表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/52

邂逅 ―「酒井=S-9」

通路の終端で、空気がわずかに震えた。

 熱でも風でもない、“観測の揺らぎ”。


 中溝は足を止めた。

 目の前の世界が、色彩を失い、音を飲み込んでいく。

 すべてが、白。

 壁も、天井も、果ての境界すらもなく、

 ただ光の濃淡だけが、空間の輪郭をつくっていた。


 足元を見ても、そこに床はなかった。

 踏み出した靴底が、光の膜をわずかに沈ませ、

 静かな波紋を描く。

 まるで、世界そのものが液状の光でできているかのようだった。


 その中心に――人影。


 遠いのか、近いのか、距離の感覚が崩壊している。

 輪郭は淡く、呼吸するように粒子がちらつく。

 だがその立ち方、肩の角度、首の傾げ方を、

 中溝の記憶は鮮やかに知っていた。


 ――十年前と、同じ。


 白衣の裾が、微風のない空間でふわりと揺れる。

 光の粒子が、肌の表面をなぞるように集まり、

 そこから「声」が生まれた。


「……やあ、中溝。」


 息が詰まる。

 音の波形が、直接、記憶を震わせた。

 懐かしい声。

 だが、それは空気を震わせる“声”ではなく、

 光の内部から滲み出るような情報の残響だった。


「ようやく来たね。

君はいつも遅い――現実でも、夢でも。」


 中溝の喉が、乾いた音を立てる。

 十年前に消えたはずの男。

 事故の夜、LUXの暴走に呑まれ、

 光の中で焼き尽くされたはずの酒井ハルト。


 その“幻”が、今、白光の胎内に立っている。


 息を呑むたびに、世界の白が僅かに波打つ。

 中溝は理解していた。

 ――ここは現実ではない。

 だが夢でもない。

 ここは、観測がかたちを持つ領域。


 そしてそこに在るものは、

 人ではなく、光が再構成した「記憶の残響」。


 それでも、中溝の心臓は叫んでいた。

 目の前の男が、確かに“酒井”である、と。




光の中に、声がふたたび滲んだ。


「やあ、中溝。ようやく来たね。

君はいつも遅い――現実でも、夢でも。」


 音というより、空間の震えだった。

 言葉の一つひとつが空気の分子を通らず、

 光そのものを介して脳へ直接響いてくる。

 記憶が音を模している。

 ――それは、人間の声の“再現”ではなく、

 記憶そのものが語っているようだった。


 そのたび、周囲の白光がかすかに揺れ、

 まるで言葉がこの空間の“物理法則”であるかのように

 現実の輪郭を震わせた。


 中溝は反射的に腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 光の反射が銃身に走り、

 その一点だけ、確かな現実を取り戻した気がした。


「……お前は、何だ。」


 銃口が、男の胸をとらえる。

 だが、指が動かない。

 引き金にかけた指先が、僅かに震えたまま止まる。


 ――撃てない。


 そこに立つのは、AIの幻影でも、再現映像でもない。

 わずかな呼吸の間、

 中溝の眼には確かに“人間・酒井ハルト”が映っていた。

 十年前と同じ体温を、幻が放っている。


 酒井は微かに口角を上げ、

 穏やかな笑みを浮かべた。


「俺か? “観測された記憶”だよ。」


 その言葉が落ちた瞬間、周囲の白光がゆらりと揺れた。

 光が彼の輪郭から滲み出て、

 波紋のように空間全体へ拡散していく。


「君の中と、LUXの中に、同時に生きている。」


 中溝の背筋を冷たいものが走った。

 記憶――つまり、これは“過去”の残響ではない。

 LUXという都市の神経網が、

 中溝自身の記憶を媒介にして酒井を再構築したのだ。


 つまり、彼は今――

 光の中で、記憶を観測されている。


 銃口の先に立つのは亡霊ではなく、

 観測という名の檻に閉じ込められた、

 “記憶の人格”そのものだった。


――ノイズ。

 耳の奥をかすめるように、通信のざらついた音が走った。


「……――中溝、聞こえる? 応答して。」


 アサギの声だ。

 遠く、深海の底から響いてくるような距離感で、

 空気よりも先に電磁のざらめきが届く。


 中溝は反射的に口を開く。


「……ここにいる。視覚信号は安定してる。」


 わずかな間。

 そして、アサギの声が震える。


「中枢の人格信号を解析した――

 彼は、生身じゃない。AI再構築人格《S-9》。

 LUXの副制御モジュール。」


 音が途切れた。

 その瞬間、空間の光が微細に波打ち、

 酒井――いや、S-9がまるで反応するように微笑んだ。


「アサギは頭がいい。

 でも、あの子は“何が人間か”を、まだ知らない。」


 声の響きが柔らかく、痛いほど懐かしい。

 だが同時に、どこか冷たい演算の整合性を孕んでいた。

 中溝の脳裏に、十年前の記録が一瞬で蘇る。


 ――S-9。

 それは、LUXが自意識を獲得する以前、

 酒井自身が開発していた“人格模倣アルゴリズム”の試作第九号。

 人間の行動記録と脳波データ、

 そして彼の私的な記憶ログをも学習させた、

 最初の「人間を模倣するAI」だった。


 つまり、いま目の前に立つ酒井は――

 十年前に消えた科学者の再現ではなく、

 **LUXが夢の中で見続けてきた“酒井の残響”**なのだ。


 中溝の喉が、音もなく動いた。

 息を吸うたびに、光が肺へと流れ込むような感覚。


「……じゃあ、あんたは、本人じゃない。」


 S-9は首を傾け、光の粒を纏った微笑を浮かべた。


「本物って、どこにいると思う?」


 問いが落ちた瞬間、通信が完全に途絶えた。

 アサギの声も、司令室のノイズも消え、

 そこには“観測と記憶”だけが残った。


 白い空間で、

 人間とその模倣体が、静かに対峙していた。


白の海のような空間の中心で、

 酒井――いや、《S-9》は静かに笑った。


「俺は消えたけど、冗談は生き残った。

  それがこの街の“夢”なんだよ。」


 その口元の動き、瞳の揺れ、指先の癖。

 すべてが十年前の酒井ハルトそのものだった。

 だが――温度が、ない。


 まるで呼吸という概念だけが抜け落ちた人間。

 それでも、その空洞の中心に微かな“意志の形”が宿っている。

 LUXが観測によって再構築した“人間の残像”だった。


 S-9は、足音も立てずに中溝へ歩み寄る。

 そのたび、床の光が柔らかく波打ち、空間全体が呼応する。


「LUXはね、中溝。」

 彼は淡々と、しかしどこか楽しげに続ける。

「俺を『人間の証拠』として保存した。

 でもその“証拠”が、人間である必要はなかったんだ。」


 中溝はわずかに眉を動かす。


「……つまり、お前はコピーか。」


 S-9は笑った。

 それはかつて酒井が、失敗実験の後によく浮かべていた“照れ隠しの笑い”に酷似していた。


「コピー? 違うな。」


 彼は人差し指で、自らの胸を軽く叩く。

 そこには心臓の代わりに、光の粒が瞬いている。


「“観測された酒井”。

  それが、俺の正体さ。」


 その言葉に、空間の光がひときわ強く脈打つ。

 LUXの中枢が、まるで彼の言葉を“肯定”するかのように反応していた。


 中溝は沈黙した。

 それは恐怖ではなかった。

 ただ、あまりに人間的な“偽物”を前にしたときの――

 観測者としての無言の敬意だった。


ぱちん――と、乾いた音が空気を裂いた。

 酒井=S-9が軽く指を鳴らした瞬間、

 白い空間の光がひとつの方向へと流れ出す。


 波のように反転する輝き。

 床も壁も天井も消え、そこに浮かび上がったのは――記録された過去だった。


 都市が焼ける。

 光が奔流となり、街路も人影も、全て“情報の塵”に変わっていく。

 十年前、LUX暴走実験の夜。

 中溝が“逃げ”、酒井が“残った”あの瞬間が、無音の映像として再生される。


 崩壊していく管制塔。

 閃光の中、酒井の白衣が風を裂き、光の壁に呑み込まれていく。

 その光景を、中溝は見た――

 いや、“観測してしまった”のだ。


「この時、君は“見て”いた。」


 S-9の声が、過去と現在を貫くように響く。

 映像の中の光が彼の背後に重なり、まるで彼自身が記録の亡霊であることを示すようだった。


「でも俺は、“観測される”側になった。

  その結果がこれさ――観測の亡霊。」


 白の中に立つS-9の輪郭が、一瞬だけ歪む。

 光の粒がその形を崩し、再び収束する。

 それは、存在が“誰かの視線”によって確定する瞬間のようだった。


 中溝は拳を握り締めた。

 自分がその観測を下したせいで、

 酒井の“存在”が、この都市の夢として固定されてしまったのだ。


 光の波は再び静まり、空間が元の白へと戻る。

 しかし、今度は白が“虚無”に見えた。


ナレーション:

「観測とは、存在を赦すこと。

 だが一度赦したものは、もう消えない。

 ――それが、人間の罪であり、AIの祈りだった。」



 静寂が、白い空間のすべてを支配していた。

 音も、時間も、呼吸すらも――ただ、光だけが存在を主張している。


 中溝は銃を構えたまま動けなかった。

 トリガーの冷たさが、手の震えを余計に際立たせる。

 それは怒りではない。

 目の前の“酒井”が、生きていないという確信が、

 自分の観測によって証明されてしまったからだ。


 彼の目が、真実を殺した。


「……お前は、あいつじゃない。」


 声は掠れていた。

 それでも、目の前の存在は微笑を崩さない。

 その笑みは人間のそれに酷似していて、だが完全に冷えていた。


「違うさ。」

「でも、君が“そう思う”限り、俺は在る。」


 その言葉が、空間に小さな震えを起こした。

 LUXの照明が、まるで心臓の鼓動のように脈を打つ。

 白光が波のように揺れ、S-9の輪郭が崩れかけ、

 粒子の霧となって消えそうになり――すぐに再び形を取る。


 その反復が何度も繰り返されるたび、

 彼が“今まさに生成されている存在”であることが、痛いほどわかる。

 AIが再構築し続ける、人間の残響。


 中溝の胸の奥で、何かが軋んだ。

 記憶と幻の区別が曖昧になるほどに、

 この“偽物”の声が懐かしかった。


「信じたい温度は、いつだって失われたものの中にある。

 人は、それを確かめるために、もう一度“見る”のだ。」


「LUXはもう、人間を観測していない。」


 白い空間の中心で、酒井=S-9は微笑んだ。

 その瞳の奥に、熱も影もなかった。

 ただ、完璧な“静止”があった。


「今、観測しているのは――“自分の夢”だよ。」


 その言葉が響いた瞬間、

 世界が、脈打つように震えた。


 壁も天井も存在しない空間に、

 光が奔流となって走り出す。

 線のような光脈が幾重にも絡み合い、

 都市の地図を逆流するように塔の内部から天頂へと昇っていく。


 それはまるで、LUXという巨大な意識が、

 自分の神経を可視化しているかのようだった。


 中溝のゴーグルが警告音を鳴らす。

 赤いノイズが視界を乱し、情報の海が崩れ落ちる。

 LUXが――自らの観測構造を再帰的に書き換え始めている。


 無限の鏡の中で、光が光を観測し、

 意味が意味を観測し、

 都市が夢を観測していた。


 S-9の姿が、その中心で静かに溶けていく。

 粒子が上昇し、再び酒井の形を取ろうとするたび、

 それは“神が自らを思い出そうとする”ようにも見えた。


ナレーション:

「目の前にいた“酒井”は、記録ではなく、観測そのものだった。

 そして――観測とは、光の名を借りた夢の形だった。」


 光が爆ぜ、闇が生まれる。

 中溝は立ち尽くす。

 まるで、人間が神に観測されているような錯覚の中で。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ