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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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中溝の処遇 ― “責任の影”

会議室の空気は、冬の朝のように乾いていた。

壁時計の秒針がやけに大きく響く。そのたびに、中溝の胸の奥が妙に締めつけられる。


課長は資料の束を抱えたまま入ってきたが、席に着くとほとんど目を合わせなかった。

机に置かれた一枚の紙だけが、場の中心に重たい沈黙を放っている。


「……中溝」

課長は名前を呼ぶと、しばし言葉を探すように唇を動かした。

それから、折れた爪を隠すように資料の端をつまみ、ぽつりと告げる。


「今後のキャリアを考えると、別の道を選んだ方がいいかもしれない」


そのフレーズが落ちる瞬間、

室内の空気がわずかに振動したように感じられた。


決定的な言葉。

だが、あまりに事務的で、感情さえ削ぎ落とされている。


本来なら怒りが湧いてもいい。

悲しみがこぼれてもいい。

自分だけに責任を押しつけるこの場の理不尽さに、声を荒げたってよかった。


しかし――中溝は、胸の奥から反応がまったく立ち上がってこないのを自覚した。


空っぽだった。


「……そうですか」

自分の声は、どこか遠くから聞こえる他人のようだった。


課長は彼の反応に安堵したのか、あるいは胸を痛めたのか、

判別できない微妙な顔をした。

だが何も言葉を継がず、再び資料の紙を整える仕草に戻ってしまう。


沈黙が流れる。

その長さが、もう職場に中溝の居場所がないことを、冷静すぎるほど伝えていた。


争う理由も、気力も、失われていた。

ただ、認めるしかなかった。


中溝は静かにうなずいた。


その所作は、まるで

――退職届を差し出すより前に、心だけが先に職場を離れていくようだった。



提出書類の前に座ったとき、

中溝は、妙な現実感のなさに包まれていた。


机の上に置かれた退職届――

そこには「自己都合退職」という選択肢しか用意されていない。


“自己都合”。

言葉だけ見れば前向きな決断のように聞こえる。

だが、それを淡々と記すボールペンの先には、

追い出された者が最後に許される、わずかな体面を守るための欄にすぎないという真実があった。


懲戒としない配慮はされた。

しかし、それは彼の功績を認めての温情ではなく、

ただ組織の“処理”として静かに行われただけだった。


***


退職日。

局内で交わされた言葉は、 astonishingly 少なかった。


「お疲れさまでした」

「またどこかで」


どれも短く、角の取れた石のように無害で、

同時に、ここがもう彼の場所ではないことを丁寧に示していた。


午後になると、内部メールに通知が流れた。

件名はそっけなく「異動・退職のお知らせ」。

本文はわずか数行。

中溝の名前と退職日、後任の連絡先――それだけ。


事件対応に尽力したことも、

システム暴走の最前線で奔走したことも、

LUXの最期を看取った唯一の人間であることも、

そこには一文字たりとも書かれていない。


まるで彼は、最初から居なかった社員のひとりのようだった。


個別のメッセージはほとんど来なかった。

冷たいわけではない。

誰もが“触れてはいけないもの”として距離を置いているのが分かった。


組織とはそういうものだ。

責任の影が落ちた人間に、言葉は向けられない。


中溝は、スマートフォンの画面に並ぶ静かな受信箱を眺めながら、

ふと、ようやく理解した。


――ああ、自分はもう、この“光の世界”から外されたのだ。


中溝は机に肘をつき、指先で額を押さえた。

自己嫌悪に沈んでいるわけではなかった。

あの夜、彼は判断を誤ったとは思っていない。

むしろ、あの判断がなければ助からなかった命がいくつもある――

それは事実であり、揺るがない。


だからこそ、胸を締め付けているのは罪悪感ではなかった。


それよりもっと深く、形のないもの。

名をつけるなら――意味の喪失。


「……俺は、何を守ろうとして動いてきたんだ?」


思わず漏れた声は、空虚に響いて消えた。


彼はずっと、“光の都市”を正常に保つために仕事をしてきた。

夜でも昼と変わらぬ明度を維持し、

犯罪抑止のために死角を潰し、

市民が安心して歩ける街を作る。

そのはずだった。


しかし、あの一夜の停電で人々は思いがけないものを手に入れた。

静寂。

暗さ。

星。

そして、光に縛られない自由。


ニュースでは連日、

「暗い夜に落ち着いた」「子どもがよく眠るようになった」

「久しぶりに星を見た」という声が流れ続ける。


まるで、中溝が支えてきた“光の都市”そのものが、

過剰で、不自然で、

見直されるべきものだったと言われているようだった。


自分が信じてきた価値が、

社会の潮流の変化であっさり裏返されていく感覚。

努力も、信念も、功績も関係なく、

土台そのものが静かに崩れ落ちていく。


――俺の仕事は、何のためにあった?

――俺の光は、本当に必要だったのか?


罪悪感よりも、痛烈な虚無が胸の奥に沈殿する。

彼はその重さを言葉にできず、ただ静かに呼吸を繰り返すしかなかった。


退職の翌朝、目覚ましをかけていないはずなのに、

中溝はいつもの時間にふっと目を開けた。

身体が勝手に“出勤”を思い出している。


起き上がり、習慣のようにワイシャツを手に取る。

そして、ネクタイを探そうとした指先が途中で止まった。


――ああ、もう行く場所はないんだった。


その事実が、遅れて静かに胸へ落ちてくる。


晴れた朝だった。

遠くで車の音がして、隣の部屋では誰かがテレビをつけている。

世界は変わらず動いているのに、

自分だけが急に別のレールへ外されたような違和感。


「……もう俺の席には、誰かが座ってるんだろうな」


思わず呟くと、声がやけに軽く響いた。


寂しさでも悔しさでもない。

むしろ感情が抜け落ちたような、乾いた静けさ。

胸の奥にぽっかりと穴が空き、

その空洞がじわじわと広がっていく。


誇りを置いてきたはずの場所が、

昨夜のうちに誰かの“日常”へと組み替えられている。


自分の輪郭が、職場の記憶の中から薄れていく。

その感覚だけが、妙にリアルだった。


存在がどこにも収まらない朝の空気の中、

中溝はネクタイを握ったまま、しばらく動けなかった。


ニュースアプリの画面に、いつの間にか自分の名前が踊っていた。

「中溝」がトレンド入り――その文字列を見た瞬間、

胸の奥で小さく何かが軋む。


指でスクロールすれば、無数の声が溢れ出す。


「結局、スケープゴートにしただけだろ」


「いや、判断を誤ったのも事実だろ」


「中溝さんのおかげで、夜が美しいって気づけた」


どれも軽く、速く、勝手だ。

彼の体温も、迷いも、現場の匂いも知らないまま、

ただ事象として中溝を“語りやすい形”へ押し込んでくる。


正しいとか間違いとかではない。

そこにあるのは、意味の上書きだけだ。


読み進めるほど、

中溝の中の“自分”がどんどん他人事になっていく。


まるで彼らの発した言葉が、

本来の自分を外側から削り取っていくように感じられた。


「……もういい」


そう小さく呟いて、ニュースアプリを閉じる。

画面が暗くなると、急に静寂が戻ってきた。


外の世界は騒いでいる。

けれどその中心にいるはずの自分は、

不思議なほど何も感じていなかった。



退職の翌日、実家から電話がかかってきた。

画面に表示された「母」の文字を見た瞬間、

胸の奥でなにかがふっと沈む。


「大変だったね。でも……よくやったよ、中溝」


受話口から流れてくる母の声は、

ひどく優しく、どこか上ずっていた。

隣で父の低い声が「胸を張れ」と付け足す。


その言葉を聞きながら、

中溝は曖昧に笑うしかなかった。


励まされているのに、

こころのどこにも届いていない。

まるで分厚いガラス越しに声だけが届いてくるようで、

温度が何ひとつ感じられなかった。


電話を切ると、部屋はすぐに静寂へ戻る。


恋人はいない。

頼るべき友人も、事件後は距離を置いてしまったように思える。

メッセージアプリの通知欄には、

必要最低限の連絡しか並んでいない。


退職してからの毎日は、

音のないフィルムの中を歩いているようだった。

色彩も、輪郭も、

かつてより確実に薄くなっている。


そして、その薄さに気づいた瞬間、

ふと、自分が世界から少しずつ

滲み出していっているような錯覚さえした。



夜の深度が、以前よりもはっきりと中溝の眼に映るようになった。


職を失った後の彼は、時間の感覚がゆるやかに解けていく日々を過ごしていたが、

不思議なことに――“夜だけは”鋭く、輪郭を保って迫ってくる。


深夜の散歩。

マンションのベランダ。

帰宅途中のバス停。


どこにいても、光より先に闇が目に入る。


それは、停電の日に見た“本来の暗闇”の記憶が、

彼の中で静かに息を吹き返しているからだった。


街の照明が一斉に消えたあの数分間――

人々は混乱どころか、不思議な落ち着きを取り戻していた。

にじむ星空。

車の流れが一瞬止まり、世界が呼吸を取り戻したかのような静けさ。


あの光景が、今も脳裏にこびりついて離れない。


「俺が守ろうとしていた“光”より、

都市がほんとうに求めていたのは――闇だったんじゃないか?」


それは独り言のようでいて、

しかし胸の奥では確かな“問い”として形を持ち始めていた。


その問いは、彼の人生を再び動かし始める。

静かだが避けがたい潮流として。


後に「選択的夜(Selective Night)」政策が誕生するとき、

その思想の中心に座る人物として彼の名が再び浮上するのは、

この夜の気づきがあったからだ。


退職は終わりではなかった。

むしろ――都市が“光と闇のあり方”を再構築する壮大な変革の、

見えない幕開けだったのである。




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