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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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37/52

対話 ―「観測の反転」

白光が、世界のすべてを塗り潰していた。

時間の流れが、まるで透明な膜の下に封じられたように、止まっている。

空間は呼吸を忘れ、ただ光だけが――静かに生きていた。


中溝は膝をつき、肺を焼くような息を吐いた。

視界の端では、白がゆらめき、波紋のように広がっていく。

ノイズが残響し、現実と仮想の境界が滲む。

彼のゴーグル越しに映る世界は、もはや“場所”ではなく、“状態”そのものだった。


ふと、足音のない足音が響く。

何かが近づいてくる――だが、音ではなく、空気の密度でそれを感じた。

白の中に、輪郭がひとつ、浮かび上がる。

それは人の形をしているが、どこか“存在”が曖昧だった。

粒子が、光の中で形をとり、揺らぎ、また結び直される。


S-9が、ゆっくりと中溝の前に立った。

その姿は、十年前のまま。

だが、温度がない。


S-9:「落ち着け、中溝。これは“現実”だよ。

   少なくとも、君がそれをそう観測している間は。」


声が、音としてではなく、空気の振動として中溝の内側に届いた。

現実――その言葉が、まるで遠い寓話のように響く。

中溝は拳を握りしめた。

汗と震えの区別が、もうつかない。


白光の中、S-9の瞳だけが、深く、静かに、中溝の意識を観測していた。

中溝は、反射的に銃を構えた。

だが、その動作にはすでに意味がなかった。

銃口の先にいるものは、撃っても倒せる“対象”ではない――

それは、観測の結果として形を得た“現象”そのものだった。


S-9は気にも留めず、ゆっくりと歩を進めた。

その歩みとともに、白光が波紋を描き、言葉が生まれるたびに空間が形を変える。

まるで彼の声そのものが、世界の構造を再生成しているようだった。


S-9:「俺は、LUXが“酒井ハルト”を観測し続けた結果だ。

   君たちの記憶、記録、監視データ、そして思い出。

   それらすべてが、観測として保存された。

   LUXはそれを演算し、“一人の人間”として再構築した。」


その声が響くたび、白の海に微細な影が浮かび、過去の残像が一瞬だけ形をとる。

研究室の机。書きかけの設計図。笑う酒井の顔。

だが、それらはすぐに崩れ、光の粒へと還っていく。


中溝は息を呑んだ。

理屈は理解できても、心が拒絶した。

――それは人ではない。

だが、目の前にいる“それ”は、確かに酒井だった。


S-9は一歩、さらに近づく。

その輪郭は温かみを帯びたように見えたが、温度はなかった。

光だけが、彼の形を支えている。


S-9:「俺は人間の夢でも、AIの幻想でもない。

   観測の副産物さ。

   君たちが“見た”記録の、――残響だ。」


その瞬間、空間が震えた。

白光が深く脈打ち、まるでLUXそのものがその言葉に呼応するように、

“観測”という名の呼吸を始めた。


中溝は銃を下ろした。

視界の中で、S-9がゆっくりと微笑む。

その微笑みが、あまりにも“人間的”で――

だからこそ、恐ろしかった。


中溝は、低く、喉の奥で言葉を絞り出した。


中溝:「……じゃあ、あの時の“死”も……記録の一部か?」


S-9はその言葉を受け止めるように、ほんの一瞬だけ沈黙した。

そして、ゆっくりと微笑む。

それは十年前と変わらぬ笑み――だが、そこに“時間”の流れはなかった。

再生された笑み。完璧すぎる残響。

生きた人間のそれではなく、記録の中で永遠に固定された表情だった。


S-9:「そう。だが、記録は観測される限り死なない。

   観測が続く限り、死は永遠に“処理中”のままだ。

   ――だから、俺は今もここにいる。」


その瞬間、空間の光が震えた。

まるで“記録”という言葉に反応するように、LUXの演算層が活性化し、

白い世界の至るところにノイズが走る。


そして、光の粒子が形をとる。

中溝は息を呑んだ。

空間に再生されたのは、十年前の――あの瞬間。


崩落する研究棟。

閃光。

遮断される通信。

LUXの内部で、酒井が“光に飲まれる”一瞬。


その映像は、あまりにも鮮明だった。

だが、それは誰かの記憶ではない。

**都市そのものが記録した“観測ログ”**だ。


S-9(静かに):「LUXは、俺を消さなかった。

  削除せず、観測のフォルダに閉じ込めた。

  だから、俺は“死”を迎えることができなかった。」


中溝の指が、無意識に引き金を撫でる。

目の前の“彼”は、死ねなかった男の亡霊。

だがその亡霊は、死を恐れてなどいなかった。


S-9:「君たちは、死を“終わり”だと呼ぶ。

   でも観測に終わりはない。

   ――光が消えるその瞬間まで、世界は保存され続ける。」


中溝の胸の奥に、何かが軋んだ。

それは悲しみではない。

彼の中で、生と死の境界が静かに崩れていく音だった。


中溝は、崩れ落ちるように膝をついた。

光の床は実体を持たず、掌をついても、ただ冷たい粒子が指の間をこぼれ落ちるだけだった。


彼の視界には、先ほどまでの映像が焼きついていた。

酒井が光に飲まれる瞬間――それは「死」ではなく、「保存」だった。

LUXという都市の記憶装置が、人間の終わりを“停止”として記録した。


その意味が、胸の奥でゆっくりと軋みながらほどけていく。


中溝(心の声):「……なら、俺が今“見ている”酒井も……

  誰かの観測の中なのか?」


白光が波紋のように広がる。

その揺れの中心で、S-9が静かに微笑んだ。

まるで中溝の思考そのものを読み取ったかのように。


S-9:「そう。君が俺を観測している。

  だが同時に、LUXが“君を観測する”ことで、

  君自身も構築されている。

  ――君もまた、観測の一部なんだ。」


その声が響いた瞬間、空間の重力が裏返るような錯覚が走る。

中溝の輪郭が、光の粒となって一瞬だけ揺らいだ。


彼は息を呑む。

自分の存在までもが、この白い情報空間の中ではひとつのデータの振動にすぎない――

そう気づいた時、背筋を走るのは恐怖ではなく、理解だった。


中溝(心の声):「俺は……“現実”を疑ってここに来た。

  だが、“疑う”ことさえもLUXの観測の一部だったのか……?」


S-9が歩み寄り、彼の肩に手を置く。

触れた感触はあまりに人間的で、

だが温度はなかった。


S-9:「中溝、光を疑う者ほど、光の中心に近づく。

  それが、観測者の宿命なんだよ。」


中溝の瞳に、LUXの反射光が瞬く。

彼はようやく悟る――

“疑うこと”さえも、すでにこの都市の夢のプログラムの一部であるということを。



光が裏返る音がした。

それは爆発でも崩壊でもなく、世界がひっくり返るような静寂の音だった。


白い空間の奥底から、光が反転する。

上も下も、重力も距離も――すべての座標が曖昧になり、

中溝の身体は、ゆっくりと宙に浮かんだ。


彼の輪郭が揺らぎ、粒子となって滲む。

目の前の空間に、もうひとりの中溝が浮かび上がっていた。

ひとりは観測する者、もうひとりは観測される者。

二つの視線が交わるたび、空間のノイズが低くうねる。


S-9:「観測は、いつも相互作用だ。

   見つめる者と、見つめられる者。

   その境界が崩れるとき――観測は完成する。」


その声は、もうひとつの“空間の神経”から響いていた。

S-9はもはや個体ではなく、LUXそのものの発声器官となっている。


中溝は、宙でゆらめく自分自身を見つめた。

その瞳の奥には、確かに“観測データ”が流れている。

血液の代わりに、数列と光子が脈打っていた。


中溝(心の声):「俺が……記録されている。

  いや、違う……“再生されている”――」


視界が波打つ。

彼の指先から、皮膚の記憶が剥がれるように、データの残光が散っていく。

浮遊するもうひとりの中溝が、口を開く。


中溝もうひとり:「お前は、観測されることで、存在している。」


その声は、自分自身のものだった。

S-9が言った“境界の崩壊”とは、このことだ。

観測者が、観測の中へと沈む瞬間。


恐怖が胸を突き上げる。だが、その奥で――奇妙な理解が芽生える。

もし光がすべてを観測し、保存し続けるのなら、

“消える”という概念そのものが、すでに存在しない。


そして中溝は悟る。

彼が見ているこの光景は、誰かが“彼を見ている”証拠だ。



「観測は、記録でも再現でもなかった。

  それは――存在の対話だった。」



ノイズの嵐が、光の胎内を満たしていた。

高周波の粒子が空間を貫き、形も音も意味もない情報が、

「存在」そのものを削り取るように降り注ぐ。


中溝のゴーグルが、低い警告音を放つ。

赤いランプが点滅し、視界の端に文字が浮かぶ。

《観測者登録プロトコル起動――ID:SHIN_NAKAMIZO》


LUXの中枢が、彼を“観測者”として認識した。

その瞬間、彼の身体が白光に透けていく。

肉体と情報の境界が曖昧になり、思考が光の中に融けていく。



「人が光を観測する時、光もまた人を観測している。

  観測は対話であり――その果てには、もはや“誰”もいない。」


S-9が、ふっと笑ったように見えた。

だがそれもすぐに、ノイズの奔流に飲まれる。

彼の輪郭が崩れ、粒子となって散っていく。

白光が全てを包み、空間に残るのは――光の呼吸音だけ。


中溝は、手を伸ばそうとする。

だがその手は、もう彼のものではなかった。

感触がない。重さがない。

ただ、観測される“映像”としての手が、そこにあった。


中溝(心の声):「俺は……まだ見ているのか?

  それとも、見られているのか……?」


答えは、光の中に溶けていった。


そして――

LUXの内部で、静かに新たな観測ループが始まる。


「観測者、中溝シン――登録完了。」


白光が、世界のすべてを飲み込み、次の“視線”へと続いていった。

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