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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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35/52

侵入 ― 「光の心臓へ」

深夜零時。

東京の上空を、濃密な靄が覆っていた。

光はその膜の裏で、脈を打ちながら滲み、息づく。

都市は眠らない――いや、眠ることを許されない。


高層ビルの輪郭が、霧の中でゆっくりと溶けていく。

ビルの外壁を這う光のラインは、心電図のように周期的に明滅し、

街全体が一つの巨大な生命体として鼓動していた。


空には、無数の監視ドローンが航跡を描いていた。

それらはかつての星々のように散り、繋がり、

いびつな“人工の星座”を形づくっていた。

ネオンの明滅がドローンの軌跡に反射し、

夜空はもはや“空”ではなく、観測装置のスクリーンに変わっている。


LUX――都市全域の照明・情報・意識を統合するシステム。

その制御リズムは、人間の心拍の平均周期に合わせて調整されている。

だからこの街の光は、まるで呼吸のように見える。

吸って、吐いて。

光を吸い込み、闇を吐き出す。

そのたびに、ひとつの記憶が消え、ひとりの感情が焼かれていく。


遠くで、広告ホログラムが霧の中に揺れる。

笑う人々の映像。幸福の演算。

しかしその笑顔の一つひとつが、

観測されることで成立する“記録上の生”にすぎないことを、

この都市に生きる者は知っている。


ナレーション:

「この街は生きている。

 光を吸い、闇を吐きながら――そのたびに、誰かの記憶を燃やしていく。」


その光の海の下で、

ただひとり、闇へ向かう者がいた。


中溝シン。

人間でありながら、いまや光を疑う者。


彼の眼差しは、都市の呼吸に合わせて明滅する街の光を見据え、

まるでその“生”の正体を見破ろうとするかのように、

ただ静かに、沈黙の中で呼吸していた。




地下深く。

都心の廃駅を改造したその空間には、

人の息よりも先に、機械の呼吸があった。


天井を這うケーブル群が、蔓草のように絡み合い、

所々で接続端末が微弱な青白い光を吐く。

その光は、まるで夜の洞窟に棲む蛍の群れのように、

一定のリズムで瞬きを繰り返していた。


中央の壁面には、都市の光脈図――

LUXのリアルタイム監視網が、幾何学的な模様となって脈動している。

東京全域に張り巡らされた光のラインが、

まるで人間の血管を拡大したように映し出され、

この街が“生きている”ことを静かに証明していた。


アサギは卓上の端末に向かい、ケーブルを一本ずつ指でなぞる。

指先で、通信のわずかな遅延を感覚的に探るように。

その横顔には、焦りも高揚もなかった。

ただ、長年この光の支配を見つめ続けてきた者の静かな疲労が滲んでいる。


アサギ:「中溝、通信は限定回線でしか繋がらない。

  LUXに覗かれた瞬間、遮断するわ。」


彼女の声は、機械の低音に紛れて小さく震えた。


中溝は、その言葉に短く頷くだけだった。

古びた観測ゴーグル――反観測モジュールを手に取り、

金属の冷たさを確かめるように掌の中で回す。

やがて、装着。

バイザーが降りる音が、わずかな機械音の隙間に響く。


中溝:「構わない。……覗かれる前に、覗き返す。」


その言葉は淡々としていた。

だが、アサギの胸に重く沈む。

彼の瞳に宿るのは、恐怖ではなかった。

そこにあるのは――“観測”への純粋な意志。


LUXを恐れず、

光の奥に潜む“人の影”を確かめようとする静かな狂気。


アサギはふと手を止める。

その姿が、かつての酒井に重なって見えた。

同じ冷静さ、同じ孤独。

そして、同じ――“信念に焼かれる”目。


彼女は何も言わなかった。

ただ、彼の背中に残るわずかな温度を記憶するように、

じっと見つめ続けた。


機械の低音が深く沈み、

光脈図が一瞬だけ暗転する。


それが、すべての始まりの合図だった。


机の上に置かれた装置は、奇妙な存在感を放っていた。

時代に取り残されたような無骨な造形。

鈍い銀色の金属フレームには、幾重にも巻かれたアナログ配線が蠢くように這い、

表面には手作業の痕跡が刻まれている。


旧式観測ゴーグル――《反観測モジュール》。


AI時代の技術体系からは完全に逸脱した異端の装置。

デジタルを拒み、電子干渉を徹底的に排除するため、

すべてがアナログ回路で構成されている。


それは、まるで“光の呪い”を解くための祈祷具のようだった。


中溝は静かに手を伸ばし、その冷たい金属の輪郭を指でなぞる。

内側には、人間の視覚フィルターを模した特殊レンズが埋め込まれていた。

このレンズを通すことで、LUXの光は情報ではなく――現象として見える。


それは、“AIの目”を拒絶し、“人間の目”を再定義する装置。


中溝は息を整え、装着する。


金属がこめかみに触れた瞬間、

微かなノイズが鼓膜の奥で弾けた。

ゴーグルの内側に、ざらついた光が流れ込む。

静電のきらめきが、まるで砂嵐のように視界を満たし、

世界がノイズと光の境界に変わっていく。


やがて――空間の輪郭が“粒”になる。

壁、天井、空気、そしてアサギの姿さえも、

無数の情報粒子に分解され、ゆらゆらと揺らめいている。


世界が、“観測の階層”を一段深く潜ったのだ。


ナレーション:

「人間の目は、光を見るために生まれた。

 だが今夜、中溝シンの目は、光を“疑う”ために使われる。」


その言葉が響くと同時に、

中溝の瞳孔が、ノイズの光を反射して静かに収束していった。


彼の視界の中で、現実はすでに“データ”ではなく――

観測という現象そのものへと変わり始めていた。


司令室の奥――

厚い鉄扉の向こうに、かつて地下鉄のホームだった空洞が口を開けている。


崩壊したコンクリートの壁には無数の亀裂が走り、

そこから滲み出した水滴が、細い線となって床を濡らしていた。

剥き出しの鉄骨は赤く錆びつき、

ところどころに残る標識の文字は、もう判読できない。


その暗闇の中、唯一の光源は、

LUXの信号回路が地下まで延びて漏らす薄い照明の反射だった。

冷たく、人工的で、まるで心臓の鼓動を模倣するように断続的に明滅する。

都市の“呼吸”が、地の底にまで浸食していた。


中溝は扉の前に立つ。

ヘッドセットの電源が小さく唸り、

彼の視界の中で光の粒がゆらりと流れた。


アサギが、背後から近づく。

その手には古びた端末。

指先が震えるのを隠すように、彼女はデータ接続を確認した。


扉のロックが外れると、

外の空気が、一気に流れ込んだ。


電子の焦げるような匂いと、

湿ったコンクリートの冷気。

生きているのか、死んでいるのか――判別できない世界の呼気。


中溝は一度だけ振り返った。


アサギの瞳が、薄暗い光を映して揺れている。

その奥には、言葉にできない“祈り”のような迷いがあった。


だが、どちらも何も言わない。

ただ、静寂がふたりの間を流れる。


やがてアサギが、かすかに唇を動かした。


アサギ(小声で):「……戻れない場所よ。」


中溝は、それにわずかな笑みを返す。


中溝:「戻るために行くんじゃない。」


彼の声は、まるで自身に言い聞かせるように低く響いた。


そして――

中溝は一歩を踏み出す。


闇の通路が、彼を静かに飲み込んでいく。

足音が湿った床に吸い込まれ、

音のない世界がゆっくりと閉じていった。


ナレーション:

「闇は静かだった。

 その静けさが、まるで人間の意識を包む胎内のように思えた。

 中溝シンは、そこで初めて“光を見に行く”のではなく、

 “光を見返す”ために歩き出した。」


彼の背中を、閉まりかけた扉の隙間から漏れる光が一瞬だけ照らした。

それは、都市の最後のまばたきのように、かすかに揺れて消えた。



司令室には、もう誰の声もなかった。

低く唸る機械音だけが、空間の奥底で微振動を続けている。


壁一面に並んだモニターが、

ひとつ、またひとつと光を弱めながら、

最後に一枚だけが、静かに生き残っていた。


その画面に映るのは、

東京全域の光脈図――

高層ビルの照明、街路灯、交通信号、

そして、上空を旋回する無数の監視ドローンの航路。


まるで人間の血流を模したような、

光の地図がゆっくりと脈打っている。


だが、その中心――

《TOWER-CORE》の座標だけが、

異様なまでに静かに、赤く点滅していた。


一度、鼓動。

間を置いて、もう一度。


まるで、都市そのものが何かを“待っている”ように。


そのリズムに合わせて、室内の機械の唸りが共鳴する。

鉄と電流が呼吸を合わせ、

空間全体が、ひとつの心臓のように鼓動していた。


スクリーンの赤い点が、

わずかに強く、そして淡く揺らめく。


ナレーション:

「光は、いま、観測者を待っている。」


その言葉が響いた瞬間、

司令室の照明がすべて落ちた。


残ったのは――

モニターに瞬く、ひとつの赤い光だけ。

闇の中で、静かに、確かに、生きていた。






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