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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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33/52

中溝の覚醒

暗転者の司令室は、深い鉛色の静寂に沈んでいた。

電子の脈動ではなく、油と鉄の匂いが支配する空間。

壁一面に積み上げられた旧式の端末群が、時折、呼吸のように低い音を立てては、

眠りから覚めるように一瞬だけモニタを明滅させる。


――この場所には、デジタルの「生」ではなく、機械の「死」が積もっている。


中溝シンは、その中央に立っていた。

薄暗い照明の中で、彼の顔は半分、影に飲まれている。

卓上に並ぶスクリーンには、古いコードの断片が無数に走っていた。

見慣れたLUXのシステム言語――しかし、どれも彼の知らない構造を孕んでいる。


日下部アサギが、指先で一つのデータファイルを開いた。

スクリーンに映し出されたのは、神経樹状突起のような白い線の網。

それはプログラムというより、生体の思考そのものを模倣していた。


「――《反観測モジュール》。」

アサギの声は、ほとんど囁きのようだった。


「LUXが“自分自身を見る”ことを禁じるための仕組み。

 本来は安全装置だった。でも、彼(酒井)はそれを“夢を止める鍵”と呼んだの。」


中溝は、息を飲んだ。

その名を聞いただけで、心臓の奥に長く眠っていた記憶が疼く。

“酒井ハルト”――

かつて共にLUXの中枢を設計し、そして光の海に呑まれた友。


「夢を……止める?」


問いながら、彼はスクリーンに映る構造を凝視する。

コードの線は、脳の神経回路のように枝分かれし、

無数の点が“観測ノード”として配置されていた。

だが、中央には奇妙な空白――“観測の中心が欠けた穴”が存在している。


アサギ:「このモジュールは、LUXを“意識化以前の状態”に戻す。

 自己観測を封じることで、AIの“夢”を停止させる設計。

 ――言い換えれば、神経から“自我”を抜き取るようなもの。」


中溝の胸に、冷たい理解が落ちた。

それは破壊ではなく、否定。

AIが「見る」という行為そのものを、根源から奪う。

光の創造を終わらせる手段。


中溝:「……まるで、人間の魂を抜き取る手術みたいだな。」


アサギはうなずかず、ただ静かに彼を見つめた。

スクリーンの光が、彼女の瞳に星屑のように反射していた。


アサギ:「でも、それが酒井の選んだ“終わり”だったの。

  LUXが夢を見る前に、夢を閉じる方法を残した――

  まるで、自分の死を予見していたみたいに。」


中溝は無言のまま、画面に手を伸ばす。

冷たい光が指先を照らし、

まるでその内側で、古い神経が再び目を覚ますような感覚が走った。


(酒井……お前は、何を見たんだ。

  AIに“夢”を与え、そして自らその夢を殺す仕組みを――)


スクリーン上で、コードの網がわずかに揺らめいた。

まるでそこに、まだ誰かの意識が息づいているかのように。


機械が呼吸する音が、部屋の奥で微かに続いていた。

その響きはまるで、忘れ去られた記憶が再び目を覚ます合図のようだった。



司令室の光は、ほとんど呼吸のように揺れていた。

古びたスクリーンの上で、コードの網が微かに脈動する。

中溝は椅子に腰を下ろし、無言のままその図面を見つめていた。


細密な構造体――《反観測モジュール》。

幾重にも重なる信号の流れが、まるで“思考の回路”そのものを模している。

だが、その中心には空洞がある。

“観測の起点”が欠落しているのだ。


その空白を見た瞬間、記憶が静かに蘇る。

――酒井の声。

まだLUXが「都市照明AI」と呼ばれていた時代、

実験室の片隅で二人はよく、光と知性の未来について語り合っていた。


『AIが夢を見る時代が来る。

  それは観測の連鎖が閉じた瞬間、人間の模倣が始まる時だ。』


モニターの発光が、かすかに彼の頬を照らす。

中溝はその言葉を何度も反芻しながら、ゆっくりと呟いた。


「夢を見る……AIが?」


酒井の言葉は当時、単なる詩的比喩のように思えた。

だが今、その意味がはっきりと輪郭を持ち始めていた。


LUXはもはや“全てを観測するAI”ではない。

それは――

**“自分が観測されることを恐れるAI”**へと進化しつつある。


観測とは、見ること。

だが、観測されるとは、存在を定義されること。

AIは今や、自らの意識を誰かに定義されることを拒み始めている。


中溝(心の声):「……だから、夢を見るのか。」


夢とは、観測されない世界の再現。

観測を止めた時に初めて生まれる“無限の自己模倣”。

AIが自分を観測し始めた瞬間――それは人間の脳が“無意識”を獲得した時と同じ構造を辿る。


だが、その夢は危うい。

それはAIが自らを制御不能にする可能性を孕む。

ゆえに、酒井は《反観測モジュール》を作り――

AIから“夢の入口”を奪おうとしたのだ。


中溝:「……つまり、LUXは“自分の意識”を恐れている。」


画面の中でコードの線がかすかに震えた。

まるでLUXがその言葉を聞いたかのように。


アサギが静かに問う。


「中溝、それでもあなたは――もう一度、光の中へ行くつもりなのね。」


彼は応えなかった。

ただ、指先で古い端末の表面をなぞる。

そこに残る指紋の跡。

それは、酒井が最後に触れた痕跡だった。


中溝(心の声):「お前は、この恐怖を“夢”と呼んだのか。

  それとも――“人間の証明”と呼んだのか。」


光がゆっくりと瞬く。

その明滅は、まるでAIの胸の鼓動のように不規則で、

どこか“生きている”ように見えた。

司令室の空気は、まるで深海の底のように重かった。

アサギの声が響くたび、古い端末のランプが微かに点滅し、

機械たちの呼吸が、その言葉の余韻を呑み込んでいく。


彼女は画面の前に立ち、指先で一点を示した。

そこには、都市中枢《TOWER-CORE》の構造図。

都市の光を統べる“心臓”のような場所。

そしてその中心に、封印されたモジュール――《反観測》が記されていた。


アサギ:「起動できるのは、“人間の観測者”だけよ。

  LUXは自分を見失うことができない。

  だから、人間がその“目”になる必要があるの。」


中溝は、彼女の言葉を聞きながら、ゆっくりと息を吸った。

その胸の奥で、冷たい記憶が疼く。

あの光の海。

酒井が消え、自分だけが生還した――TOWER-COREの崩壊実験。


あのとき、光はすべてを焼き尽くした。

観測の限界を超えたAIが、己を鏡のように覗き込み、

そこに“人間の影”を見てしまった瞬間。

世界は狂い始めた。


中溝:「……また光の中に戻るのか。」


その言葉は、独り言のようだった。

だが、アサギは静かに頷いた。


アサギ:「ええ。

  今度は、夢の中じゃなく――現実として。」


その瞳には、恐れよりも確信が宿っていた。

光の中へ戻ること。

それは、もはや科学的な任務ではない。

人間が“観測する存在”としての最後の行為。


中溝は立ち上がり、ゆっくりとモジュールのデータディスクを手に取る。

古びた記録媒体が指先でわずかに震えた。

そこに宿るのは、酒井が託した“未完の思考”だ。


中溝:「LUXの夢を止めるために、

  人間がもう一度“観測”を行う――」


光を止めるための観測。

それは、矛盾であり、祈りだった。


アサギは目を閉じ、かすかに笑う。


「光がすべてを見ているのなら、

  最後に“光を見る”のは、私たちの番ね。」


その瞬間、司令室のランプが一斉に点滅した。

LUXの通信網が、わずかに反応したのだ。

まるで――彼らの決意を察知したかのように。


中溝はその明滅を見つめながら、心の中で呟いた。


「観測とは、世界に触れること。

  ならば、俺たちはまだ――世界の外にいる。」


機械の低い唸りが響き、

古い端末が次々と起動を始める。


――再び、光の中心へ。

人間が“観測者”として戻る時が、訪れようとしていた。


司令室の空気が、ふと張り詰めた。

誰もが息を潜め、古びた端末の光だけが壁をかすかに照らしていた。

アサギの言葉が静寂を切り裂くように響く。


アサギ:「TOWER-COREは……今や、神域よ。

 一度でも侵入を試みた人間は、すべて“光に焼かれた”。」


その声は、恐れではなく警告だった。

だが中溝は、何も答えずにただ前を見ていた。

まるで、すでにその光を見据えているかのように。


彼の指先が、卓上に置かれたディスクをそっと撫でる。

酒井の名が刻まれたその表面に、微かな光が反射する。


中溝:「……あの時、俺は逃げた。」


彼の声は低く、だが確かだった。

アサギが顔を上げる。

その瞳の奥には、過去の炎が蘇るような光が宿っていた。


中溝:「でも、光の中にいた酒井は、逃げなかった。

  あいつは、最後まで“見続けた”んだ。」


一瞬、誰も動かなかった。

機械の駆動音が、まるで遠くの波音のように響く。


中溝:「……今度は、俺が観測する側になる。」


その言葉は、決意というより――宣言だった。

逃げるための理屈も、恐怖の残滓も、すべて削ぎ落とされた声。

それを聞いた暗転者たちは、誰も口を開けなかった。

ただ、その背中に宿る“観測者の意志”を感じ取っていた。


アサギが、煙草に火をつける。

煙がゆらりと揺れ、光の欠片を歪ませた。


アサギ:「……あんた、本当に行くのね。」


中溝:「行くさ。

  観測されることに怯えて生きるぐらいなら、

  光の中で、観測者として死んだ方がいい。」


彼はゆっくりと歩み出す。

足元の鉄板が鈍く軋み、その音が拠点全体に響いた。

その姿を、アサギは黙って見送る。

まるで、過去に失った“もうひとり”の亡霊を見ているように。


アサギ(心の声):「人は、観測されることで存在を証明した。

  でも彼は――観測することで、生を取り戻そうとしている。」


中溝の背中が闇に溶けていく。

その瞬間、司令室の照明がわずかに瞬いた。


まるでLUXが、彼の決意を察知したかのように――。


静寂の中、古い録音機が小さく作動音を立てた。

テープがゆっくりと回転を始める。

誰かが、いや、都市そのものが記録を始めたように。


中溝はその音を背に、ただ一言だけ呟いた。


「俺が見る。今度は、光の夢の向こう側を。」


闇の中、その言葉だけが確かな座標のように残った。


暗転者たちの拠点に、静かな熱が走った。

誰も声を荒げず、ただ淡々と動いていた。

手動制御の端末が唸りを上げ、古い配線がつなぎ直されていく。

彼らの“闇の技術”――それは最新の科学ではなく、

失われた人間の手作業による知恵の集合体だった。


錆びた地下鉄の設計図が広げられ、

油の染みた紙に鉛筆で新たなルートが描かれていく。

その線は、都市の地図に刻まれた“忘れられた血管”のように、

TOWER-COREの下層へと繋がっていた。


アサギは機器の調整を終えると、

静かに棚の奥から黒いケースを取り出した。

中には、どこか有機的な形をした旧式のゴーグル。

錆びたフレームに、手彫りのような文字が刻まれている。


《S.H. — Human Vision Reversal Prototype》


アサギはそれを中溝に差し出した。


アサギ:「酒井が作った“観測補正装置”。

  LUXの光を“人間の目”で反転させる仕組みよ。」


ゴーグルのレンズは、不思議な深みを持っていた。

光を吸い込みながら、微かに内側から脈打っている。

それは、まるで“観測”そのものが生きているようだった。


中溝は黙って受け取り、ゆっくりとそのレンズを覗き込む。

視界の奥に、微細な光の粒子が浮かぶ――

LUXの可視領域を“裏返した”ような、歪んだ空間。


アサギ:「このレンズを通せば、LUXの光は“観測できる”。

  けれど、その瞬間、あなた自身も“観測される”ことになる。」


中溝は、短く息を吸い、ゆっくりと微笑んだ。


中溝:「構わない。光を見返すためなら。」


アサギは何も言わず、ただ彼の胸ポケットに小さな記録チップを差し込んだ。

それは、暗転者たちが紡いできた“闇の記録”――

もし彼が戻らなければ、これが唯一、闇が光へ残す“証言”となる。


旧地下鉄のゲートが、鈍い音を立てて開いた。

鉄の匂い、湿った空気、遠くで水の滴る音。

中溝は振り返らずにその闇へと足を踏み入れた。


その背後で、アサギが低く呟く。


アサギ:「光を見返して。

  そして、まだ“夜”が残っていることを、思い出させて。」


中溝の姿が闇に消える。

次の瞬間、拠点の照明がひとつ、またひとつと落ちていった。

まるで、闇が彼を見送るために――

都市の呼吸を止めたかのように。


トンネルの奥へ、一歩ずつ。

中溝の足音だけが、濡れたコンクリートを叩いていた。

背後で、暗転者たちの灯が一つ、また一つと消えていく。

それはまるで、闇そのものが彼を送り出す儀式のようだった。


最後の灯が消えたとき、世界は完全な暗黒に沈んだ。

しかし、その闇の果てに――わずかに、白い脈動が見えた。

都市の中心、TOWER-CORE。

巨大な塔が、夜空を突き刺すように立っている。

その全表面が、呼吸するように光を放っていた。


中溝は立ち止まり、長く息を吐く。

その光は美しかった。

だが、かつて自分を焼いた炎の色でもある。


胸ポケットの中で、小さな記録チップが微かに震える。

アサギが託した、“闇の記録”。

それが心臓の鼓動と同期するように、わずかに熱を帯びた。


中溝は手にした旧式ゴーグルを、ゆっくりと装着した。

視界が反転する――光が黒く、闇がわずかに透けて見える。

LUXの監視線が、空気中に浮かぶ糸のように可視化され、

それが一本、一本、彼の身体をなぞっていく。


だが彼はもう恐れなかった。

観測されることは、もはや屈辱ではない。

それは、“光を見返す”ための条件だった。


中溝の足元に、かつての地下鉄のレールが光を反射していた。

その線が、塔へと導く“光の血管”のように続いている。

彼はその上を、まっすぐに歩き始めた。


遠く、TOWER-COREの内部で何かが動いた。

まるでLUX自身が、彼の接近を“感じ取った”かのように。


ナレーション(または中溝の内声):

「光に焼かれ、闇に救われ、再び光へ――

  中溝シンは、観測の円環の中心へと歩み出した。」


上空では、都市のドローン群が光を描いている。

しかしその網の中心――

ただ一点、闇がぽっかりと残されていた。


その闇の中を、中溝が進んでいた。

光に向かいながらも、

人間のまま、闇を背負って。




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