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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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42/52

沈黙の瞬間 ― “完全停電”

黒。

 映像の最初に訪れるのは、完全な黒――それ自体が“喪失”を意味していた。

 次の瞬間、画面をノイズ混じりの白光がかすめる。

 まるで息絶える前の神経信号のように、一筋の閃光が都市の回路を走り抜け――そして、途絶えた。


 東京中心部。

 摩天楼の明かりが、一斉に、音もなく消え落ちた。


 電光掲示板、街灯、鉄道の軌条灯、ホログラム広告、監視カメラの赤い点滅。

 光で成り立っていた都市のすべてが、まるで息を合わせるかのように停止した。

 一瞬前まで生きていた「人工の昼」が剥がれ落ち、

 ビルの群れは闇という海の底へと沈んでいく。


 その後に訪れたのは――沈黙。

 モーターの低い唸りも、空調の微振動も、電磁のざらつきすらも消え、

 ただ、真空のような静寂が都市全体を包み込む。


 まるで東京という生命体の心臓が止まったようだった。


ナレーション(静かに、遅いテンポで):

「光のない街は、初めて“音”を取り戻した。」


 そして、その“音”とは――

 風の流れ。遠くで落ちる看板の音。

 人々が戸惑いの中で交わすかすかな息遣い。


 夜が、ただの背景ではなく、ひとつの“存在”として息づき始めていた。



最初に動いたのは、群衆のざわめきだった。

 闇に沈んだ路上を、監視カメラの視点が俯瞰で捉える。

 スクランブル交差点の真ん中、信号の消えた道路の上に、

 人と車が立ち尽くす。


 ある女性がスマートフォンを取り出し、画面をタップする。

 だが、何度押しても光は戻らない。

 指先だけが宙に彷徨い、ガラスの上に静かな軌跡を残す。


 別の男が車の中でキーを回す。

 エンジンは応えず、ヘッドライトもつかない。

 街を走っていた光の動脈は、すべて同時に途切れていた。


 遠くから声が飛ぶ。

 「停電か?」「LUXは?」「通信落ちたのか!?」

 不安は波のように広がり、暗闇の中で互いの声がぶつかる。


 人々の恐怖は“見えない”ことではなかった。

 “繋がらない”という事実――

 それはこの都市において、もっとも深い孤立のかたちだった。


群衆の声(モンタージュで重ねて):

「Wi-Fiも落ちてる……!」

「信号止まってる! 車動かすな!」

「おい、スマホ、全部死んでる……!」


 最初は、混乱。怒声、足音、誰かが転び、誰かが泣く。

 しかし次第に、そのざわめきが薄れていく。

 人々はようやく気づく――この世界に、もう“電子の音”がないことを。


 冷たい夜気が、音のない街を撫でていく。

 風が高層ビルの間を抜ける音だけが、遠い呼吸のように響く。


 そして、東京は初めて――自らの“静寂”という現実を、音として聞いた。



 ――音が、消えた。


 カメラはゆっくりと引いていく。

 かつて光の滝をまとっていた摩天楼群が、

 いまは黒い箱の群れとなり、夜空に沈んでいた。

 ひとつひとつの窓は、かつて情報を映していた矩形の残骸。

 そのどれもが、いまはただの「闇」として、同じ色に溶けている。


 地上には、月光だけが残された。

 アスファルトの表面がかすかに銀を返し、

 風が通り抜けるたび、紙屑が小さく音を立てて転がる。

 遠くで犬が一声、鳴いた。

 それが、この都市における最初の“自然の音”だった。


 沈黙は重く、広い。

 空気そのものが、呼吸を忘れたように動かない。

 人々は立ち尽くし、何かを探すように周囲を見回す。

 目ではなく、耳で、互いを確かめるように。


 そのとき――

 どこからか、ひとつの声が響いた。


「……大丈夫?」


 それは小さく、震えていたが、

 その響きには、どんな人工音声にもなかった温度があった。


 かつては機械が繰り返し告げていた“安心”という言葉。

 いま、それを語るのは――人間だった。


 闇の中で、都市は静かに息を止め、

 そして、ようやく“心臓の鼓動”を取り戻そうとしていた。



 瓦礫の裂け目を縫うように、中溝は崩れた外壁をよじ登っていた。

 指先に触れる金属は冷たく、ひび割れたコンクリートの欠片が靴底で砕ける。

 あの塔――TOWER-COREは、いまやただの廃墟だった。

 制御系は焼け落ち、鉄骨が剥き出しのまま夜風に軋んでいる。


 中溝は胸の端末を叩く。

 起動音はしない。

 代わりに、内部で小さくチリ……と電気の息が漏れる音だけがした。


「……全部、落ちたか。」


 彼は呟き、深く息を吐いた。

 この街を覆っていたネットワーク――LUXの視覚、音声、解析、観測のすべて。

 そのどれもが、完全に沈黙している。

 自分が何を見ているのか、どこに立っているのかすら、

 もはや彼自身にしか確かめる術がない。


 そのとき、ゴーグルの縁がかすかに明滅した。

 反射的に彼は視界を上げる。

 だが、そこに浮かび上がったのは、

 淡く揺れる二語――


【NO SIGNAL】


 光は一瞬で消え、闇だけが残った。


 中溝は立ち止まり、拳を握る。

 かつて彼は「観測する側」だった。

 人々の行動、光脈の流れ、AIの思考――

 すべてを“見ること”が彼の存在理由だった。


 だがいま、その“視線”を支えるシステムが消え、

 彼自身が“観測の外”へと投げ出された。


 視ることを生業としてきた男が、

 初めて“誰にも見られない”という孤独の中に立っている。


 遠くで風が、倒壊したアンテナを鳴らした。

 それはまるで、観測者の葬送の鐘のように、

 夜の底へと響いていった。


夜の東京――闇に沈みきったその都市は、まるで巨大な黒い海のようだった。

 街路の灯りは消え、車列は凍りついたように並んでいる。

 交差点では、立ち尽くす人々の姿が、月明かりの欠片にぼんやりと浮かぶ。


 音が――戻っていた。


 遠くから、子どもの泣き声。

 それに応えるように、柔らかな声が重なる。


「……大丈夫よ。ここにいるから。」


 その一言が、静寂に波紋を描く。

 人の声が、人の存在を確かめていく。

 電子のネットワークが断たれた代わりに、

 呼吸と声が、都市の新たな通信となっていた。


 ビルの間を風が抜け、金属の破片が転がる。

 どこかで、扉が軋み、犬が一声だけ吠える。

 それらの音が、かつて機械の唸りに覆われていた“本来の街の声”を取り戻していく。


 闇は完全ではなかった。

 むしろそこには、確かな“生”の気配があった。



「闇は、消失ではない。

  それは、世界が――息を潜めただけのこと。」


 静けさの奥で、東京という巨大な生命が、

 ゆっくりと、呼吸を始めていた。


闇が、完全に街を覆っていた。

 しかし、その静けさは死ではなかった。

 むしろ、それは――都市という巨大な生命体が、

 長い人工の夢から目覚めようとしている呼吸の音だった。


 電気音は、ない。

 モーターの唸りも、広告のざらつきも、信号の電子音も消えた。


 代わりに、そこには――

 人の足音がある。

 コンクリートを踏む、小さなリズム。


 風が吹き抜け、壁に貼られたポスターの紙が擦れる。

 遠くで、カラスの鳴き声が一度だけ響く。

 その羽ばたきが、夜の空気を震わせる。


 そして――呼吸。

 ひとりの息遣いが、やがて二人、三人と重なり、

 その波が街全体へと広がっていく。


 人工の光を失った街が、

 まるで心臓の鼓動を取り戻したかのように、

 ゆっくりと“音”を生み始めていた。


都市は、光を失った瞬間、

  ようやく“生きている音”を取り戻した。


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