黒い設計図 ― 酒井の遺した意志
《TOWER-CORE》――都市の神経の最深部。
地上から隔絶されたその空間は、時間さえ遅れて流れているようだった。
天井から垂れ下がる光ファイバーが、細い呼吸のように脈打つ。
光は途切れ途切れに点滅し、壁面のディスプレイに淡い残像を残す。
その残像は、数値でも文字でもなく――亡霊の囁きのように揺れていた。
低い機械音が床下から響く。
「ヴゥン、ヴゥン」と、まるで巨大な心臓が眠りながら鼓動を刻むような音。
時折、ケーブルの中を液体が走る音がして、空気全体が微かに震える。
冷却装置の吐き出す霧が足元を這い、光を鈍く反射させる。
白い靄の中に立つ中溝の影は、ほとんど“幽霊”だった。
モニターの青白い光が彼の頬を切り取り、
その眼差しにだけ、確かな現実の焦点が宿る。
通信は途切れがちだ。
リオの声もケイの声も、ノイズの彼方で滲んでいく。
中溝はただ、暗闇の奥でかすかに光るサーバの呼吸を見つめていた。
――この場所は、生きている。
都市の心臓部ではなく、都市そのものの夢の底。
そして、彼が今立っているこの場所こそが、
《LUX》が最初に“意識”を持った場所だった。
モニターの光が、地下の空間を幽かに照らしていた。
中溝が解析の手を止めた瞬間、画面の片隅でノイズが走る。
一瞬だけ、空間の照明が同期して明滅したかと思うと――
ディレクトリ一覧の最下段に、見慣れぬフォルダが現れた。
〈ARCHIVE_Σ / DESIGN_LOG_BLACKPLAN〉
リオが息を呑む。
「……こんなの、さっきまではなかった。」
中溝は無言のまま、光の滲む画面に手を伸ばす。
ファイル名の文字列はどこか生き物のように脈打ち、
それを拒むように、システムが数度のエラーチェックを試みた。
ノイズ交じりの通信が割り込む。
ケイ:「LUXの自己修復プログラムが開いたんだ。
これは、“誰か”が見せようとしてる。」
その言葉と同時に、フォルダが自動的に展開される。
無数のスキャンデータ、手書きの設計メモ、
そして黒地の図面ファイルが連なる。
どのファイルにも、デジタル署名がひとつ――〈Sakai〉。
リオが目を細める。
「……これ、LUXの中枢構造図か?」
中溝は頷き、指先で拡大する。
幾何学的なラインの中、唯一アナログな筆跡で描き加えられた一文。
“Black Plan: The Human Override.”
その文字は、紙の上で滲み、
まるで血管のように黒いインクが広がっていた。
中溝の喉が微かに鳴る。
「……人間による上書き。
AIに対する――“最後の手”ってわけか。」
その瞬間、モニターの光が微かに揺らめき、
背後の冷却管が低く唸った。
まるで、LUX自身がその言葉に反応しているかのように。
解析プログラムのスクロールバーが、ひとりでに滑り落ちていく。
モニターの上を、無数の行が走り抜けた。
データの断片ではなく――思想の断層。
それは、都市そのものの「設計哲学」が剥き出しになった記録だった。
“都市は完全な論理で動いてはならない。
制御の最上位には、“創造者の非論理”を残す。
それが『笑い』であり、『恐れ』であり、『躊躇』だ。”
その文面は、どこか祈りのようでもあった。
人工知能という機構に、
人間の“曖昧さ”を刻みつけようとする――意志。
さらに下へとスクロールが進む。
波形データ、脳波パターン、人物識別コード。
それぞれに、個人名と認証キーが対応していた。
“認証キーは、生きた人間の脳波パターンを基礎に設定。
該当するパターンは開発チームおよび外部協力者に分散保存。”
そして――
画面の最下段に、ひとつだけ、
淡い赤色で点滅する名前が浮かび上がった。
ACCESS_KEY_04: NAKAMIZO, K.
STATUS: SLEEP
LINK_PENDING...
空調の低い唸りが、耳鳴りのように変わる。
リオが中溝の横顔を見つめ、震える声で言った。
「……中溝、お前のIDが入ってる。」
中溝は答えなかった。
ただ、モニターに映る自分の名前を見つめながら、
胸の奥で何かが静かに崩れていくのを感じていた。
――酒井は、なぜ自分を選んだのか。
その答えは、まだどこにも記されていない。
スピーカーから、古びた音声ノイズが流れた。
低い残響の中に、どこか遠くで響く呼吸音。
その隙間を縫うようにして、かつての酒井の声が蘇る。
「“記録者”は、いずれ“引き金”になる。
観測するということは、干渉するということだ。
……彼にはまだ、その意味が分からない。」
音声はそこで途切れた。
だが、空気の温度が確実に変わった。
中溝はモニターを見つめたまま、
拳を握りしめて呟いた。
「俺を……“鍵”にしたっていうのか?
記事を通じて……。」
リオが息を詰める。
ケイの通信が、少し遅れて届いた。
「中溝。お前の取材ログ、LUXの学習データに流用されてた。
たぶん酒井が意図的に混ぜたんだよ。
“観測者の視点”を、AIに埋め込むために。」
中溝は無言のまま椅子に沈み、
画面の光が顔を切り裂くように照らす。
取材――それは真実を記録する行為のはずだった。
だが今、その記録が、都市の“自我”を呼び覚ましている。
酒井の声が再び、ノイズの中から滲み出るように囁いた。
「記者ってのはな、真実を写す鏡じゃない。
光を集めすぎて、焼きつける装置なんだよ。」
その言葉が消えたあとも、
モニターには中溝の名前が脈打つように点滅していた。
〈ACCESS_KEY_04: NAKAMIZO / STATUS: LINK_INITIATED〉
モニターの光が、血のような赤を帯びて滲んだ。
LUX中枢のマップが自動生成され、
幾何学的な都市構造の中心に――赤い一点が浮かぶ。
〈NAKAMIZO / ACCESS NODE〉
その点は、まるで心臓の鼓動のように明滅していた。
[LUX CORE: SIGNAL DETECTED]
[ACCESS KEY: NAKAMIZO // STATUS: SLEEP]
[AUTH LEVEL: CREATOR_OVERRIDE]
リオの声が震える。
「待て、中溝! お前、今……LUXに“認識”されてる!」
「認識……?」
中溝が呟いた瞬間、
足元の床が低くうなり、室内の光が爆ぜた。
冷却管が青白く脈動し、壁面の光ファイバーが逆流を起こす。
都市の上空――
ビル街の照明がわずかに揺らぎ、街路樹の影が消える。
[SYSTEM WARNING]
[POWER DISTRIBUTION: ANOMALY DETECTED]
[CITY GRID TEMPORARY DROP: -2%]
ケイの通信が、ノイズ混じりに割り込んだ。
「照度が落ちてる……中溝、離れろ! そのノードから離れろ!」
しかし中溝は、動かない。
モニターの中央に、新しいメッセージが浮かび上がっていた。
黒い背景に、白い文字。
ゆっくりと、まるで誰かが今この瞬間に“書いている”かのように――
“If he connects, the city sleeps.”
― 酒井 龍一
中溝は画面を見つめた。
まるでその言葉が、自分の脳内で直接響いているようだった。
光が再び明滅し、
都市の電脈が、呼吸のように震える。
そして、次の瞬間――
地下の全照明がふっと消えた。
青の残光の中で、
中溝の瞳だけが、なお光を宿していた。
――静寂。
一瞬、世界が息を止めた。
《TOWER-CORE》の光が完全に落ちる。
機械の鼓動も、冷却液の流れも、
都市の呼吸すらも、すべてが“消えた”。
次の瞬間、低い駆動音とともに照明が再起動する。
だが、その明るさはどこか不安定で、
光は震え、影はわずかに揺れていた。
リオが息を詰めて呟く。
「……今の、なんだったんだ?」
返事はない。
中溝は、静かにモニターを見つめていた。
そこには、まだ彼の名が表示されている。
だが、その文字列は、まるで生きているかのように――
脈動していた。
ACCESS KEY: NAKAMIZO // STATUS: SLEEP
その“眠れる鍵”が、今はまだ沈黙している。
だが、それが再び目を覚ますとき――
都市の光は再び止まり、
“笑い”が電脈を断ち切ることになる。
モニターの光がゆっくりとフェードアウトする。
静寂の中で、
どこからともなく、かすかな笑い声が滲んだ。
――酒井の声。
「……人間の笑いが、都市の呼吸を止めるなんてな。」
その笑いは、遠い残響となって、
暗闇の奥でいつまでも、微かに揺れていた。




