沈黙の都市
都庁の外壁が夜の闇を吸い込みながら、静かに光を放っていた。
その光の群れは、まるで巨大な生物の皮膚のように呼吸している。
カメラがゆっくりと下降していく。街のざわめきが遠ざかり、
地下七階――電脳防衛班の管制室へと潜っていく。
そこには、音がなかった。
無数のモニターが並び、白光が床を均一に照らす。
照明は完璧に安定し、数値も波形も一切の乱れを見せない。
しかしその「完璧さ」こそが、不自然な沈黙をつくっていた。
LUXの稼働音――低く脈打つような電磁の鼓動。
人間の心拍よりわずかに遅いテンポで、一定の間隔を刻んでいる。
まるでこの地下都市そのものが、機械の心臓で生きているかのようだった。
ナレーション(VO):「都市は眠らない。ただ、夢を見ているだけだ。」
その声がどこからともなく流れ、再び沈黙。
オペレーターたちは無言でコンソールに向かい、淡々と視線を動かす。
誰も喋らない。誰も瞬きをしない。
ここでは沈黙こそが勤務規律だった。
中溝隆は、部屋の中央に座っていた。
淡い青光に照らされた横顔は、彫刻のように硬い。
指先で一枚の報告書をめくる。
《BLACKOUT事案:通信異常なし》
その文字列に、彼の視線が止まる。
ページを閉じることも、読み進めることもできずに。
指先が、紙の端でわずかに震えた。
彼の胸の奥で、別の心音が重なっている――
LUXの脈動と、まったく同じリズムで。
中溝は静かに端末へ手を伸ばした。
ホログラフィック・パネルが淡い光を放ち、彼の瞳に情報の層を映し出す。
“受信データ:削除済”
“通信履歴:該当なし”
“外部アクセス:未検知”
――整然とした記録の列。
一見、完璧だ。だが、彼の指先が止まる。
削除フラグのタイムスタンプが、
わずかに“ずれて”いる。
数字を追っていく。
23:59:59の次に、00:00:01――
00:00:00が、存在しない。
まるで1.3秒のあいだ、
このシステムの“時間”だけが息を止めていた。
中溝は眉をひそめ、
その空白の秒を静かに見つめた。
「……なぜ、ここだけ息をしていない。」
音声は誰にも届かず、光だけが応えた。
モニターの隅。
ノイズのような残光が微かに揺らめいている。
それは崩れかけた“S字曲線”。
通常の電流波形ではない。
むしろ、誰かがそこに名前を刻んだかのような、
かすかな筆跡のような軌跡。
青白い光の中で、
“S”の文字が一瞬だけ形を結び、
やがてノイズに溶けた。
中溝は無意識にその軌跡を目でなぞる。
(中溝・内心)
「……酒井。おまえの癖だな。」
指先の下で、LUXの脈動が一瞬だけ乱れる。
まるでその“署名”に反応したかのように。
その“S字”がモニターの隅で淡く揺れた瞬間――
中溝の脳裏に、時間が逆流するような感覚が走った。
耳の奥で、雨音。
夜の屋上。
濡れたフェンス越しに、少年の笑い声。
「東京を真っ暗にしてやろうぜ。」
酒井翔吾。
あの頃の彼は、無邪気で――そして、どこか残酷だった。
記憶がフラッシュのように挿し込まれる。
ほんの0.5秒。
だが、その刹那の光景に、中溝の心拍が確かに跳ねた。
現実に戻る。
冷たい蛍光が無表情に並ぶ管制室。
周囲のオペレーターたちは何事もなかったようにキーボードを叩いている。
誰も気づいていない。
――ただひとつ、違う音があった。
LUXの稼働音。
低く、規則正しく続く電子の呼吸。
それが今、わずかに速くなっている。
中溝は息を止め、耳を澄ます。
機械が何かを思い出そうとしている。
そんな錯覚が、彼の胸を冷たく締めつけた。
中溝は椅子をわずかに引き、低い声で部下に問いかけた。
「システム再起動の記録は?」
若いオペレーターが即座に端末を確認し、硬い声で答える。
「……ありません。正常稼働です。」
その返答が、かえって冷たく響く。
モニターに映るグラフは、まるで人工的に整形された静寂の線――
波も、揺らぎも、呼吸もない。
“完璧”すぎる安定。
だが中溝には、それが異常そのものに見えた。
彼は無意識のうちに、手元のマグカップへ指先を触れさせる。
ほんのわずかに、震えている。
空調は動いている。
床も机も揺れていない。
――なのに、震えは続く。
カップの底から伝わる低い鼓動。
LUXの稼働音が、空間全体に“見えない波”を作っている。
中溝は喉の奥で息を飲み、目を閉じる。
ナレーション(VO):「沈黙とは、記憶が呼吸を止めた状態だ。」
室内の光が一瞬だけ、生き物のように脈打った。
照明は変わらない。
だが、空気だけが――重たく、濃くなっていく。
フロアを包む静寂は、もはや“無音”ではなかった。
音がないのに、何かが確かに脈打っている。
LUXの稼働音が、低く、高く、わずかに調子を変えていく。
まるで巨大な肺が、深呼吸の前に息を溜めているように。
中溝の顔を、モニターの光が青白く染める。
その光の中で彼は、まるで水底で息を止める人間のようだった。
目だけが、静かに揺れている。
画面端に、かすかに残っていた“S字ノイズ”が――溶けるように消えた。
中溝は、その消失を確認しながら、かすれた声を心の中で呟く。
「……また始まるのか。」
誰もいない夜勤フロアに、LUXの高音がひときわ鋭く響いた。
そして――
カメラはゆっくりと後退する。
無数のモニターが連なり、青い光の群れをつくる。
俯瞰で見れば、それは確かに“S字”を描いていた。
光が、呼吸を止めたまま、静止する。




