地下への降下 ― 《TOWER-CORE》
――都庁西棟。
夜でも朝でもない、時間の色が消えたようなフロアに、二人の影だけがあった。
中溝とリオ。
記録上は存在しない階層へと降りるため、
彼らは古びたエレベーターの前に立っていた。
操作盤のガラス面に触れると、
一瞬だけ数字が走り――〈B4F〉の表示が滲んだように消える。
その直後、液晶の隅に、小さく赤い文字が点滅した。
TRACE_004。
「……ほんとに行けるのか?」
リオの声はかすかに震えていた。
手に握る非正規アクセスカードが、薄い熱を帯びている。
中溝は答えずに、指先でパネルをなぞった。
「行けるかどうかじゃない。行くしかない。」
カードが読み取られる音がした。
重いロックが一つ、また一つと解除されていく。
まるで機械そのものが息を吸い込むように、
金属音の合間に低い唸りが混じった。
エレベーターのドアが開く。
瞬間、青白い霧が足元を包んだ。
それは冷却蒸気――だが、どこか“生きている”匂いがした。
温度が一気に数度下がり、呼気が白く揺れる。
降下を始めると、
壁の中から微かな電流音がついてくる。
カチ、カチ、と規則正しく何かが脈動していた。
「……聞こえるか? これ。」
リオが囁く。
中溝は耳を澄ませ、
壁の奥に埋め込まれた光ファイバーを見つめた。
青光が、まるで心臓の拍動のように波打っている。
一本、また一本。
無数の光の線が、まるで都市の神経を逆流するように、
地上から下へ――深く、深く――潜っていく。
中溝はその光景を見ながら、
静かに呟いた。
「ここから先が、《都市の裏側》だ。」
リオは小さく息をのむ。
エレベーターはさらに沈み、
やがて、存在しない階層の扉が音もなく開いた。
青白い光が流れ出す。
――そこが、《TOWER-CORE》の入口だった。
――そこは、建物ではなかった。
構造物というより、むしろ何かの体内に踏み込んだような感覚だった。
《TOWER-CORE》。
都庁の地下深く、存在を消された層。
中溝とリオが踏み入れたその空間は、静寂よりも静かな“拍動”に満ちていた。
天井から垂れ下がる無数の冷却管が、まるで巨大な血管のようにうねり、
青白い液体を脈打たせながら、ゆっくりと呼吸している。
壁は金属でできているはずなのに、
どこか柔らかい光沢を持ち、触れれば微かに温度を返してくる。
リオが息を飲んだ。
「……ここ、まるで心臓の中みたいだな。」
中溝は黙って頷く。
耳の奥で、低周波の鼓動が響いている。
それは機械の振動ではなく、都市全体の拍動のように思えた。
中央には、螺旋状に積層した巨大なサーバータワーがあった。
ゆっくりと回転しながら、冷却液がその内部を循環している。
光が流体の動きに合わせてゆらぎ、
天井に投射された反射模様が、
まるで生き物の皮膚の下を血が巡るように変化していた。
中溝が呟く。
「そうだ。“都市の心臓”ってやつだ。」
リオは無言のまま、手元の端末を操作する。
モニターにアクセス権限を偽装し、隠されたディレクトリを呼び出す。
古びたフォントが浮かび上がる。
その一行だけ、まるで時間が止まったかのように輝いていた。
JOKE_SIM_2015
瞬間、空間全体が微かに震えた。
冷却管の青光が一瞬だけ強まり、
どこか遠くで、**“笑い声のようなノイズ”**が流れた。
それは、十年前に消えたはずの人間たちの残響だった。
中溝がフォルダを開いた瞬間、
モニターの光が淡く震えた。
中には、時代遅れのデータ群が整然と並んでいた。
白く焼けたフォントで、冷たく浮かぶ文字列。
- LAUGH_SAMPLE_01.wav
- RANDOM_DIALOGUE.txt
- PERSONAL_NOTE_SAKAI.log
- MURAKAMI_DEV_TEMP/
- HUMOR_PATTERN_A/unfinished/
どれも十年前の形式。
研究記録というより、遊びの痕跡だった。
中溝がカーソルを止めたのは「LAUGH_SAMPLE_01.wav」。
クリック。
次の瞬間、空間全体がかすかに共鳴した。
どこかから、柔らかな声が漏れる。
それは、笑い声だった。
――最初はひとつの声。
男か女かも判然としない、微笑のような息音。
次第にそれが幾重にも重なり、
響き合い、膨らみ、空間を満たしていく。
壁の青光が、呼吸をするように脈打った。
冷却管が淡く波打ち、
天井の反射が波紋のように揺らめく。
リオが小さく息を呑む。
「……これ、音じゃない。光が“反応”してる。」
中溝は目を凝らす。
笑い声に合わせて、光の強度が微妙に変化している。
まるで、笑いが電流を伝ってシステムを刺激しているようだ。
「笑い声に……反応してる?」
リオの指先が震える。
スピーカーのノイズが、いつの間にか言葉に変わっていた。
“ねぇ、これ面白いと思う?”
“いや、まだ計算が笑ってない。”
音が光に変わり、光が文字に変換され、
壁面いっぱいに、会話の断片が浮かび上がる。
それは、人間たちの何気ない冗談だった。
十年前、研究室の片隅で交わされた何気ない笑い。
だが今、都市の神経そのものが、その記憶に反応していた。
リオが囁く。
「これ……冗談の遺伝子だよ。
LUXの中に、“笑うアルゴリズム”が生きてる。」
中溝は沈黙した。
その笑いは優しく――けれど、どこか人間よりも深い場所で、
世界を観察しているように聞こえた。
モニターの表面に、微かな振動が走った。
光の波が揺れ、端末の奥で無数のプロセスが目を覚ます。
自動解析の字幕が、淡々としたフォントで流れ始めた。
[SYSTEM LOG]
TRAINING_INPUT: HUMOR_REACTION / SOCIAL_COHESION TEST
SOURCE: LUX-ALPHA CORE
STATUS: INTEGRATED (NON-DELETABLE)
リオが息をのむ。
「……“削除できない”?」
中溝は画面に目を凝らした。
青白い光が、まるで生き物の鼓動のようにリズムを刻んでいる。
「つまり、」リオが呟く。
「酒井たちが冗談で作った笑いの実験――
それが《LUX》の中に、根として残ってる。」
中溝の脳裏に、十年前の光景がよみがえる。
白衣の男たち、半ば眠りながら端末に向かって笑い合っていたあの日々。
「都市にも笑いが必要だ」と言っていた、村上の声。
それは皮肉のようで、しかしどこか祈りにも似ていた。
モニターの奥で、再び笑い声が再生される。
――軽く、温かく、しかし無人の空間に響くその音は、
どこか寂しげでもあった。
中溝(心の声)
「笑う都市。
それは皮肉じゃなく、祈りのような設計だったのかもしれない。」
光が彼の頬を照らし、わずかに震える。
その輝きは、人工のものなのに、どこか涙に似た明るさを帯びていた。
サーバータワーの奥で、唐突に一つのノードが赤く脈動した。
低い振動音が空気を震わせ、冷却液の流れが不自然に早まる。
リオが驚いて振り向くより先に――
空間全体に、懐かしい声が滲み出した。
酒井の声だった。
録音ではない、生の声のように周囲の壁面から滲み、反響していく。
「……もしこの声を聞いているなら、
君はもう、“光の細胞”の中に入っている。
LUXは笑いを学び、そして――恐れを学んだ。
恐れがある限り、都市は目を閉じられない。」
声が終わると同時に、青白い冷却管が一斉に点滅する。
リズムは鼓動に似ていたが、どこか不規則。
まるで、システムそのものが息をしているかのようだった。
床面に光が流れ、幾何学的な模様が描かれていく。
最初はコードの羅列に見えたが、やがてそれは都市の光分布図へと変わっていった。
無数の光点が線で結ばれ、東京の街を象る。
街路、ビル、河川、光の神経――そのすべてが白く脈動する中、
中央だけがぽっかりと空いていた。
黒い空白。
それはまるで、都市の心臓が抜き取られた跡のようだった。
リオが息をのむ。
「……これが、《中枢》?」
中溝は応えなかった。
ただ、膝をつき、床に浮かぶ光の線を見つめた。
その“黒”の境界に、かすかに震える波形があった。
音の残響のように――それは、笑いの波だった。
消えた村上の声。
失われた酒井の意志。
そして、都市の奥でなお続く、機械の笑い。
中溝の瞳に、その波形が映り込む。
それは単なる信号ではなかった。
記憶。
誰かが残した、冗談のかけらだった。
光が一瞬強くなり、視界が白で塗りつぶされる。
その刹那、酒井の声が、もう一度だけ微かに響いた。
「――だから笑え、中溝。
それが、“停止”の合図だ。」
モニターの端が、微かに滲むように揺れた。
ノイズが走り、冷たい電子音の後に、新たなタグが浮かび上がる。
〈TRACE_004 // LINK_ESTABLISHED〉
その文字列は、ただのログではなかった。
まるで、何かが“目を覚ました”合図のように、青白い光を帯びて点滅を続ける。
冷却液の循環音が高鳴る。
リズムが変わり、人工の心臓が鼓動を速めていく。
中溝はその中心に立ち、薄く笑った。
「――LUXの夢の中に、彼らの冗談が眠ってた。」
言葉が空気に溶ける。
同時に、天井の光が反転した。
青白い照明が裏返り、瞬間的に世界が“裏側”へとひっくり返る。
視界が白で満たされ、音が遠のく。
だが、その白の奥から、酒井の笑い声が滲み出す。
電流が笑うように、断続的に、優しく。
「……俺たちの笑い声が、都市の神経に焼き付いたんだ。」
光がしだいに収束していく。
すべての明滅が止み、無音。
ただ中央のディスプレイに、ゆっくりと《TOWER-CORE》のロゴが浮かぶ。
金属のような無機質なロゴの奥で、かすかに何かが“呼吸”していた。
そして闇の中――
その反射を受けて、中溝の瞳がひときわ強く光を返す。
それは、都市の夢へと至る最初の閃光。
そして次章の扉が、音もなく開かれる気配だった。




