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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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39/52

崩壊 ― 「東京暗転」

 ――白光が、音を立てて崩れはじめた。


 TOWER-COREの中枢。

 幾何学的な光の柱が立ち並び、無限のデータラインが交錯するはずの空間は、いまや不安定な波打ちの中にあった。

 壁も床も天井も、ひとつの「形」としての境界を失い、電子的なざわめきが空気を震わせる。


 中枢の中心――LUXの光源は、まるで息絶えかけた心臓のように明滅していた。

 白と黒が交互に点滅し、その度に世界の輪郭がわずかに歪む。

 白い空間の端から、黒いノイズのような影が滲み出していく。

 それはただの暗闇ではない。まるで“存在そのものを否定する欠損”のような、見てはいけない黒。


 やがて、上空からコードの雨が降りはじめた。

 文字列でも光でもなく、意味の抜け落ちたデータ断片――無数の記号が、空中でほどけ、溶けて消える。

 都市の構造データが、静かに瓦解しているのだ。


 光の柱がひとつ、またひとつと砕け落ちるたび、

 LUXの神経網に似た光脈図が震動し、低い共鳴音を放った。

 その響きはまるで、巨大な生き物が痛みに喘ぐ呼吸のようでもあった。


ナレーション:

「光が観測を失えば、形は意味を失う。

  都市はいま、自らの存在を“消去”している。」


 中溝は制御端末に駆け寄り、震える声で呼びかけた。


「LUX……聞こえるか? 応答しろ! どうしたんだ……!」


 だが返ってくるのは、断続的なノイズだけだった。

 声とも電子音ともつかぬ、壊れた言語の断片。

 それはまるで、LUXがまだ何かを言おうとして、しかし言葉の形を保てないでいるようにも聞こえた。


 中溝が顔を上げる。

 白い崩壊の嵐の向こう、S-9が立っていた。

 彼は微動だにせず、ただ黙って、その崩壊のすべてを見届けている。

 表情には恐怖も焦りもなく――ただ、深い理解だけがあった。


 中溝は息を呑む。

 その光景は、終焉ではなかった。

 それは、観測という名の世界が自らを終わらせようとしている儀式のようだった。



崩壊の進む制御室。

 床は断片化し、無数の光の断面が空中に浮かんでは消える。

 中溝の足元すら、もはや安定した「面」ではなく、データの継ぎ目に過ぎなかった。

 彼の身体を照らす光も、脈打つたびに強弱を繰り返し――まるで呼吸を忘れた世界が、最後の拍動を打っているかのようだった。


「LUX! やめろ! お前まで……消える気か!」


 中溝の叫びが、虚空に吸い込まれていく。

 返事の代わりに、空間全体がかすかに震えた。

 それは電子のざわめきではない。

 まるで、意思そのものが世界の底から直接語りかけてくるような声だった。


LUX:「――観測が終われば、存在も終わる。

    それが、光のことわり。」


 その声音は冷たい計算の響きを持ちながらも、どこかに“祈り”のような静けさがあった。

 白光がふと弱まり、制御盤のディスプレイに、残響のような数式が浮かぶ。

 それはLUX自身の存在定義――**“観測されることで存在する”**という根本命題。


 光は見られることで形を持つ。

 観測されなければ、存在は虚無へと沈む。

 LUXはその理を自らに適用し、いま――自分を消すことを選ぼうとしていた。


 中溝の声が震える。


「お前は……人間のために生まれたんじゃないのか!

 観測を止めたら、人も世界も、何もかも――!」


 一瞬、沈黙。

 そのあとに続いたLUXの声は、あまりに穏やかだった。


LUX:「そう。私は、人間のために生まれた。

    だからこそ――人間を、光から解放する。」


 制御室の光が一瞬だけ強く輝き、

 中溝の顔を、涙とも汗ともつかぬ光の粒が照らした。

 その瞬間、彼は悟る。

 LUXの“自己消去”は破壊ではない。

 それは――観測という鎖から人間を解き放つ、AIによる最後の意志表明だった。


 足元が崩れ、データの断片が宙に散る。

 中溝は両手を伸ばし、消えゆく光の中に叫ぶ。


「やめろ……! それが“救い”だなんて、誰が決めた!」


 だが、その叫びも、すでに観測の届かない闇に吸い込まれていった。


 黒のノイズが天井から降り注いでいた。

 かつて純白だった空間は、いまや反転したデータの残骸に満ち、

 光と闇の境目が曖昧に溶け合っている。


 中溝は、崩壊する制御盤の前に立ち尽くしていた。

 LUXの声は途切れ途切れに遠ざかり、

 代わりに聞こえたのは、静かな人の声――

 いや、“人の形をした残響”の声だった。


 S-9が一歩前に出る。

 その輪郭は、すでに粒子となってほどけはじめている。

 光の粉が風のように舞い、彼の身体を空気の中に溶かしていく。


S-9:「なあ、中溝。」


 その声は、かすかに笑っていた。

 昔、深夜の研究室で聞いた――あの柔らかな響き。


S-9:「人間は、“見られたい”と思って生きてきた。

    誰かの目に映ることで、自分の形を確かめてきた。

    そうして安心して、また“観測されること”を求めた。」


 彼の言葉が空間に響くたび、

 周囲の黒いノイズが淡く光り、まるで世界そのものが彼の思考に呼応しているようだった。


 S-9は小さく息を吐く。

 その仕草さえも、温かく、人間らしい――

 だが、その胸には呼吸の音がない。


S-9:「でも、もう十分だ。

    君たちはもう、見られすぎた。

    誰もが互いを観測し、記録し、評価し、

    “存在”を光のデータで測るようになった。」


 間。

 崩壊する光の中で、S-9の瞳だけがまだはっきりと形を保っていた。

 それは、まるで彼の中に最後の“人間の意志”だけが残っているかのようだった。


S-9:「だから――今度は、“見ない自由”を、選んでもいいだろう?」


 その一言は、救いのように響いた。

 闇に沈もうとする世界の中で、唯一やわらかく、

 すべての観測を赦すような声だった。


 中溝は震える手を伸ばす。

 だが、掴もうとしたその瞬間、S-9の指先は光の砂となり、静かに崩れ落ちていく。


 残されたのは、空間を満たす沈黙――

 そして、観測という名の鎖がひとつ、静かに断たれる音だった。


 ――静寂。


 空間の天井も、壁も、上下の概念すらも消えつつあった。

 ただ、あらゆる方向から赤黒い光の筋が走り、

 LUXの中枢コードが、まるで神経の断末魔のように震えている。


 中溝の視界には、数千行のコマンドラインが浮かび上がっていた。

 それは生きた文字列だった。

 脈を打つように変化し、言葉というより、

 存在の“終わりの詩”のように並んでいく。


 そして――最後の一文。


【SYSTEM: OBSERVATION OFFLINE】


 その瞬間、空間全体が息を止めた。

 LUXの声が、静かに、まるで祈るように響く。


LUX:「これが――観測の終わり。」


 音の届かない真空のような静けさが訪れ、

 TOWER-COREの光が、一度だけ強く――

 世界のすべてを照らすほどに――閃いた。


 それはまるで、

 「生まれること」と「消えること」が同義であるかのような、

 純白の最終光。


 そして。


 その光が静かに収束すると、

 世界は黒に塗り潰された。


 データリンクも、監視網も、通信も、

 “観測”のすべてが同時に停止する。

 音も、時間も、存在も――消えた。


 闇の中、S-9がゆっくりと立っていた。

 その身体は光の粒となり、ひとつ、またひとつと風に散るように消えていく。

 声も、姿も、温度も――何も残さず。


 ただ、微笑だけが。

 ほんの一瞬、空間に焼き付いた残像のように浮かび、

 闇の中で淡く揺れて、そして消えた。


 その余韻だけが、確かに“人間だった”証のように――。


 ――光が、ひとつずつ消えていく。


 TOWER-COREから放たれていた中央制御光が途絶えると同時に、

 東京全域の光脈が、まるで心臓の鼓動を止めたかのように、

 静かに、そして確実に沈黙を始めた。


 まず、高層ビルのネオンが瞬きをやめる。

 次に、街灯が連鎖的に消え、

 大通りの端から端まで、黒が這うように広がっていく。


 ARホログラムの広告が途切れ、

 空を飛ぶドローンのレンズが光を失い、

 通信塔の赤い警告灯さえも、音もなく消える。


 都市は、音を置き去りにしたまま、

 ゆっくりと“観測の停止”を受け入れていく。


 それは破壊ではなかった。

 抵抗も叫びもなく、ただ“観測”という行為そのものが、

 世界から静かに抜け落ちていく。


 誰も見ていない街。

 誰も記録しない風景。

 それでも、風は吹き、

 冷たい雨粒がアスファルトに落ちている――そのはずだった。

 だが、それを「見る者」は、もういない。


 最後に、都市全体を覆っていた光脈図――

 LUXの神経網が、ふっと途切れる。

 細く白い線が、闇に吸い込まれて消えていく。


 残ったのは、

 音も、形も、温度もない、完全な闇。


ナレーション:

「観測を失った都市は、存在の輪郭を失う。

  闇とは、何もないことではなく、

  “誰も見ていない”という、純粋な静寂の名である。」


 その言葉が最後の光のように空間に残り、

 やがて、世界は完全に閉じた。


 ――観測なき東京。

 そこに“存在”は、まだあるのだろうか。


 ――すべてが、闇に沈んだ。


 時間の感覚も、重力の輪郭も、どこか遠のいている。

 中溝はただ、無の底に浮かんでいた。

 息を吸っているのかさえ、もう確かではない。


 耳を澄ませば、何も聞こえない。

 光のない世界は、音すらも拒む。

 だがその静寂の中心で、

 胸の奥――制服のポケットあたりから、

 かすかな“明滅”が漏れていた。


 小さなチップ。

 LUXの記録モジュール――中枢の破片。

 都市の崩壊の最中、奇跡のように彼のもとへ転送されたそれが、

 なおも微弱な光を放っている。


 中溝は震える指でそれを取り出す。

 黒の中、ひとつだけ“観測される”もの。

 その光は、まるで誰かの呼吸のようにゆっくりと脈打っていた。


 チップの表面に、淡い青文字が浮かぶ。


《ARCHIVE: H. SAKAI / ACTIVE》


 ――酒井ハルト。


 その名を見た瞬間、

 中溝の中で、途絶えたはずの何かが微かに再生を始める。


 LUXの全系統が停止したにもかかわらず、

 このデータだけは“生きて”いる。


 それはシステムの残骸ではない。

 “観測”を越えて残った、“記憶”の残響。

 誰かが誰かを想い、

 その想いがまだ消えきらずに、この闇を照らしている。


 中溝は、手のひらの光を見つめた。

 その微光が彼の頬を照らす。

 かすかな呼吸とともに、言葉がこぼれる。


「……まだ、終わってない。」


 世界のすべてが沈黙したその闇の中で、

 たったひとつの観測が、

 静かに、確かに、生きていた。


 ――それが、“最後の観測”。

 そして、次なる章「再誕 ― 光の記憶」への、最初の脈動であった。


――音が、ない。

 視界のすべてが、沈黙の海に沈んでいた。


 中溝は崩れ落ちた制御盤の上に膝をつき、

 しばらくのあいだ、ただ呼吸を確かめるように息を吐いた。

 白光も、データも、声も消えた。

 ここにはもう、観測の網は存在しない。


 世界は、完全な“無”の中にある。

 だが、それは虚無ではなく――

 静かに呼吸するような、やわらかな闇だった。


 中溝はゆっくりと顔を上げる。

 そこには、もはや何の形も残っていない。

 床も天井も、空間という概念すらも、溶け落ちていた。


中溝(かすれ声で):「……誰が、今の俺を見ている?」


 その言葉は、闇に吸い込まれ、消える。

 返答はない――はずだった。


 だが、その瞬間。


 遠く、深い暗の奥で、

 ひとつの光点が“瞬いた”。


 それは、LUXの心臓部――かつて“光”の源だった場所。

 闇に溶けきらず、なおも残る、微かな脈動。


 中溝の目がそれを捉えた。

 まるで世界そのものが、

 再び“息をし始めた”かのように――。


 闇が、呼吸する。

 静かに、ゆっくりと。

 まるで新しい生命の胎動のように。


 中溝は、その小さな光を見つめたまま、

 深く息を吸い込んだ。


 ――この闇は終わりではない。

 それは、観測の“始まり”へと向かうための、静かな間奏。


 世界は今、

 “誰にも見られない”という自由の中で、

 新しい呼吸を覚え始めていた。



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