刃の指が首元へ迫っていた。
「っ、らぁ!!」
爆は咄嗟にスルトを横薙ぎに振る。
重い。
普通の刀なら間に合ったかもしれない。
だが、スルトは爆の腕力で無理やり振り回すには癖が強すぎた。刀身の重さが一瞬だけ軌道を遅らせ、爪の一本が爆の頬を浅く裂く。
痛みより先に熱が走った。
皮膚が切れ、血が飛ぶ。
直後、スルトの刀身が失敗作の胴を捉えた。
刃が入る。
そして、爆発した。
斬撃と同時に火薬じみた衝撃が通路を揺らし、失敗作の上半身が壁へ叩きつけられる。肉片が散り、金属片の爪が床を転がる。
爆は舌打ちした。
「浅いか」
「浅くはないです。過剰です」
照夜が返す。
「床まで割れています」
「細けぇこと言ってる場合か!」
「地下施設で床を壊すのは細かくありません」
言い合っている間にも、別の保存槽が割れる。
今度は三体。
犬のような四足のものが二体。
そして、腕だけで立っている巨大な肉塊が一体。
犬型の失敗作は、喉の奥から泡立つような音を出した。歯がない。代わりに、口の内側が吸盤のようになっており、そこに細かい針がびっしりと並んでいる。
爆が踏み込もうとするより先に、滝壺が動いた。
静かだった。
床を蹴る音すら、ほとんどない。
黒い線が赤い通路を走る。
次の瞬間、犬型の一体の首が落ちた。
切断面から培養液と黒ずんだ血が噴き出す。残った胴体は二、三歩走ってから崩れた。
もう一体が滝壺の背後へ回り込む。
だが、滝壺は振り向かなかった。
宵丸の刃だけが、逆手に返る。
背後へ伸びた一閃が、犬型の顎から頭蓋を割った。
動きが止まる。
滝壺はそのまま刀を引き抜き、床に落ちた肉を見下ろした。
「弱い」
「助かるけど、言い方怖ぇな」
爆が呟いた直後、巨大な肉塊が腕を振り上げた。
腕と呼ぶには太すぎる。
柱だった。
皮膚の下に骨が何本も束ねられており、関節の位置が人間のものとは違う。振り下ろされるだけで、通路の床が砕ける質量。
爆は前へ出た。
「こいつは俺が――」
「避けてください」
照夜の声が割り込む。
影が床を走った。
巨大な腕が振り下ろされる直前、その影が肉塊の足元へ絡みつく。足と呼べるものはない。ただ、肉の底から何本もの骨が杭のように生えて床を掴んでいる。
その一本一本に影が巻きついた。
動きが止まる。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で十分だった。
爆はスルトを両手で握り、真正面から踏み込む。
通路の床が鳴った。
スルトの刀身に熱が集まる。
爆は呼吸を合わせる。
まだ、太陽流剣術と呼べるほど綺麗ではない。型も荒い。力任せで、無駄も多く、万之介が見れば眉をひそめるだろう。
それでも、爆の体は覚えていた。
幼い頃、誰かに握らされた木刀。
何度も転び、何度も怒鳴られ、それでも振り続けた記憶。
顔は思い出せない。
声も霞んでいる。
けれど、言葉だけは残っている。
――振る時は迷うな。迷うなら振るな。振るなら、全部持っていけ。
「紅炎――」
爆の足が床を噛む。
スルトの刀身が赤く燃え上がる。
「一閃ッ!!」
斬撃が肉塊の正面を割った。
刃が入る。
爆発が遅れて走る。
肉の内側から炎が膨れ上がり、巨大な失敗作の胴体が左右へ裂ける。燃えた肉片が壁に叩きつけられ、通路の赤灯が一瞬だけ炎の色に塗り替えられた。
爆は肩で息をした。
頬の傷から血が顎へ落ちる。
だが、倒れた肉塊を見下ろす表情は、勝った者の顔ではなかった。
「……こんなの、何体いんだよ」
答えは、通路の奥から返ってきた。
割れる音。
また一つ。
また一つ。
保存槽が順番に開いていく。
照夜が端末を見た。
「この区画だけで二十七。奥の保管庫を含めれば、もっといます」
「全部相手してたらキリねぇな」
「はい。白仮面を追います」
「でもこいつら放っといたら、外に出るぞ」
「だから、足止めしながら進みます」
照夜の言葉に、爆は一瞬だけ黙る。
足止めしながら進む。
簡単に言っているが、要するに正面突破だ。
爆は口の端を上げた。
「最初からそう言えよ」
「言うとあなたが喜ぶので嫌でした」
「性格悪すぎだろ」
「作戦上必要な性格です」
滝壺が前へ出る。
「行く」
その一言で、三人は動いた。
通路の奥へ。
赤灯の中へ。
保存槽から這い出す失敗作の群れへ。
爆が先頭で道を開き、滝壺が横から襲いかかる敵を切り落とし、照夜が影で足を止める。完璧な連携ではない。むしろ、まだ噛み合わない部分の方が多い。
爆は前へ出すぎる。
滝壺は無言で位置を変えるため、爆が一瞬だけ見失う。
照夜の指示は正確だが、戦場の熱に飲まれた爆が聞き逃す。
それでも、三人は崩れなかった。
研究棟で死にかけた経験。
滝壺との試験。
万之介の視線。
自分たちがまだ弱いという事実。
それらが、今の一歩を支えていた。
爆のスルトが、壁から飛び出した腕を吹き飛ばす。
滝壺の宵丸が、天井を這う顔だけの怪物を縦に裂く。
照夜の影が、床下から伸びた触手を縛り、踏み込んだ爆の斬撃へ合わせる。
赤い通路に、破裂音と斬撃音が重なった。
だが、進むほどに失敗作の形は変わっていく。
最初はただの肉片だったものが、次第に人間に近づいていた。
腕がある。
脚がある。
顔がある。
ただし、表情はない。
目は虚ろで、口は半開きのまま、喉から意味のない音を漏らしている。爆はその一体と目が合った。
若い男に見えた。
いや、男だったのかもしれない。
首から下は獣のように改造され、背中からは無数の骨の棘が生えている。それでも、顔だけは人間のままだった。
爆の足が止まる。
その一瞬、男型の失敗作が跳ねた。
棘が爆の胸を狙う。
「爆!」
滝壺の声。
黒い刃が横から入り、棘ごと男型の胴を切り裂いた。
失敗作は崩れ落ちる。
床に落ちた顔が、爆を見た。
口が動く。
声にはならない。
だが、爆にはそれが「助けて」に見えた。
スルトを握る手が震える。
「……くそ」
照夜が爆の横へ立つ。
「今、止まれば全員死にます」
「分かってる」
「分かっている顔ではありません」
「分かってんだよ!」
爆は叫んだ。
その声が、通路の壁に跳ね返る。
怒鳴った相手は照夜ではなかった。
自分自身だった。
助けたい。
でも、もう助けられない。
斬らなければ死ぬ。
斬っても救えない。
その矛盾が、爆の胸を焼いていた。
照夜は何も言わなかった。
代わりに、端末を操作する。
「映像記録は取っています。名前が分かるものは、後で調べます」
「……ああ」
「だから今は、進んでください」
爆は息を吐いた。
熱い息だった。
そして、スルトを構え直す。
「悪い」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
次の瞬間、爆は前へ走った。
男型の失敗作が三体、同時に襲いかかる。
爆は避けない。
真正面から踏み込む。
一体目の腕を斬り飛ばし、爆発の反動で二体目の胸を打ち抜く。三体目が横から噛みつこうとするが、滝壺の刃がその首を落とす。
照夜の影が通路奥の扉へ伸びる。
「白仮面はこの先です!」
その扉は巨大だった。
研究区画のさらに奥。
貨物搬送用の隔壁。
分厚い金属板が二重に重なり、中央には認証端末が埋め込まれている。扉の向こうから、低い機械音が聞こえる。
搬送装置。
おそらく、保存槽を地下から外へ運び出すためのルート。
爆はそこへ向かって走った。
だが、扉の前に何かが落ちてきた。
天井が割れたのではない。
天井に貼りついていたものが、剥がれ落ちたのだ。
巨大な影。
それは人間の四倍ほどの大きさがあった。
胴体は人間。
腕は六本。
下半身は、無数の節足で支えられている。
顔には目がなかった。
代わりに、額から口元まで縦に裂けた大きな口があり、その中に人間の歯が何列も並んでいる。
他の失敗作とは違う。
明らかに、戦うために作られている。
照夜が低く言った。
「番人、ですか」
「ちょうどいい」
爆はスルトを肩に担ぐ。
「扉ごとぶっ飛ばす」
「やめてください。搬送ルートが崩れます」
「じゃあ、こいつだけぶっ飛ばす」
番人が咆哮した。
音ではない。
空気そのものを押し潰すような振動。
通路の壁にひびが入り、保存槽の残骸が震える。爆の鼓膜が痛み、視界が一瞬だけ揺れた。
その隙に、番人の六本の腕が一斉に伸びる。
速い。
重い。
一本一本が、爆の胴体を潰すだけの力を持っていた。
爆は受けようとして、直前でやめた。
受ければ押し潰される。
足を滑らせ、横へ転がる。
腕が床を叩き砕いた。
破片が飛ぶ。
滝壺が踏み込み、腕の一本を斬る。
だが、刃が途中で止まった。
「硬い」
滝壺の声に、爆が目を見開く。
宵丸で斬り切れない。
番人の腕の表皮は、ただの肉ではなかった。骨と金属と硬化した皮膚が層になっている。滝壺の斬撃でも、深く食い込むだけで切断には至らない。
番人の別の腕が滝壺へ振るわれる。
照夜の影がその腕に絡む。
だが、止まらない。
影ごと引きちぎるように、腕が進む。
「滝壺!」
爆がスルトを投げるように振る。
刀身が番人の腕へ叩きつけられ、爆発する。
腕の軌道が逸れ、滝壺のすぐ横の壁を砕いた。
滝壺は低く身を沈め、番人の足元へ潜る。
宵丸の刃が節足を狙う。
一本。
二本。
三本。
切り落とす。
番人の巨体がわずかに傾いた。
「今です!」
照夜の影が、傾いた体の下へ広がる。
床そのものを黒く塗り潰すように。
番人の足が影に沈む。
完全には止められない。
だが、動きは鈍る。
爆はその隙に距離を取った。
スルトを構える。
息を吸う。
頬の傷が熱い。
胸の奥が煮える。
だが、今度は怒りだけで振らない。
試験で滝壺に叩き込まれた感覚。
万之介に見られた太陽流の構え。
照夜の言葉。
滝壺の刃。
全部を一つの流れとして見る。
番人は強い。
正面から力任せに斬っても、おそらく通らない。
ならば、斬る場所を選ぶ。
硬い腕ではない。
厚い胴でもない。
滝壺が切った節足。
照夜が止めた重心。
崩れた姿勢。
今だけ開いた、首元の隙間。
爆は笑った。
「見えた」
地面を蹴る。
番人の腕が三本、爆へ向かう。
一本目を潜る。
二本目をスルトの峰で逸らす。
三本目は頬を掠めた。
血が飛ぶ。
だが、止まらない。
爆は番人の懐へ入った。
スルトの刀身が赤く燃える。
爆発の熱が柄を通して腕へ逆流する。
痛い。
だが、握り潰す。
「太陽流――」
滝壺の目がわずかに動く。
照夜も息を止める。
爆の構えは、先ほどまでと違った。
荒い。
未熟。
それでも、確かに型になっていた。
「紅蓮割りッ!!」
斬撃が首元へ入った。
刃は浅くない。
爆発は外へ散らない。
切断面の内側へ、火が潜り込む。
次の瞬間、番人の上半身が内側から爆ぜた。
赤い通路に、肉片と火花が散る。
巨体が後ろへ倒れ、隔壁の前に叩きつけられた。
床が揺れる。
天井から細かな埃が落ちる。
爆は着地し、膝をつきかけた。
だが、踏みとどまる。
「……どうだ」
照夜が端末を見ながら言う。
「威力は十分です。騒音も十分です。敵も十分呼びました」
「褒めてんのか?」
「半分は」
「もう半分は?」
「苦情です」
滝壺が番人の残骸を見た後、爆を見る。
「今の、良かった」
爆は一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ笑う。
「おう」
だが、休む暇はなかった。
隔壁の向こうで、機械音が大きくなる。
搬送装置が動き出している。
白仮面は、もう先へ進んでいる。
照夜が認証端末へ走る。
「開けます。十秒ください」
「十秒もねぇぞ」
背後から、残った失敗作の群れが迫っている。
赤灯の中、無数の影が通路を埋めていた。
爆はスルトを構え、滝壺が隣に立つ。
「じゃあ、稼ぎます」
照夜は端末へ指を走らせる。
扉のロックが一つ外れる。
背後の群れが加速する。
爆は息を吐いた。
「滝壺」
「何」
「さっきの、もう一回褒めてくれ」
「嫌」
「何でだよ!」
「集中」
「してるわ!」
失敗作の群れが、二人へ雪崩れ込む。
爆のスルトが火を噴き、滝壺の宵丸が黒い線を描いた。
赤灯の檻の中で、二人の刃が並ぶ。
その背後で、最後のロックが外れた。
重い隔壁が、唸りを上げて開き始める。
その向こうから、白い冷気が流れ込んだ。
そして、遠くで白仮面の声がした。
「まだ追ってくるか。ならば来い」
爆は血の混じった唾を吐き、笑った。
「言われなくても行ってやるよ」




