決意と分裂
朝が、じわりと地下に滲み始めていた。
LUXの照明ネットが自動で昼モードへと移行する時間――都市の呼吸が変わる瞬間だ。
廃ビルの地下に潜むこの小さな空間にも、その“外”の気配は届いていた。
蛍光灯のような人工の光が、細い隙間から床を照らす。
黒かった空気が薄れ、夜の輪郭が崩れていく。
蝋燭の炎は、もう消えて久しい。
残っているのは、焦げた布の匂いと、燃え尽きた芯の黒い痕。
それが、この夜に起こった全ての“証拠”のように、静かにそこにあった。
リオは、落ち着かぬ指で端末のスクリーンを叩いている。
何かを打ち消すように、同じコマンドを何度も入力しては、消す。
焦燥が皮膚の下で脈打っているのが見える。
ケイは黙々とケーブルを巻いていた。
その手つきには、慎重さよりも諦めの色があった。
コードの先端がわずかに火花を散らすたび、彼の目が小さく瞬く。
ミカは、両手を胸の前で組んでいた。
祈りというより、何かをつなぎとめようとする仕草。
目を閉じたまま、唇がかすかに動く。
その声は届かないが、誰もが――同じ無音を共有していた。
誰も口には出さない。
だが、この沈黙の中で、それぞれが“次の一手”を思っていた。
進む者。
留まる者。
迷う者。
外の光が、床の油染みをゆっくりと照らしていく。
その淡い明るさの中で、彼らの顔がひとつ、またひとつと浮かび上がる。
まるで、夜が彼らをひと晩だけ“同じ影”にしていたのだと、今さら告げるように。
そして――夜が終わる。
だが、それは**“救い”ではなく、“分岐”の始まり**だった。
日野は、ノートを静かに閉じた。
パタンという小さな音が、地下の空気に沈む。
その音が、まるでこの夜の記録に終止符を打つ印のように響いた。
彼女は中溝の方へ歩み寄る。
LUXの照明がわずかに明るさを増し、彼女の顔に淡い影を落とす。
その瞳には、記者としての理性と、人間としての疲弊が同居していた。
「……今は、まだ書けない。」
声はかすれていた。だが、その一語一語が重い。
「記事にするには、何かが足りないの。
たぶん、“確信”じゃなく、“覚悟”ね。」
中溝は、ただ頷くことしかできなかった。
言葉を探しても、何も出てこない。
“覚悟”という言葉が、あまりに生々しく、痛かった。
日野は短く息をつき、机の上のメモリを見下ろす。
黒く、無機質な小片。
その中に詰まっているのは、真実か、それとも呪いか。
彼女はそれを手に取ろうとして――やめた。
代わりに、指先を中溝の前で止め、
かすかに微笑むような、諦めるような表情で言った。
「持っていきなさい。
……これは、あなたの物語になる。」
中溝が何か言おうとしたときには、
日野はもう背を向けていた。
出口へ向かう彼女の足音が、廃ビルの床を静かに叩く。
その一歩ごとに、“記録”の世界が遠ざかっていくようだった。
振り返りもしない。
ペンもノートも置いたまま。
――それが、彼女の最後の記者としての判断だった。
残されたのは、中溝と、机の上の小さなメモリ。
今この瞬間から、物語は“記事”の外へと踏み出していく。
報道の光が届かない領域――
そこに、彼自身が足を踏み入れようとしていた。
中溝は、机の上に取り残されたメモリを見つめた。
黒い樹脂片は、まだかすかに温もりを残している。
日野の手から離れた瞬間、それは“証拠”ではなく、“遺言”になった。
彼はゆっくりとそれを拾い上げる。
掌の上に、ひとりの男の声が載っているような錯覚。
――酒井。
命令にも祈りにも聞こえる、その呼びかけが、指先の皮膚の下まで滲みこんでくる。
中溝は、息を整えてから端末に差し込んだ。
カチリ、とわずかな音。
瞬間、画面が淡く光を帯び、文字列が流れ出す。
> RECON% = 67.3%
> TRACE_004: ACTIVE
> LINK: INCOMPLETE CONNECTION
その文字は、生き物のように震えていた。
数字が――上がっていく。
67.3、67.4、67.6……と、まるで鼓動を刻むように。
中溝の胸の奥で、同じリズムの脈拍が鳴っていた。
画面の数値と、自分の呼吸が重なっていく。
リオが小声でつぶやいた。
「……誰か、繋がってる。」
ケイは眉をひそめ、モニターの光を見つめる。
「いや――繋がろうとしてる、だ。」
数値はさらに上昇を続け、微かな電子音が空気を震わせる。
67.9……68.2……68.7……
その上昇は、単なるデータの進行ではなかった。
まるで、LUXという巨大な神経網が、
ひとりの記者の指先を介して再び目を覚まそうとしているかのようだった。
中溝は画面を見つめながら、
自分が“観測者”から“介入者”へと変わりつつあることを、
もう止められないでいた。
リオの声が、湿った空気を切り裂いた。
「もう答えは見えてる。――やるなら今だ。」
その声音には、抑えきれない熱があった。
長い夜の中で蓄積された焦燥と確信が、今にも爆ぜようとしている。
彼の拳は微かに震え、端末のランプの明滅がその震動を照らした。
ケイは無言で彼を見据え、やがて低く言った。
「待て。……酒井の言葉が真実とは限らない。」
彼の声は静かだが、底に冷たい鉄のような緊張があった。
「“止める”ってのは何を意味する? 破壊か、再起か。――俺たちは、まだ何も知らない。」
リオの足が一歩、出口の方へと動く。
彼の背中には、迷いの欠片すらない。
ミカが慌てて立ち上がる。
「リオ、待って!」
しかし、ケイがその肩を押さえた。
「行かせろ。……それぞれの答えがある。」
リオは振り返らない。
ただ、光のない階段を登っていく足音だけが、薄明の空気の中に響く。
その背中が闇に溶ける瞬間、
中溝は初めて“共同体”という言葉の脆さを実感した。
BLACK ZONEの灯りが、一つ、また一つと落ちていく。
ミカは祈るように指を組み、ケイは黙って工具を片づけた。
誰もが、互いを見ようとしない。
やがて、地下の空間には、冷たい光だけが残る。
人工照明が昼モードへと切り替わり、夜の名残を消し去っていく。
――ひとつの夜が終わった。
同時に、ひとつの共同体も静かに崩壊した。
残された者たちは、
それぞれの信じる“正義”を胸に、別々の方向へ歩き出していった。
地下鉄の無人改札。
LUXの白光が、夜明けの残滓を無慈悲なまでに照らし出していた。
床は磨かれすぎた鏡のように冷たく、空気は乾いている。
遠くで空調の風がひとつ唸り、機械の心臓が動く音がした。
中溝は改札の前に立ち、ICカードを掲げかけて――止まった。
指先が空中で静止する。
目の前にあるのは、いつも通りの通勤路。
だが今、その透明なゲートは、境界線のように感じられた。
越えれば、二度と戻れない――そんな予感があった。
背後から、声が落ちてくる。
「……やるなら今だ。」
リオの声だった。
振り返らなくても、その熱を帯びた息遣いが分かる。
挑発でも、鼓舞でもない。
ただ、決意だけがそこにあった。
中溝は何も言わない。
改札の向こう――白光に包まれた都市が見える。
ガラス壁の彼方で、LUXの照明が脈動している。
光の揺らぎが、まるで心臓の鼓動のように同期していた。
その光は、美しくも恐ろしい。
眩しさではなく、“恐怖”として網膜を焼く。
未来が、見えてしまうような恐怖。
彼はゆっくりと手を下ろし、カードをポケットに戻した。
改札を通らず、静かに背を向ける。
――行くべき場所は、別にある。
その瞬間、LUXの光がわずかに揺れた。
都市が、呼吸を止めたかのように見えた。
地上へと続く階段。
手すりの金属が冷たく、そこに触れるたび、夜の余韻が指先を伝って消えていく。
中溝はポケットに手を入れ、あの小さなメモリを確かめた。
硬質な外殻の奥から、かすかな熱が伝わる。
震えている。
それは迷いの震えではない――
決意が形を得る瞬間の、静かな振動だった。
外の世界では、LUXの照明が完全に昼モードへと移行していた。
街は光に満たされ、ビルの壁面が均一な白に輝く。
通りを行き交う人々の瞳には、同じ反射が宿っている。
笑顔。秩序。均整。
そのどこにも、“夜の記憶”は存在しなかった。
中溝は立ち止まり、空を見上げる。
白い空。
輪郭を失った太陽。
その向こうに、見えない“中枢”の気配を感じる。
耳の奥で、酒井の声が再び響いた。
> 「お前の手で、東京を止めろ。」
心臓の鼓動が、光の点滅と同期する。
都市の呼吸と、自分の呼吸が重なっていく。
カメラがゆっくりと引いていく。
LUXの白光が都市全体を覆い尽くし、
人々が同じ速度で動く映像の中――
ただひとり、改札前に立つ中溝の影だけが、
“異物”として残っていた。
その影の中で、ひとつの物語が再起動を始める。




