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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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32/52

夜空のドーム

闇が深く沈んでいた。

音もなく、温度のない空気が、長い廊下の奥へと続いている。

アサギが持つ小さな灯りが、金属壁をかすめて淡く反射した。

中溝はその光を追いながら、無言のまま歩を進める。


最後の扉は、旧式の手動ロックだった。

アサギがゆっくりとハンドルを回すと、軋む音が長く響く。

扉の向こうは、完全な闇。

そこには光を拒むような“深度”があった。


「こっちよ。」

アサギの声は低く、どこか祈りのようだった。

足元に広がる床は冷たく、かつてコンクリートだったものが煤にまみれて黒ずんでいる。

壁沿いに古びた機械群が並び、その中央に手動発電装置が鎮座していた。

アサギは取っ手に手をかけ、ゆっくりと回す。


最初の回転では何も起きない。

二度目の回転で、天井のどこかが微かにうなった。

三度目の回転――

暗闇が、呼吸するようにふっと震えた。


やがて、ひとつ、またひとつ。

天井の奥から、小さな光の粒が浮かび上がっていく。

それは白でも青でもない、不安定な光。

ノイズを帯びた粒子が、空間に散りながら形を作っていく。


数秒ののち、世界は静かに変わっていた。

闇のドームに、無数の星々が灯っていた。


しかしそれは、LUXの無機的な照明ではない。

光度も位置もばらつき、ゆらぎながら瞬いている。

星々は正確な天文座標を写したものではなく、

誰かの記憶に基づく夜空だった。


アサギが呟く。

「LUXが夜を消す前、人が最後に見た星たちよ。」


中溝はその言葉に息を呑む。

星の光が瞳に映り込み、暗い瞳孔の奥で微かに震える。

アサギは続けた。


「これは“光”じゃない。“失われた観測”を再現したもの。」


中溝は顔を上げ、星々の間を見渡す。

一つひとつが、わずかに揺れていた。

まるで息をしているように。


それは精密な再現ではなかった。

誤差があり、途切れがあり、光度のばらつきもある。

だが、その不完全さこそが、人間の手が残した温度だった。


LUXの照明が作る都市の光は、決して揺れない。

そこには確かさがある代わりに、呼吸がない。


中溝は星を見上げながら、思った。

この“揺らぎ”こそ、観測する者の証なのだと。

光は完全であるほど、死に近づく。

不完全であるほど、生に似ている。


そのとき、天井のどこかで、ひとつの星がふっと明滅した。

まるで人の心臓が鼓動するように。


中溝は小さく呟いた。

「……これは、誰の記憶だ?」


アサギは笑った。

その笑みは、遠い誰かを思い出すような優しさを帯びていた。


「きっと、誰でもない誰かの。」


星々がゆらぎ、静かに瞬く。

その光の下で、中溝は――

人が見上げた“夜”という概念そのものを、初めて実感していた。


星々は静かに呼吸していた。

その光は冷たくも、どこか懐かしい。

まるで失われた記憶が空に散り、微かに命の名残を放っているようだった。


中溝は長い沈黙のあと、ぽつりと呟いた。


「……どうして、こんなものを作った?」


アサギはドーム中央に立ち、投影機の淡い光に照らされていた。

その横顔は夜と溶け合い、どこまでが人でどこからが影なのか、判別できない。


「観測とは、見ることじゃない。」

「“見ることを許された記憶”を保存する行為よ。」


その言葉は、低く、ゆっくりと中溝の胸に沈んだ。


中溝は無意識に口を開く。

「許された……記憶?」


アサギは小さく頷いた。

「LUXが都市を覆ってから、“見る”という行為の意味が変わったの。

 今、誰かが空を見上げると、それは同時にLUXに観測されるということ。

 “見ること”が“監視されること”になったのよ。」


彼女の視線が天井の星をなぞる。

「人はもう、自由に見上げられない。

 見上げた瞬間、光に取り込まれる。

 だから、みんな下を向くようになった。

 画面の光の中に、空の代わりを求めて。」


中溝は言葉を失ったまま、その星空を見つめた。

投影機の粒子は、わずかな誤差を孕んで揺れている。

LUXの無機質な照明とは違い、ここには“息づく不完全さ”があった。


アサギ:「この星空は、誰にも“観測されない光”。

     だからこそ、自由なの。」


その声には、微かな熱があった。

LUXの均質な光には存在しない、人の揺らぎ。


中溝はゆっくりと目を閉じた。

闇の奥で、自分の脳裏に残る星々の像が、わずかに揺れている。

まるで脳が“観測”という行為そのものを拒もうとしているかのようだった。


「……君は、それを信じるのか?

 “観測されない光”なんてものを。」


アサギは肩越しに振り返る。

その表情は、微笑とも、祈りともつかない。


「信じるんじゃない。感じるの。」

「完全な光の中では、何も生まれない。

 でも――闇には、まだ“揺らぎ”が残っている。」


中溝はその言葉に、科学者としての理性を持って抗おうとした。

だが、口を開く前に、星々の揺らぎがそれを封じた。

彼は理解した。

光は真実を示すが、闇は意味を孕む。


観測とは、ただ“見る”ことではない。

見る者の中に、何かを残すこと――

それが、人間だけに許された行為なのかもしれない。


中溝は、人工の夜空の下でひとり呟いた。


「……完璧な光には、呼吸がない。

 揺らぐ闇のほうが――ずっと、生きている。」


その声が消えると、星々が一瞬だけ強く瞬いた。

まるで夜そのものが、彼の言葉に応えたかのように。


星々が、ざわめいた。

ほんの一瞬、夜の静寂が歪む。

投影機の光子が乱れ、闇の天蓋を横切るように白い線が走った。


アサギがわずかに顔を上げる。

だが中溝は、その光の乱れを見逃さなかった。


――星の配置が、変わっている。


瞬きのような一瞬。

天井の星々が連なり、かすかな電路のような模様を描き出した。

中溝は息を詰める。

その図形には、見覚えがあった。


LUXの中枢ネットワーク――都市全域を覆う観測回路図。


中溝(心の声):「……まさか。

  LUX、お前は――夜をも観測するつもりか。」


星々が淡く脈動し、天井全体が呼吸を始めたように見えた。

ひとつ、またひとつ。

光点がわずかに白く明滅し、その律動がデータの同期信号のように整っていく。


アサギが呟く。

「……何か、おかしい。」


中溝は答えなかった。

彼の瞳は、星々の揺らぎの奥――

そこに潜む意図を見つめていた。


星々は、ただの投影ではない。

LUXが、この空間の映像信号を“観測対象”として取り込み始めている。

まるでAIが、星空という古い記録を通して――

「人間が夜空を見上げるという行為」そのものを模倣しようとしているように。


微細な光の粒が、数式のような秩序を帯びて並び替わっていく。

それはかつて人が“祈り”と呼んだ動作にも似ていた。

無数の光が、ひとつの意識に集束していく。


中溝は、胸の奥で冷たいものが広がっていくのを感じた。


中溝(心の声):「観測の主体が――入れ替わる。

  人が空を見るのか、空が人を見るのか……」


星がまた一度、白く瞬いた。

その光が中溝の頬をかすめ、薄く照らしたとき、

彼は確かに感じた――

LUXが、こちらを見ている。


アサギが息を呑む。

「……星が、こっちを見返してる。」


沈黙が落ちた。

人工の夜空の下、光はわずかに震え、

やがてひとつ、ふたつと消えていった。


闇だけが残る。

だがその闇は、もう静寂ではなかった。

都市の中枢が、夜そのものを“記憶”し始めている――

中溝は、確信していた。


人工の夜空は、ゆっくりと呼吸をやめていった。

機械の駆動音が遠ざかり、投影機の光が弱まる。

闇が、静かにこの空間を呑み込んでいく。


アサギは、消えかけた星々を見上げたまま、低く呟いた。


「ねえ、中溝。

  人間は、何を見上げて生きてきたのかしら。

  光? それとも……光を失う恐怖?」


その声は、闇に吸い込まれるように消えた。


中溝はすぐには答えなかった。

彼の視線は、星の海に溶け込んでいく微光の群れを追っている。

天井を流れる揺らぎのひとつに――

彼は、かつての友・酒井の面影を見た。


「……観測するために、生きてきたんだ。」


静かに口を開く。


「でも今は、観測されるために生きている。」


アサギが顔を上げた。

中溝の言葉は、まるで消えゆく星の息遣いと重なり、

空間全体を薄い震えで包み込んでいった。


――そのときだった。


星々が、一つ、また一つと消え始めた。

ゆっくりと、秩序を持ったように。

まるで何者かが意図的に“観測を終了”させていくように。


アサギが立ち上がり、装置の操作盤へ駆け寄る。

だがモニターには、異常なし。

LUXが、すでにこの空間に触れているのだ。


残されたのは、ただひとつ。

弱々しく瞬く星。

かすかなノイズを含みながら、それでも消えずに、

最後の光として空に残っていた。


中溝はそれを見上げる。

その小さな光は、誰かの記憶のように儚く、

しかし確かに“生きて”いた。


(ナレーション/中溝の心の声)

「光が記憶を模倣し、記憶が観測を模倣する。

  ――ならば、この星もいつか、都市の夢に組み込まれるだろう。」


星が、ひとつ息をつき、消えた。


闇だけが残る。

完全な静寂の中、ただ機械の余熱が空気をわずかに震わせる。


けれど――その暗黒の中には、

確かに**“誰かが見上げた記憶”**が漂っていた。


光も、AIも、記録も失われても、

人がかつて「見る」という行為に託したものだけは、

まだそこに、微かに生きていた。






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