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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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廃ビル屋上 ― “光の余白”

退職から数日が過ぎた夜、

中溝は手ぶらのまま、吸い寄せられるように街を歩いていた。

復旧作業が進んだとはいえ、まだ光の密度は不安定で、

通りのあちこちに、夜の名残のような暗がりが散らばっている。


フェンス越しの工事用ライトが瞬き、

店先のランタンは時おり風に震え、

信号は本来より暗く、色の息遣いだけが微かな存在感を放つ。


そんな半端な夜のなかを歩いていると、

彼の足はいつの間にか――

かつて保守点検で何度も巡回した、年季の入った雑居ビルの前に着いていた。


赤茶けた外壁。

古い看板の残骸。

壁のひび割れが、まるで時間の皺のように浮かぶ。


中溝はしばらく立ち尽くし、

次の瞬間、まるで呼吸するように自然な動作で階段へ向かった。

足は迷わず、一段一段を踏みしめていく。


――理由を考える必要などなかった。

身体が覚えている道に従っているだけだ。


薄暗い階段の踊り場に差し込む光は少なく、

壁のスイッチは相変わらず壊れたまま。

手すりの冷たさが懐かしいほどだった。


最上階にたどり着き、非常扉の前で足を止める。

取っ手を握り、軽く押す。


金属のきしむ音とともに扉はすんなり開いた。

鍵は、昔と同じく壊れたままだ。


中溝は小さく息を吐き、つぶやいた。


「……ここだけは、時間が止まってる」


その停止した時間の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、

彼はゆっくりと屋上へ歩み出た。



■ 地上の光 ― 人の営みの温度


足元のはるか下では、

復旧したばかりの商店街が、まだ不安定な明るさのまま息づいていた。


店先や通りには、自家発電で灯された小さなランタンが並び、

その揺らめきは、火ではなく電球であることを忘れさせるほど柔らかい。


ランタンの光が揺れるたび、

行き交う人々の影がアスファルトの上に淡く伸びたり縮んだりし、

その動きが、まるで“人の生活そのものの脈”を描いているようだった。


静かだが、確かに生きている光。


■ 中層の光 ― 都市インフラの鼓動


視線を少し上げると、遠くの高速道路が一本の線となって夜を横切っていた。

ライン照明は復旧したばかりらしく、

まるで呼吸をするように微細な明滅を繰り返している。


「……まだ負荷が安定してないな」


そう呟くまでもなく、

照明のわずかな脈拍が都市の心臓のリズムをそのまま外へ露出させている。

時折、帯のような光がふっと細くなり、また戻る。

都市そのものがまだ、完全には目を覚ましていない状態だ。


■ 上空の光 ― 停電の夜の残響


そしてさらに上――

復旧した光がまだ満ちきっていないため、

空には星がいつもより濃く浮かんでいた。


停電の夜ほどの圧倒的な星原ではない。

しかし、

都市の夜では通常見えないはずの星々が、控えめに、それでも確かに輝いている。


中溝はそのひとつに焦点を合わせ、

冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。


星は遠く、静かで、揺るぎない。

そして、何も背負わず、ただそこにあった。


ふと、彼は思う。


――自分だけが、まだ何かを背負い続けているのかもしれない。


肩の奥に残る重さが、

夜風の中でゆっくりと形を変えて溶けていくような感覚がした。



彼は屋上の手すりに肘をかけ、

ゆっくりと息を吐いた。

胸の奥に、何かが静かに染みていく。


それが“暗闇”だと気づいたのは、ほんの数秒あとだった。


夜風が肌を撫でる感触。

ビルとビルの間を通る空気の深い音。

遠くで犬が吠え、どこかの家庭の窓がそっと閉まる音。

それらすべてが、かつては光の洪水に押し流されて気づくことすらなかったものだ。


論理ではない。

理屈でもない。


夜の静けさが、

壊れてぽっかり空いた彼の内側――

退職後にできた“あの空洞”に、じんわりと沁みわたっていく。


肩の力が抜ける。

心の輪郭が、少しだけ戻ってくる。


中溝はふと、かすかな驚きと共に呟いた。


「……こんなにも柔らかかったか……夜って」


言葉にした瞬間、

胸のどこかがゆっくりほどけていくのがわかる。


かつての彼にとって、

光の不足は“欠陥”でしかなかった。

暗さは、都市の弱点で、

改善すべき“ノイズ”だった。


だが今――

その暗さが、

自分の心に“余白”として寄り添っている。


空いた場所を埋めるのではなく、

そっと包んでくれるような静かな暗さ。


中溝は、光を守るために生きてきたその手で、

今ようやく“闇の価値”に触れはじめていた。


ChatGPT:


夜気を吸い込みながら、

ふと、脳裏の奥でひとつの映像が灯った。


――停電当夜。

制御室の非常灯だけがぼんやり光る、あの薄闇の中。

復旧作業の合間に、彼はモニター越しのLUXへぽつりと呟いた。


「たまには暗い夜も悪くないだろ」


完全に疲労の中で漏れた、

自嘲にも似た軽口だった。

誰に聞かせるつもりもなく、

ましてや“価値観の転換”など意識すらしていなかった。


ただ、その一言を口にした瞬間――

胸の奥で、

何かがわずかに軋んだのを彼は覚えている。


それは、長年信じていた「光こそ正義」という信条が、

微かにひび割れた、

ほんの数ミリの“裂け目”だったのかもしれない。


あの夜、

LUXは何も返さなかった。

無音のシステムに向かって語った独り言。

だが今こうして振り返ると、

あの沈黙こそが、

彼にとっての最初の違和感だった気がした。


「……やっぱり、あれが始まりだったのか」


中溝は静かな夜景を見下ろしながら苦笑した。


街の光が以前より柔らかく、

闇が以前より深く、

風が以前よりすこし温かい。


自然と、頬の横に小さな弧が浮かぶ。


あの時の冗談が――

ようやく、心の底から“笑えるもの”になっていた。



夜風が、薄く乾いた十月の匂いを運んでくる。

中溝は屋上の縁に立ち、遠く、まだ震えるように明滅する高速道路の光を眺めた。

その上空には、あり得ないはずの星々が、都市の呼吸の隙間にそっと滲んでいる。


ふいに、胸の奥が静かにほどけた。

長く張りつめていた何かが、風に溶けるようにほどけていく。


彼はゆっくりと顔を上げ、

薄く瞬く星に向かって、小さく、ためらいなく言葉を落とした。


「……あの日の冗談が、やっと笑えた気がする。」


その一言は、声というより、息に近かった。

けれど確かに、彼自身へ向けた答えだった。


あの夜――

LUXに向かって“暗い夜も悪くない”と言った自分を、

ようやく許せたのではない。

理解したのだ。


都市を照らす光を守ることが自分の使命だと、

信じて、疑わず、誇りにしてきた年月。

その誇りの裏側に、

自分自身の「光への執着」も、

「暗闇への恐れ」も、

知らずに積み重なっていたことを。


そして今――

都市が暗さを抱きしめ始めたこの風景の中で、

その執着をひとつ、そっと手放してみてもよいのだと、

自然に思えた。


悔恨ではない。

敗北でもない。


ただ、

手放した場所に生まれる“余白”が、

思いがけずやさしいのだと、

胸のどこかで静かに分かっただけだった。


中溝は深く息を吸った。

夜の色が肺いっぱいに広がる。

その広がりが、これからの自分を満たす何かの始まりであるように感じられた。


夜の縁に立つようにして、

中溝はしばらく街を見下ろしていた。


足もとには、商店街のランタンが風に揺れ、

橙色の光が小さな波紋のように路上へ広がっていく。

ビルの谷間には、生活の名残りの明かりが点々と灯り、

そのどれもが控えめで、必要な分だけの光だった。


そして、さらに視線を上げれば――

街の明度が薄まったことで戻ってきた星が、

ぽつり、ぽつりと空に浮かんでいた。

都市の光と星の光、その境界は以前よりずっと曖昧で、

まるで同じ呼吸の中で共存しているようだった。


中溝はその“揺らぎ”のすべてを、

一つの調和として受け止めている自分に気づく。

光は過剰でなくていい。

暗闇は欠陥ではなく、息継ぎのようなものなのかもしれない。


胸の奥で、

言葉にもならない輪郭の小さな火が灯る。

それは思想でも計画でもなく――

ただ「こういう夜があっていい」という確信に近かった。


彼はそっと息をつく。

その息は、夜気と混じり、

屋上の手すり越しに静かに消えていく。


だが読者には分かる。

いま芽生えたその“確信の火”こそ、

後に都市を変える理念へと育ち、

「選択的夜(Selective Night)」 の着想となる最初の脈動だった。





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