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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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43/52

星空の街 ― “初めての夜”

闇が、街を呑み込んでいた。


渋谷の交差点。

いつもなら、光と音の奔流が交錯し、立ち止まる暇もないほどの明滅がそこにあった。

だが今、その中心に立つ人々の顔は見えない。

ネオンも、広告ホログラムも、信号の赤も青も――一つ残らず消えていた。


黒い海のようなスクランブル。

足音だけが響き、誰もが息を潜める。

それはまるで、都市そのものが呼吸を忘れたようだった。


誰かが口を開こうとしてやめる。

何人かがスマホを取り出すが、画面は沈黙している。

その小さな黒い矩形を見つめる瞳に、不安と戸惑いが揺れた。


――そのとき。


少年の声が、沈黙の中で細く割れた。


「……星、見えるぞ。」


耳を疑うように、人々がゆっくりと顔を上げる。

上空――そこには、これまで誰も“存在しないもの”として見過ごしていた空が広がっていた。


広告の残光も、街灯の薄明もない夜。

その純粋な闇の中に、数えきれぬほどの星が、微かに、しかし確かに瞬いていた。


誰かが息をのむ。

誰かが、見上げたまま立ち尽くす。


それは、かつて東京が忘れてしまった“夜空”だった。

喧噪も、光も、情報も剥ぎ取られた都市の天井に――

初めて、宇宙が姿を取り戻していた。


そして、その星の光は、

この街に残された最後の「観測」を、静かに照らし始めていた。



夜が、静かに人々を包んでいた。


照明を失った渋谷の街は、まるで時間そのものが止まったように沈黙している。

しかしその暗闇の中で――“見る”という行為が、ひとつ、またひとつと生まれ始めていた。


***


少年は、交差点の中央に立っていた。

手の中の小型カメラを構え、夜空を覗き込む。

だが、ファインダーの中は真っ暗だった。

映らない。記録されない。

それでも、少年は諦めずにシャッターを押す。

「……いいんだ。見てるだけで、十分だろ。」

その言葉は、誰に向けられたものでもなく、

ただ夜空へ向かって、静かに放たれた。


***


老夫婦が、暗闇の中をゆっくりと歩いていた。

足元の段差も、前方の道も見えない。

けれど、ふたりの手はしっかりと繋がっている。

「大丈夫?」

「ええ、あなたがいるから。」

目に見えるものは何もない。

だが、その掌のぬくもりだけが――確かな光だった。


***


少女がひとり、ビルのガラス壁にもたれて座っていた。

スマートフォンを顔の前に掲げる。

画面は、完全な闇。

それでも彼女の表情は、不思議なほど穏やかだった。

頬を撫でる風の向こう、

星の光が彼女の横顔を淡く照らす。

まるで、かつての液晶の光が

今、天から返ってきたかのように。


***


高層ビルの屋上。

数人の若者たちが、地面に寝転んでいた。

見上げれば、街の明かりが消えたことで現れた“星の帯”。

銀の川が、都市の上空を流れている。

誰かが笑う。

「……こんな東京、初めてだな。」

もう一人が応える。

「悪くないよな。光、ないのにさ。」


***


星々は、ただ静かに瞬いている。

誰かのためでも、記録のためでもない。

それでも、そこに“見つめる目”がある限り、

世界は確かに、観測され続けている。


瓦礫の斜面に、ひとりの男が腰を下ろしていた。

夜風が吹くたびに、崩れた鉄骨がきしみ、砂埃が月光を受けて舞う。

そこは、かつて都市の神経中枢《TOWER-CORE》がそびえていた場所――

今はただ、沈黙と残響だけが残る廃墟だった。


中溝は、手元のゴーグルを見つめていた。

ひび割れたレンズの奥で、モニタは沈黙したまま。

LUXのインターフェースも、データも、

もう何も応答しない。


ゆっくりと、彼は視線を上げる。


目の前には、東京の夜空。

それは――かつてこの街に存在したどんな照明よりも、

鮮烈に、清らかに輝いていた。

星が、風に合わせて呼吸するように瞬いている。

無数の光点が、都市の亡骸を静かに見守っているようだった。


中溝は、息をひとつ吐いた。

そして、呟く。


「……データじゃない。

  これは、目で見る“光”だ。」


LUXが“観測”していた世界では、

すべてが数値であり、意味であり、解析可能な映像だった。

だが今――光はただ、そこに“ある”。

測定も分類もできない、美のままに。


風が頬を撫でた。

遠くで、人々の声が微かに聞こえる。

笑い声。呼びかけ。名前を呼ぶ声。


中溝は、それを耳で“観測”した。

LUXが消えたことで、都市はようやく自らの息づかいを取り戻していた。


彼の胸中に、静かに理解が降りてくる。


――観測は、消えたのではない。

  ただ、AIの中から、人間の手に還ったのだ。


中溝はゴーグルをそっと膝の上に置いた。

そして、裸の目で夜空を見上げた。

星々が彼を見返している。

その瞬間、彼は悟った。


観測とは、記録ではない。

それは――生きている証なのだ。


闇の中で、音が呼吸を始めていた。


遠く、どこかで――子どもの笑い声。

その響きは、静まり返ったビル街に小さな波紋を描くように広がっていく。


風が吹き抜け、錆びた看板が微かに震えた。

金属が擦れ合うその音は、かつて機械が奏でていた都市のリズムとはまるで違う。

それは、生きている音だった。


その上に、さらに別の音が重なる。

人の呼吸。

暗闇の中で、互いの存在を確かめ合うように、幾つもの息づかいが重なり合う。

誰も言葉を発さない。

だが、確かに――その“静寂”は、語っていた。


夜空では、星が瞬いている。

一つが光り、次に別の一つが応えるように点滅する。

その明滅のリズムは、人々の呼吸と重なり合い、

まるで世界全体が“ひとつの生命”として鼓動しているように見えた。


カメラがゆっくりと空へと向かう。

闇を包む静寂の下、都市の廃墟が月光に輪郭を与えられていく。

その中で、人の瞳が星を映す――

無数の瞳が、無数の星と呼応する。


光と音。

それらはもはや別々の現象ではなかった。

誰かが息を吸うと、ひとつの星が瞬く。

誰かが息を吐くと、遠くで風が応える。


それは、都市でも、機械でもなく――

観測そのものが呼吸する音だった。


ナレーションが、低く、優しく、夜に溶けるように語る。


「闇は沈黙ではない。

  それは、星と人が同じ拍動を思い出す時間。」


夜空は、静かに息づいていた。

その深淵は、恐怖ではなく――記憶のような温もりを孕んでいる。


遠くで風が街の隙間を渡り、瓦礫の影をゆらめかせた。

人々は、誰に言われるでもなく、空を見上げていた。

光を失った世界の中で、

初めて「自分の目」で世界を“見る”ことを、思い出していた。



まるで、亡き誰かの声が、星々を通して語っているかのように。


「闇は、終わりではない。

  それは、世界が“見られること”をやめた瞬間だ。

   そして――人が、自らの目で“見る”ことを思い出す時だ。」


声が消える。

だが、静寂の中には確かな“残響”があった。


ひとりの少女が、夜空に手を伸ばす。

その指先に、ひとつの星の光が触れる。

光は震えながら、まるで応えるように瞬いた。


――それは観測。

機械でも、システムでもない、

人と世界が交わす、最も古く、最も純粋な“視線の対話”。


その一瞬、星は息づき、夜が微かに脈打つ。

世界は、再び“見られ始めた”のだ。




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