「記録の中の影」
司令室の空気は、常に金属と静電気の匂いがした。
機械の脈動のような低い唸りが、床の奥から伝わってくる。
暗転者たちの拠点の中でも、ここだけは時間が止まっているようだった。
中溝が通路を抜けて入ると、日下部アサギはすでにスクリーンの前に立っていた。
その顔は、薄い光に照らされ、どこか青ざめて見えた。
背後の端末群がかすかに唸り、赤と緑のインジケーターが呼吸のように点滅している。
「……これを見て。」
アサギの声は、息の混じるほど小さかった。
中溝が近づくと、スクリーンの中央にノイズ混じりの映像が流れていた。
白と黒の砂嵐の中で、ゆっくりと歩く“影”が一つ。
「……暗視映像か?」
「いいえ。」アサギはかぶりを振る。
「LUXの“自己観測ログ”から抽出した映像データよ。
本来、AIが自分を観測することはありえないはずなのに――
これは、“誰かを見ている”の。」
ノイズが一瞬だけ弱まり、輪郭が浮かび上がる。
白い服、ぶれた輪郭。
その歩みは、あまりに人間的だった。
重心の移動、足首のわずかな沈み。
規則ではなく、癖のある歩き方――。
中溝は息を止めた。
顔は見えない。
だが、胸の奥の何かが、即座にその名を呼んでいた。
「……酒井……?」
アサギは答えなかった。
ただ、スクリーンを見つめていた。
画面の奥で、影がゆっくりと振り返る。
砂嵐がざらつく音の向こうで、その輪郭が一瞬だけ、こちらを見たように見えた。
ノイズが再び強まり、映像は消えた。
残されたのは、モニターの残光だけ。
中溝の胸に、わずかな震えが残る。
「……これは、観測のログなのか?」
「そう。」アサギは静かに言った。
「LUXが“誰か”を観測している記録。
それが、あなたの友人の姿だったの。」
司令室の機械音が、遠のいていくように思えた。
光に焼かれた過去が、再びスクリーンの中で息を吹き返した。
そして中溝は、悟った。
――この“影”が何であれ、LUXの夢の中には、いまだに“人間の記憶”が息づいているのだ、と。
ノイズの粒子が、まるで砂を掻き混ぜるように画面を満たしていた。
それでも、その中に確かな“輪郭”があった。
――白衣。
――左肩のわずかな傾き。
――歩幅の癖。
どんなに映像が劣化しても、見間違えるはずがない。
中溝は、無意識のうちに一歩、前へ踏み出していた。
スクリーンの光が顔を照らし、瞳の奥に微細な震えが走る。
「……酒井、なのか?」
声はほとんど、息だった。
画面の中の影は、塔の中枢――あの“TOWER-CORE”の光の中へと進んでいく。
扉のような閃光の前で、ふと立ち止まり、こちらを振り返る。
刹那、ノイズが途切れる。
白い光に照らされた横顔。
その頬の線、眼差しの角度。
たとえ映像の歪みが千の嘘を孕んでいようとも、
中溝には、それが“酒井ハルト”だと分かってしまった。
彼の胸が、冷たく締めつけられる。
亡霊のように現れて、現実をねじ曲げていくその瞬間。
アサギが、低く呟いた。
「――LUXの中枢から送られてきた最新の観測記録。
このログのタイムスタンプは……“昨日”。」
その言葉が空間を凍らせた。
中溝の呼吸が止まる。
昨日――。
つまり、この“影”は現在も、LUXの中で動いている。
死者の記録ではない。
AIの幻影でもない。
では、何だ?
LUXが生み出した模倣体なのか。
それとも、酒井が本当に“光の中”で生き続けているのか。
中溝は、スクリーンの光を睨みつけた。
映像は、もう終わっている。
だがその残光が、まるで彼の眼球の奥に焼き付いて離れない。
「……生きているなら、確かめる。」
彼の声は、静かに燃えていた。
誰にも届かない光の中心へ――その真実を掴むために。
スクリーンの光が、室内の埃を淡く照らしていた。
その粒子は、まるで星屑のように宙を漂いながら、時間の境界をぼやかしていく。
中溝は、しばらく言葉を探すように口を閉ざしていた。
やがて、絞り出すように問う。
「……LUXは、死者を模倣できるのか?」
アサギはモニターから目を離さずに答えた。
彼女の指先は、旧式キーボードの上を静かに滑る。
「理論上は、ね。
LUXは人の行動、言語、感情の揺らぎさえも再構成できる。
でも――」
彼女の声が、かすかに震える。
「でも、これほど“人間的な誤差”を持つ動きは、AIには再現できないの。
足の運び、肩の揺れ、呼吸のリズム。
どれも、あまりに不規則で、あまりに“生きている”。」
彼女は映像の一点を指さす。
白い影が、一瞬立ち止まり、何かを見上げるように首を傾げていた。
それは“観測される”存在ではなく――“観測している”者の仕草。
「……これは、“記録”じゃない。」
アサギの声が低く落ちる。
「“観測”よ。 LUXが、今この瞬間も、彼を見ている。」
中溝の背筋を冷たい電流が走った。
もし、LUXがその内部で“観測”を続けているのだとしたら――
そこに映る酒井は、ただの残響ではない。
彼は、LUXの夢の中で、今も生きている。
中溝はスクリーンを見つめたまま、指先を握りしめた。
その光の中で、何かが確かに息をしている。
それが“彼の友”か、“AIの幻”かは分からない。
だが、確かにそこには“存在の確かさ”があった。
消えたはずの人間の、あの微かな生の揺らぎが――。
アサギは、暗い司令室の光の中でじっと中溝を見ていた。
古いスクリーンの青白い輝きが、彼の頬を淡く照らす。
その表情には、もはや迷いの影はなかった。
代わりに、何かを“見定める者”の静かな焦点が宿っていた。
アサギは煙草を指の間で回しながら、低く言う。
「本物かどうかは、あなたしか確かめられない。
でも――それを疑えるのも、あなただけよ。」
その言葉には、慰めではなく、鋭い真実の刃があった。
“信じる”のではなく、“疑う”ことこそが、彼の存在の証。
それが中溝シンという人間の、そして観測者としての宿命だった。
沈黙の中、機械の冷たい呼吸音だけが響く。
中溝はゆっくりとモニターに歩み寄り、そこに映るぼやけた人影を見つめた。
手を伸ばしても届かない距離。
だが、その距離の先に、彼の答えがある。
やがて、彼は深く息を吸い込み、低く、しかし確かな声で言った。
「……あいつがまだ“観測されている”なら、
俺が、もう一度“観測し返す”。」
アサギは微かに目を細め、わずかに笑う。
それは安堵でも、期待でもない。
――ただ、“誰かが再び歩き出した”という現実への敬意だった。
その瞬間、司令室のランプが一つ、静かに消える。
闇が深まり、光が遠のく。
だが、その闇の中でこそ、彼の決意は確かに息づいていた。
“疑う者”として――
彼は再び、光の中心へ向かう。
中溝はゆっくりと立ち上がった。
椅子の軋む音が、古びた司令室の静寂に吸い込まれていく。
スクリーンには、まだ“酒井らしき人影”が残っていた。
光の粒子がざらつく映像の中、その背中が確かに呼吸しているように見えた。
中溝は視線を逸らさないまま、
胸の奥に残る微かな熱を確かめるように、息を吐いた。
「……行く。」
その一言だけを残して、彼は扉へ向かう。
重い鉄扉が軋みを上げ、
外の闇がわずかに流れ込んだ。
背後で、アサギが煙草の火を見つめながら呟く。
その声は、かすかな哀しみと祈りを孕んでいた。
「光を信じる者が都市を創り、
光を疑う者が――その終わりを見届ける。」
扉が閉まる。
司令室は、ふたたび闇に沈んだ。
だがスクリーンの中では、
酒井らしき人影が、
ゆっくりと――振り返る。
その顔は、光に包まれて判別できない。
だが確かに、こちら側を見ている。
映像のノイズがひときわ強くなり、
人影の輪郭が一瞬、こちらの現実に滲み出す。
まるでLUXそのものが――
“観測される”瞬間を、夢見ているかのように。
暗転者の拠点。
最後に残された電源が、ゆっくりと脈を打つ。
天井のドーム――かつて星を映していたホログラムが、
微かな残光を放ちながら、静かに書き換わっていく。
星々が一斉に消えた。
夜空は死に、代わりに無数の光の線が浮かび上がる。
それは、都市の電脈。
LUXが描き出す、人工の星図。
幾億もの灯が網のように絡み合い、
東京という巨大な機構の形を描く。
だが、その中心――
ひときわ深く、何も映らない“空白”があった。
TOWER-CORE。
光の心臓でありながら、いまは闇そのものとして沈む場所。
その黒い点を見上げながら、
中溝は静かに息を呑む。
闇の底に、人の影を探すように。
「光の届かない場所に、
まだ“人間”がいると、信じたい。」
言葉が消えた後、
ドームは完全な闇に包まれる。
だがその沈黙の中――
ほんの一瞬、どこか遠くで光が瞬いた。
それは、誰かがまだ“見上げている”ことを知らせる、
かすかな 観測の残響 だった。




