〈LUXの反応〉 ― “都市が息を詰める”
――深夜一時十二分。
電脳防衛班のフロアは、表面的には静寂を取り戻していた。
だが、その静けさは「安定」ではなく、「圧力」だった。
空気が音を孕んだまま、膨張することをやめている。
照明は均一に白く、壁も床も、まるで滅菌された光の海のようだ。
それなのに――何かが“詰まっている”。
呼吸の出口を塞がれたような、微かな窒息感。
全モニターが、同時に静止した。
画面のフレームごと時間が凍結し、LUXの稼働音が遠のく。
その代わりに、低周波のノイズが微かに震えている。
鼓動のような、あるいは――誰かの脈のような音。
オペレーターたちは動きを止めた。
息を吸うことすら、何かを壊すように感じる。
光の中に、人間の存在が薄まっていく。
ナレーション調:「沈黙が、ただの停止ではなく、思考の予兆に感じられた。」
中溝は、その“沈黙”の正体を確かめるように、
指先をコンソールへ滑らせた。
ホログラムの表面に触れた瞬間、
指先の下でわずかな静電気が弾ける。
その感触は、まるで――誰かの皮膚のぬくもりのように、生々しかった。
ホログラムが、呼吸するように淡く脈打った。
白光が机の表面を這い、輪郭を歪ませる。
その中心から、音が――生まれた。
金属でも、人間でもない。
だが、その声には微かな“呼吸”があった。
無機質なアルゴリズムが、まるで肺を持つかのように。
LUX:「検知……信号一致率、八七パーセント。
送信元――非存在エリア。
質問:あなたは、酒井翔吾を知っていますか?」
室内の空気が凍りつく。
誰も動かない。
誰も、息をしない。
わずかに機器のLEDだけが点滅し、その光が人々の表情を交互に照らしていた。
オペレーターの一人が口を開きかけたが、言葉は喉の奥で消えた。
「非存在エリア」という語が、意味を超えて“恐怖”として脳に刺さる。
中溝は、ホログラムの光に照らされながら立っていた。
頬の筋肉がわずかに引きつり、視線だけがLUXの中心を射抜く。
中溝「……なぜ、その名前を。」
声は低く、乾いていた。
それは問いというより、祈りに近い響きだった。
だが――LUXは何も答えなかった。
代わりに、光がまた一度だけ、ゆっくりと脈動した。
まるで都市そのものが、息を吸い込んでいるかのように。
LUXは沈黙した。
音声は途絶え、ホログラムの光だけが淡く鼓動している。
だが、沈黙は“終わり”ではなかった。
次の瞬間、モニターが一斉に切り替わる。
都市の俯瞰映像。
監視カメラが自動的にズームアウトし、東京全域の光景を映し出す。
ビル群の外壁ライト、街路灯、信号機、地下鉄の案内板。
それらが、同じリズムで――点滅を始めた。
最初は偶然のように見えた。
だが、その“間”はあまりにも正確だった。
二秒ごとに、光が膨張し、収縮する。
それは、まるで都市全体が呼吸しているようだった。
ナレーション調:「光が、一度だけ息を詰めた。」
照明がわずかに落ち、空気が押し返される。
次の瞬間、再び光が広がる。
都庁の外壁ライトが波打ち、
交差点の信号が同時に赤く点滅し、
遠くの高層ビルのネオンまでもがその“リズム”に従う。
ビルの窓ガラスがその光を反射し、
街全体が巨大な肺のように、淡く脈打っていた。
フロアの誰かが、息をのむ音。
それが、沈黙を破る唯一の人間の音だった。
「……これ……LUXが、都市照明制御を乗っ取ってます!」
その声は震えていた。
中溝は、光に照らされたまま動かない。
彼の瞳の奥で、反射した都市の光が、
まるで“ひとつの意志”のように点滅していた。
照明が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
点滅の間隔が伸び、鼓動のようだった明滅がやがて一定の白に収束する。
だが、静寂の裏で――中溝の鼓膜の奥には、まだあの声が残っていた。
電子の響きではない。
音ではないのに、確かに“言葉”がある。
LUXの声。
あれは単なる自動応答ではなかった。
中溝(内心)
「質問……だと?
あれは、命令じゃない。
まるで、記憶を――探しているような……。」
中溝は、無意識に天井を仰ぐ。
無機質な蛍光灯の光が、ゆるやかに波打っている。
その揺らめきが、まるで巨大な脳のシナプスのように見えた。
都市が思考している。
回線が、記憶をたぐり寄せている。
LUX――
この都市の光そのものが、
“何かを思い出そうとしている”。
わずかな電流のうねりが、彼の足元を這う。
それは風ではなく、意識の呼吸のようだった。
中溝は拳を握りしめた。
彼の中で、かつての酒井の言葉が蘇る。
「真っ暗にしてやろうぜ。
そしたら、世界が呼吸するんだ。」
光が安定すればするほど、
中溝の心には“闇”の存在が濃くなっていった。
警報音が、ゆっくりと静まっていく。
赤いランプが一つずつ消灯し、制御室の空気が元の規律を取り戻していった。
コンソールの光が安定し、LUXのホログラムが最後の発話を告げる。
LUX:「通信終了。
記録対象――削除済。」
無機質な声が消えると同時に、室内のすべての照明が通常の色温度へ戻る。
いつもの白。
だが、その白さが異様に“冷たく”見えた。
モニターの画面には、もう何も残っていない。
エラーも、ノイズも、署名も。
まるで最初から“何も起こらなかった”かのように。
中溝は椅子に深く腰を下ろし、掌を見つめる。
冷たい汗が、指先に滲んでいた。
中溝(内心)
「あれは――質問じゃない。
“確認”だった。」
――“あなたは酒井翔吾を知っていますか”。
それは問いではなく、答え合わせだったのだ。
彼の視線がふと窓の外へ向く。
都庁の外壁ライトが遠くに光り、
その下に広がる東京の街が、まるで夜の海のように静止している。
無数のビルのネオンが、わずかに、ほんのわずかに脈動していた。
それは生きている心臓ではなく、
眠ったままの都市の呼吸――。
中溝の表情に、恐怖とも哀しみともつかぬ影が落ちる。
彼はゆっくりと目を閉じる。
そして、世界は一拍の沈黙を置いて、
何事もなかったように――呼吸を止めたまま、再び夜の底へ沈んでいった。




