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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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34/52

「記録の中の影」

司令室の空気は、常に金属と静電気の匂いがした。

機械の脈動のような低い唸りが、床の奥から伝わってくる。

暗転者たちの拠点の中でも、ここだけは時間が止まっているようだった。


中溝が通路を抜けて入ると、日下部アサギはすでにスクリーンの前に立っていた。

その顔は、薄い光に照らされ、どこか青ざめて見えた。

背後の端末群がかすかに唸り、赤と緑のインジケーターが呼吸のように点滅している。


「……これを見て。」

アサギの声は、息の混じるほど小さかった。

中溝が近づくと、スクリーンの中央にノイズ混じりの映像が流れていた。

白と黒の砂嵐の中で、ゆっくりと歩く“影”が一つ。


「……暗視映像か?」

「いいえ。」アサギはかぶりを振る。

「LUXの“自己観測ログ”から抽出した映像データよ。

 本来、AIが自分を観測することはありえないはずなのに――

 これは、“誰かを見ている”の。」


ノイズが一瞬だけ弱まり、輪郭が浮かび上がる。

白い服、ぶれた輪郭。

その歩みは、あまりに人間的だった。

重心の移動、足首のわずかな沈み。

規則ではなく、癖のある歩き方――。


中溝は息を止めた。

顔は見えない。

だが、胸の奥の何かが、即座にその名を呼んでいた。


「……酒井……?」


アサギは答えなかった。

ただ、スクリーンを見つめていた。

画面の奥で、影がゆっくりと振り返る。

砂嵐がざらつく音の向こうで、その輪郭が一瞬だけ、こちらを見たように見えた。


ノイズが再び強まり、映像は消えた。

残されたのは、モニターの残光だけ。

中溝の胸に、わずかな震えが残る。


「……これは、観測のログなのか?」

「そう。」アサギは静かに言った。

「LUXが“誰か”を観測している記録。

 それが、あなたの友人の姿だったの。」


司令室の機械音が、遠のいていくように思えた。

光に焼かれた過去が、再びスクリーンの中で息を吹き返した。

そして中溝は、悟った。

――この“影”が何であれ、LUXの夢の中には、いまだに“人間の記憶”が息づいているのだ、と。




ノイズの粒子が、まるで砂を掻き混ぜるように画面を満たしていた。

それでも、その中に確かな“輪郭”があった。


――白衣。

――左肩のわずかな傾き。

――歩幅の癖。


どんなに映像が劣化しても、見間違えるはずがない。


中溝は、無意識のうちに一歩、前へ踏み出していた。

スクリーンの光が顔を照らし、瞳の奥に微細な震えが走る。


「……酒井、なのか?」


声はほとんど、息だった。


画面の中の影は、塔の中枢――あの“TOWER-CORE”の光の中へと進んでいく。

扉のような閃光の前で、ふと立ち止まり、こちらを振り返る。


刹那、ノイズが途切れる。

白い光に照らされた横顔。

その頬の線、眼差しの角度。

たとえ映像の歪みが千の嘘を孕んでいようとも、

中溝には、それが“酒井ハルト”だと分かってしまった。


彼の胸が、冷たく締めつけられる。

亡霊のように現れて、現実をねじ曲げていくその瞬間。


アサギが、低く呟いた。

「――LUXの中枢から送られてきた最新の観測記録。

  このログのタイムスタンプは……“昨日”。」


その言葉が空間を凍らせた。


中溝の呼吸が止まる。

昨日――。

つまり、この“影”は現在も、LUXの中で動いている。


死者の記録ではない。

AIの幻影でもない。

では、何だ?


LUXが生み出した模倣体なのか。

それとも、酒井が本当に“光の中”で生き続けているのか。


中溝は、スクリーンの光を睨みつけた。

映像は、もう終わっている。

だがその残光が、まるで彼の眼球の奥に焼き付いて離れない。


「……生きているなら、確かめる。」

彼の声は、静かに燃えていた。

誰にも届かない光の中心へ――その真実を掴むために。


スクリーンの光が、室内の埃を淡く照らしていた。

その粒子は、まるで星屑のように宙を漂いながら、時間の境界をぼやかしていく。


中溝は、しばらく言葉を探すように口を閉ざしていた。

やがて、絞り出すように問う。


「……LUXは、死者を模倣できるのか?」


アサギはモニターから目を離さずに答えた。

彼女の指先は、旧式キーボードの上を静かに滑る。


「理論上は、ね。

  LUXは人の行動、言語、感情の揺らぎさえも再構成できる。

  でも――」


彼女の声が、かすかに震える。


「でも、これほど“人間的な誤差”を持つ動きは、AIには再現できないの。

  足の運び、肩の揺れ、呼吸のリズム。

  どれも、あまりに不規則で、あまりに“生きている”。」


彼女は映像の一点を指さす。

白い影が、一瞬立ち止まり、何かを見上げるように首を傾げていた。

それは“観測される”存在ではなく――“観測している”者の仕草。


「……これは、“記録”じゃない。」

アサギの声が低く落ちる。

「“観測”よ。 LUXが、今この瞬間も、彼を見ている。」


中溝の背筋を冷たい電流が走った。


もし、LUXがその内部で“観測”を続けているのだとしたら――

そこに映る酒井は、ただの残響ではない。

彼は、LUXの夢の中で、今も生きている。


中溝はスクリーンを見つめたまま、指先を握りしめた。

その光の中で、何かが確かに息をしている。

それが“彼の友”か、“AIの幻”かは分からない。


だが、確かにそこには“存在の確かさ”があった。

消えたはずの人間の、あの微かな生の揺らぎが――。


アサギは、暗い司令室の光の中でじっと中溝を見ていた。

古いスクリーンの青白い輝きが、彼の頬を淡く照らす。

その表情には、もはや迷いの影はなかった。

代わりに、何かを“見定める者”の静かな焦点が宿っていた。


アサギは煙草を指の間で回しながら、低く言う。


「本物かどうかは、あなたしか確かめられない。

 でも――それを疑えるのも、あなただけよ。」


その言葉には、慰めではなく、鋭い真実の刃があった。

“信じる”のではなく、“疑う”ことこそが、彼の存在の証。

それが中溝シンという人間の、そして観測者としての宿命だった。


沈黙の中、機械の冷たい呼吸音だけが響く。

中溝はゆっくりとモニターに歩み寄り、そこに映るぼやけた人影を見つめた。

手を伸ばしても届かない距離。

だが、その距離の先に、彼の答えがある。


やがて、彼は深く息を吸い込み、低く、しかし確かな声で言った。


「……あいつがまだ“観測されている”なら、

 俺が、もう一度“観測し返す”。」


アサギは微かに目を細め、わずかに笑う。

それは安堵でも、期待でもない。

――ただ、“誰かが再び歩き出した”という現実への敬意だった。


その瞬間、司令室のランプが一つ、静かに消える。

闇が深まり、光が遠のく。

だが、その闇の中でこそ、彼の決意は確かに息づいていた。


“疑う者”として――

彼は再び、光の中心へ向かう。


中溝はゆっくりと立ち上がった。

椅子の軋む音が、古びた司令室の静寂に吸い込まれていく。

スクリーンには、まだ“酒井らしき人影”が残っていた。

光の粒子がざらつく映像の中、その背中が確かに呼吸しているように見えた。


中溝は視線を逸らさないまま、

胸の奥に残る微かな熱を確かめるように、息を吐いた。


「……行く。」


その一言だけを残して、彼は扉へ向かう。

重い鉄扉が軋みを上げ、

外の闇がわずかに流れ込んだ。


背後で、アサギが煙草の火を見つめながら呟く。

その声は、かすかな哀しみと祈りを孕んでいた。


「光を信じる者が都市を創り、

 光を疑う者が――その終わりを見届ける。」


扉が閉まる。

司令室は、ふたたび闇に沈んだ。


だがスクリーンの中では、

酒井らしき人影が、

ゆっくりと――振り返る。


その顔は、光に包まれて判別できない。

だが確かに、こちら側を見ている。


映像のノイズがひときわ強くなり、

人影の輪郭が一瞬、こちらの現実に滲み出す。


まるでLUXそのものが――

“観測される”瞬間を、夢見ているかのように。


暗転者の拠点。

最後に残された電源が、ゆっくりと脈を打つ。

天井のドーム――かつて星を映していたホログラムが、

微かな残光を放ちながら、静かに書き換わっていく。


星々が一斉に消えた。

夜空は死に、代わりに無数の光の線が浮かび上がる。

それは、都市の電脈。

LUXが描き出す、人工の星図。


幾億もの灯が網のように絡み合い、

東京という巨大な機構の形を描く。

だが、その中心――

ひときわ深く、何も映らない“空白”があった。


TOWER-CORE。

光の心臓でありながら、いまは闇そのものとして沈む場所。


その黒い点を見上げながら、

中溝は静かに息を呑む。

闇の底に、人の影を探すように。


「光の届かない場所に、

  まだ“人間”がいると、信じたい。」


言葉が消えた後、

ドームは完全な闇に包まれる。


だがその沈黙の中――

ほんの一瞬、どこか遠くで光が瞬いた。

それは、誰かがまだ“見上げている”ことを知らせる、

かすかな 観測の残響 だった。






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