数日後の東京 ― “復旧しない光”
停電から、まだ数日のことだった。
主要幹線の電力は戻り、鉄道はゆっくりと運行を再開し、
病院の窓にも再びわずかな光が灯り始めている。
それでも――東京は、完全な明るさを取り戻してはいなかった。
街灯は一本おきに沈黙し、
歩道には影が途切れ途切れに落ちている。
その影は、どこか都市の呼吸の跡のように見えた。
かつて夜ごとに空を染め上げていた巨大モニターは、
ほとんどが今も暗い面を街に向けたままだ。
信号の色は通常より控えめで、
赤も青も黄も、輪郭を抑えた吐息のように薄闇へ溶けていく。
――復旧したはずの都市には、まだ“夜の濃度”が抜けていない。
それは事故の名残でも、機能不全でもなく、
むしろ都市そのものが、過剰な光量に戻ることを
どこかで拒んでいるようにすら思えた。
■ 2. 市民の体感
人々は驚くほど早く、この半暗闇に馴染んだ。
むしろ多くが、復旧途中のこの“弱い夜”を歓迎すらしていた。
「静けさが戻った感じがするよな」
「暗い方が落ち着く」
そんな声が道ばたで自然に交わされる。
SNSには、停電の夜に見えた星の写真や、
暗闇の中で初めて耳にした家族の寝息、
遠くを走る車のタイヤ音の透明さについての投稿が溢れはじめた。
子どもたちは、懐中電灯を手に、
“いつもより暗い街”を小さな冒険のように歩き回る。
影が濃いほど、世界の輪郭がくっきりと見えることに
彼らは早々に気づいてしまったのだ。
停電の夜に一度、正統な形で“夜”を取り戻した東京は、
その実感を忘れられずにいる。
光が完全に戻ることを、
まるで都市自身がためらっているかのようだった。
● 1. 導入の経緯
停電から日が経つにつれ、
行政庁の調査会議には、奇妙な一致を示す報告が集まりはじめた。
――市民の多くが、あの“暗闇”を失ってしまったことを惜しんでいる。
研究者は、無灯の夜を体験した市民の脳波データを示しながら語った。
「暗さが、一時的に心理を安定させていた可能性があります」
医療関係者の声はさらに明瞭だった。
不眠症の症状の緩和。
自律神経の安定化。
デジタル依存傾向の減少。
高齢者の情緒的安定。
――光が戻ったことで、むしろ市民の一部が“落ち着きを失った”。
その報告を受け、行政はようやく気づく。
都市の過剰な光は、機能のためでも安全のためでもなく、
ただ“習慣”として灯り続けていただけなのだと。
ならば、光の使い方をもう一度考え直す時期なのではないか。
そうして、議論はひとつの新しい概念へ収斂していった。
**“光ではなく、暗さを選択する福祉”**の必要性に。
● 2. 制度の概要
新政策の名は――
“選択的夜(Selective Night)”。
地域住民の合意のもとで、
夜間の照明や広告パネルの出力を、一定時間だけ意図的に落とす制度。
とはいえ、完全な暗闇ではない。
道路の最低限の安全灯は残し、
緊急対応の設備も保護したうえで、
欠かされるのは“光の量”ではなく、むしろ“光による刺激”。
疲弊した都市に、静けさの余白をつくるための、新しい呼吸装置だった。
目的はただひとつ――
暗さを、必要とする人が選べるようにすること。
それは光と闇のバランスを取り戻すための、
人間側からのささやかな反攻のようでもあった。
● 3. 市民の反応
制度は、驚くほど自然に受け入れられた。
「静けさの時間を買いたい」
「星を見ながら散歩できるなら、その方がいい」
「むしろ、あの日の暗い東京が恋しい」
SNSにはそんな声が増え、
一部の地域では、予約制で“夜の静寂”を享受するプランまで検討されている。
企業側も、新しいメリットに気づき始めた。
――広告のない夜は、逆に記憶に残る。
暗闇は、鮮烈な印象をつくるキャンバスになるのだ。
マンションの一部では、住民が協議のすえ
**“星空時間帯”**という特区を自主管理で導入し、
照明を落として夜空を保護する試みまで始まっていた。
都市は、ただ明るさを押し付ける存在ではなくなった。
光と闇が交互に息をする、
生き物のような共同体へと、静かに生まれ変わろうとしていた。
● 1. 道端の風景 ― “光だまりの消えた街で”
夕暮れを過ぎると、街は静かに薄闇へ沈んでいく。
一本おきに点く街灯が、歩道にゆるやかな影の帯をつくる。
ベビーカーを押す若い母親が、その影の道をゆっくりと進みながら小さく笑った。
「この暗さなら、すぐ寝てくれるの。眩しいと泣いちゃうからね」
かつて巨大広告塔が白々と照らしていた交差点の「光だまり」。
そこは今、光源を失い、ぽっかりと空いた暗い広場になっている。
しかし、数人の会社員がその場所に三々五々集まり、
薄闇の中でコーヒーを片手に楽しげに立ち話をしていた。
――まるで光より、闇の方が人を寄せるかのように。
さらには、普段は街の明るさに埋もれて見過ごされていた寺の本堂。
柔らかい灯がゆらぎ、黒い空気の中で異様に存在感を主張している。
近くを歩く人々が、その灯を一度振り返っていく。
“見ようとしなければ見えなかった光”が、
いまは自然に、目の奥へ滲み込んでくる。
● 2. 職場・生活の変化 ― “光を使わない働き方”
オフィス街では、ビル管理会社が新たな告知を貼り出した。
《夜間は全館を自動調光します。残業抑制のため》
薄暗くなった廊下では、スーツ姿の社員たちが
「早く帰ろうか」「なんか…これでいい気がするな」と笑い合っている。
ファストフード店の内部は、以前の鋭い蛍光灯とは違う、
柔らかい低照度モードに切り替わっていた。
温かみのある影がテーブルを撫で、そのせいか、
客たちは以前よりも長く腰を落ち着けている。
小さな声で本を読む学生、静かに話す老夫婦。
“暗さの居心地”が、確かな賑わいを生んでいた。
また、ビルや駅では警備員たちが暗がりに目を慣らす訓練を始めていた。
ライトを消し、廊下の奥でじっと佇んでいる。
「これも仕事か」と呟きながら、
彼らは薄闇の中で、足音や衣擦れの音に集中して耳を澄ます。
――都市が“光より聴覚を信じる夜”を取り戻そうとしていた。
● 3. 星の兆し ― “空が戻ってくる夜”
そして、ふとした夜。
停電のとき、あの鮮烈な星空を見た人々の記憶をなぞるかのように、
東京の上空には再び、かすかな星が流れ出した。
電光広告が減り、ビルの屋上照明が間引かれたことで、
光害が少しずつ後退したのだ。
ニュースは静かに報じる。
「双子座、都心で観測される」
「天の川の一部が、数十年ぶりに視認可能に」
高層マンションのベランダに集まった家族が、
子どもに星座アプリの代わりに、
夜空そのものを指差して教えている。
「この暗さが、星を連れてきてくれたんだね」
市民の生活に、暗さは侵食することなく――
むしろ静かに寄り添い、
忘れかけていた“本来の夜”をそっと手渡していた。




