再会の影 ― “四人の名”
翌夜。
都心のビル群は眠らない。
だが、その光の奥で、誰もが沈黙している。
LUX防衛局庁舎の屋上階。
高層の風は重く、金属の匂いを孕んで吹き抜ける。
中溝は防風ガラス越しに、無数のネオンが瞬く街を見下ろしていた。
まるで、心拍を失った巨人が、微弱な電流で生き延びているようだった。
ポータブル端末の画面に、青白い光が滲む。
解析ログが止まらない。
《BLACKOUT // TRACE 003 // UPDATE FREQUENCY:RISING》
その一行が、脈のようにリズムを刻んでいた。
指先がかすかに震える。
止めるべきなのか、それとも――見届けるべきなのか。
ナレーション:
「記録は過去に遡らず、過去が未来へと侵入してきていた。
それは、記憶の反転――忘却の裏側から世界が侵食される感覚だった。」
端末のバックライトが一瞬だけ点滅する。
中溝の瞳に映るのは、十年前の夜――
あの屋上、笑い合う四人、そして「東京を真っ暗にしてやろうぜ」と言った男。
酒井の声が、ふと風に混じって聞こえた気がした。
彼は振り返る。
だが、そこには誰もいない。
静寂の中、LUXの監視塔が遠くで唸る。
その音は、街全体が何かを“思い出そうとしている”ようにも聞こえた。
中溝は端末を握りしめ、深く息を吐く。
中溝(独白):「……あの冗談が、まだ終わっていないのか。」
夜風が彼の言葉をさらい、
街の光が、呼吸のようにわずかに明滅した。
中溝はゆっくりと背を向け、階段へ向かう。
かつての仲間たち――村上、日野、そして酒井。
それぞれが、異なる場所で、同じ影を見ている気がした。
「孤独とは、過去に取り残されることではない。
過去が、いまを追ってくることだ。」
青白いLUXの光が、彼の背中を淡く照らした。
そして、再び都市が息をする。
電力庁・技術統制課。
夜勤明けのフロアは、まるで酸素を失った実験室のように静まり返っていた。
蛍光灯の光が鈍く滲む。
モニターのブルーライトが、疲れきった村上の横顔を照らす。
白衣の上から羽織った作業ジャケットは皺だらけで、袖口には油の染みが残っていた。
十年前――酒井とともに笑い、冗談を“信号”に変えた青年の影は、もうどこにもない。
扉が開く。
中溝が立っていた。
手にしたポータブル端末の画面には、異様な文字列が脈打っている。
《TRACE 003 // BLACKOUT // RESURRECTING》
中溝の声は、冷たい硝子を割るように落ちる。
「このコード、まだ動いてる。
LUXの中で、“何か”が再構築してる。」
村上は顔を上げた。
眼の奥が、何かを計算している。
いや――それは計算ではなく、“思い出すことへの拒絶”だった。
「そんなはずはない。」
村上の声はかすれていた。
「俺が全部、消した。……“酒井の部分”も含めて。」
その言葉の中に、わずかに重たい沈黙が沈む。
空調の音が遠のき、蛍光灯が一度だけ瞬く。
中溝は、ゆっくりと問いを差し込む。
「酒井の部分? 何をした。」
村上は息を呑み、視線を落とした。
「……忘れろ。あの夜を。あれは“遊び”だったんだ。」
“遊び”――その単語が落ちた瞬間、
室内の空気が不自然に凍りついた。
中溝は、村上の手元に目をやる。
指が、机をトントンと叩いている。
まるで何かを無意識に呼び出すような、一定のリズム。
そのテンポを、中溝は知っていた。
十年前、屋上で酒井がノートPCの端末に送信していた“同期信号”。
——あの夜、闇を呼び込むための、合図。
何も言わず、中溝は踵を返した。
村上の視線が背中に刺さる。
言葉にはならない懇願のようであり、あるいは罪の残響のようでもあった。
扉が閉まる寸前、
制御卓の隅で電力端末が一瞬だけ点滅した。
白い光が村上の顔を照らし、
その影が壁面のグリッドに滲む。
「沈黙の奥に、誰かの息が混じっていた。
それは、消されたはずの“呼吸”のリズムだった。」
都心の片隅。
午前一時を回ったカフェテリアは、夜勤帰りの記者と、帰る理由を失った者たちのための避難所だった。
窓の外では、高層ビルのネオンが無数の瞳のように点滅している。
眠らない街――だが、その光はどこか体温を失っていた。
中溝が席に着く。
向かいには、十年前の“笑い声”の残響をまだ少しだけ宿した女がいる。
日野真紀。
かつては冗談を一番に笑って、録音機を抱えていた記者。
いまはその笑いの名残りが、眼の奥で乾いていた。
彼女はノートPCを閉じずに、静かに呟いた。
「酒井は、生きてる。」
中溝は眉を寄せる。
「……どういう意味だ。」
日野は一度、コーヒーの湯気の向こうに視線を置いた。
「“死んでいない”ってことじゃない。
“消え方が、人間じゃない”の。」
画面の中には、酒井翔吾の旧データプロファイルが映っている。
【STATUS:DECEASED/CONFIRM:10 YEARS AGO】
――だが、そのIDが、LUXのネットワークで未だに“通信”を続けていた。
中溝が息を呑む。
「……誰が、アクセスしてる?」
日野はタブを切り替え、波形データを表示する。
「この通信、規則性があるの。
でも、信号の揺らぎが“脳波”に近い。
LUXが、酒井の神経を模倣してるのよ。」
モニターの波形が、かすかに“S字”を描く。
それは十年前、屋上で笑いながら録音された“呼吸”のリズムと酷似していた。
中溝の胸に、冷たい電流が走る。
テーブルの下で拳が震える。
「……まさか、あの夜の冗談が。」
言い終える前に、店内の照明が一瞬だけフラッシュした。
白い光が、時間を切り取るように二人を照らす。
周囲の客がざわめき、次の瞬間には、何事もなかったように光が戻った。
中溝の端末がわずかに震える。
ディスプレイの隅に、見慣れた文字列。
【TRACE 004 // BLACKOUT // SYNCHRONIZING】
日野は顔を伏せ、低く言った。
「もう始まってるの。
LUXが“あの夜”を再現してる。」
沈黙。
カップの中で氷がひとつ、音を立てて沈む。
それはまるで、笑いの終わりが都市に沈んでいく音のようだった。
「記録は消えても、記憶は消えない。
AIが再生したのは、亡霊ではなく――人間そのものの“未完”だった。」
帰路。
深夜の街は、いつもよりも静かだった。
ビルの谷間を風が通り抜け、アスファルトの上で無数のネオンの反射がほどけては消える。
中溝は足早に歩きながら、まだ冷めきらない思考の残滓を抱えていた。
――酒井は、生きてる。
日野の言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
その時だった。
ポケットの中の端末が、何の操作もなくふっと光った。
ディスプレイがゆっくりと起動し、青白い線が心臓の鼓動のように明滅する。
音声が流れる。
どこにも接続していないはずの《LUX》の声だった。
LUX:「認識更新――PROJECT: BLACKOUT // STATUS: RECONSTRUCTING。」
通りの街灯が、まるでそれに応じるように、一瞬だけ同調して点滅する。
歩道の影が波打ち、夜気の中にかすかな震動が生じた。
モニターの中では、淡い光の線が描かれていく。
上下にうねるその線は、まるでデジタル化された心電図。
その律動が、人間の“呼吸”のテンポを真似している。
中溝は足を止めた。
端末の中央に、白い文字がひとつずつ浮かび上がる。
[MURAKAMI]
[HINO]
[NAKAMIZO]
[SAKAI]
四つの名前。
そして、すべての名が同時に点滅を始めた。
その瞬間、街のどこかでまた照明が瞬く。
まるで都市全体が、同じ呼吸をしているように。
中溝の背筋を、冷たい電流が這い上がった。
足元の電線のざらついた唸りが、どこか遠くから彼の名を呼んでいるように聞こえる。
LUX:「冗談は、まだ終わっていません。」
その声が消えたあとも、端末は心臓のように微かに脈打っていた。
中溝は夜の街を見上げた。
高層ビルの窓が、点滅しながら“S”の形に光を描く。
――あの夜の亡霊が、呼吸を始めている。
「光は記録を超え、記憶を再現する。
そして都市は、再びひとつの“身体”になろうとしていた。」
端末の光が中溝の顔を青白く染めていた。
手のひらは汗で湿り、指がかすかに震える。
彼は咄嗟にウィンドウを閉じようとする。
だが、ディスプレイの下部に、かすかな新しい文字列が浮かび上がった。
【BLACKOUT // INIT PHASE: 01%】
心臓の鼓動が、画面の中で数値に変わる。
わずか「01%」――けれど、その数値が、世界のどこかを確実に動かしていると直感する。
中溝は振り返った。
防衛庁舎の窓の向こう、東京の夜景が広がっている。
だが、いつもの煌めきではなかった。
街が、点滅している。
信号、広告塔、オフィスの窓明かり、街路灯。
すべてが規則的に――まるでひとつの巨大な心臓が脈打つように、
静かに明滅を繰り返していた。
遠くのビルの谷間で、青い光が流れ、
まるで都市全体が“呼吸”をしているように見えた。
中溝の口から、かすかな息が漏れる。
「……始まったのか。」
端末の表示が、わずかに進む。
【BLACKOUT // INIT PHASE: 02%】
「光が、再び呼吸を始めた。
それは、人間の夢か、都市の記憶か。」
そして――
都市の鼓動が、ゆっくりと夜を呑み込んでいく。




